レディ・マーメイド
「樹莉さま、制服はこちらに掛けておきますね」
「ありがとうございます、神谷さん」
夕食を終えると、樹莉は明日からの勤務に備えて早めに寝ることにした。
神谷が、きれいにアイロン掛けされた私服とホテルの制服を返してくれる。
「あとはなにか、ご入用のものはございますか?」
「いいえ、大丈夫です」
「では明日、6時に朝食を運んでまいりますね。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい、神谷さん」
神谷がにこやかな笑みを残して部屋を出て行く。
(明日から仕事か)
暗い部屋でベッドに入り、ぼんやりと天井を見ているうちに、樹莉は急に不安に駆られた。
暗闇で男に背後から襲われたことを思い出す。
(大丈夫。黒木さんが車で送迎してくれるし、ホテルでは周りに人がいるんだから)
そう自分に言い聞かせるものの、一度湧き上がった恐怖心は更に強くなった。
(犯人は捕まっていないし、ホテルで私を監視していたら? バックヤードにも侵入したようだから、同じようにまた……)
息苦しくなって身を起こす。
大きく深呼吸してから、ふと壁のドアに目を向けた。
隣の部屋の明かりが少し漏れている。
(黒木さんがいるのかな?)
ベッドから下りてドアに近づくと、控えめにノックしてみた。
返事はない。
だがしばらくして、カチャリとドアが開いた。
「樹莉? どうした?」
シャツの袖をまくり、ボタンも上からいくつか開けたラフな装いの亜紋が、心配そうに顔を覗かせる。
「ごめんなさい。お仕事中でしたか?」
奥に目をやると、ソファの前のローテーブルに開いたパソコンとコーヒーカップがあった。
「いや、構わない。眠れないのか?」
樹莉はうつむいてコクリと頷く。
すると亜紋はドアを大きく開いて樹莉の手を取った。
「おいで」
「え、あの……」
そのまま無言でソファまで連れて来られ、樹莉は仕方なく腰を下ろす。
「ノンカフェインの紅茶を淹れる」
「いえ、大丈夫ですから」
そう言っても亜紋は答えず、カップボードに並ぶたくさんの瓶から一つを手に取り、茶葉をティーポットに入れた。
ケトルのお湯を注ぎ、カップと一緒にテーブルに運ぶ。
「ミルクも多めに入れておく」
「ありがとうございます。亜紋さん、紅茶淹れられるんですね」
手際のよさに何気なくそう言うと、亜紋はムッとしたように顔を上げた。
「おい、俺がなにもできないとでも思ってるのか?」
「できないのではなくて、しなさそうだなと思って。男子厨房に入らず、とか言いそうだなと」
「ここのどこが厨房だ?」
真顔で返されて、樹莉は笑いを堪える。
「ほら、飲め」
言葉は脅し文句のようだが、カチャリと優しくカップを置かれた。
「はい、いただきます」
樹莉はカップを持ち上げて、ゆっくりと口をつける。
「美味しいです」
「そうか」
そのまましばらく沈黙が流れる。
やがてポツリと亜紋が呟いた。
「すまない、樹莉」
え?と樹莉は顔を上げる。
突然どうしたというのだろう。
「実は、樹莉を襲った男の目星はついているんだ」
「そうなのですか?」
「ああ。正確には、男を操っている影の犯人をな。だが、証拠はない。警察に話しても、すぐには逮捕されない可能性が高いし、樹莉をきちんと保護してくれるかどうかも怪しい。だから黒木に樹莉を守らせつつ、犯人はしばらく泳がせて、尻尾を掴みたかったんだ。けど、そんな事情は樹莉には関係ない。一刻も早く警察に話して捜査を始めてもらった方がいいだろう。怖くて眠れない思いまでさせて、すまなかった」
亜紋は樹莉にそう言うと、スマートフォンを手に取る。
「これから警察に通報する」
樹莉はハッとして、亜紋の手に自分の手を重ねた。
「樹莉?」
「あの、もう夜も遅いし、これから事情聴取されるのも大変ですから」
なんとか止めようと言葉を続ける。
「だから、今はまだ連絡しなくても」
「そうか。では明日、仕事が終わったら一緒に警察署に行こう」
「えっと、仕事のあとはゆっくり休みたいです。それにガーデンをもう一度見たくて。今日、全部見て回れなかったから」
「それはいいけど、樹莉?」
訝しむように顔を覗き込まれて、樹莉は視線を落とした。
「もう少しだけ、いてもいいですか?」
え?と亜紋が訊き返す。
「一人暮らしの部屋に帰るのは怖くて……。もう少し、ここにいさせてもらえませんか?」
おずおずと顔を上げると、亜紋は樹莉を真っ直ぐ見つめて頷いた。
「もちろんだ。明日もここに帰って来い」
「はい」
樹莉はようやくホッと安心した。
「ありがとうございます、神谷さん」
夕食を終えると、樹莉は明日からの勤務に備えて早めに寝ることにした。
神谷が、きれいにアイロン掛けされた私服とホテルの制服を返してくれる。
「あとはなにか、ご入用のものはございますか?」
「いいえ、大丈夫です」
「では明日、6時に朝食を運んでまいりますね。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい、神谷さん」
神谷がにこやかな笑みを残して部屋を出て行く。
(明日から仕事か)
暗い部屋でベッドに入り、ぼんやりと天井を見ているうちに、樹莉は急に不安に駆られた。
暗闇で男に背後から襲われたことを思い出す。
(大丈夫。黒木さんが車で送迎してくれるし、ホテルでは周りに人がいるんだから)
そう自分に言い聞かせるものの、一度湧き上がった恐怖心は更に強くなった。
(犯人は捕まっていないし、ホテルで私を監視していたら? バックヤードにも侵入したようだから、同じようにまた……)
息苦しくなって身を起こす。
大きく深呼吸してから、ふと壁のドアに目を向けた。
隣の部屋の明かりが少し漏れている。
(黒木さんがいるのかな?)
ベッドから下りてドアに近づくと、控えめにノックしてみた。
返事はない。
だがしばらくして、カチャリとドアが開いた。
「樹莉? どうした?」
シャツの袖をまくり、ボタンも上からいくつか開けたラフな装いの亜紋が、心配そうに顔を覗かせる。
「ごめんなさい。お仕事中でしたか?」
奥に目をやると、ソファの前のローテーブルに開いたパソコンとコーヒーカップがあった。
「いや、構わない。眠れないのか?」
樹莉はうつむいてコクリと頷く。
すると亜紋はドアを大きく開いて樹莉の手を取った。
「おいで」
「え、あの……」
そのまま無言でソファまで連れて来られ、樹莉は仕方なく腰を下ろす。
「ノンカフェインの紅茶を淹れる」
「いえ、大丈夫ですから」
そう言っても亜紋は答えず、カップボードに並ぶたくさんの瓶から一つを手に取り、茶葉をティーポットに入れた。
ケトルのお湯を注ぎ、カップと一緒にテーブルに運ぶ。
「ミルクも多めに入れておく」
「ありがとうございます。亜紋さん、紅茶淹れられるんですね」
手際のよさに何気なくそう言うと、亜紋はムッとしたように顔を上げた。
「おい、俺がなにもできないとでも思ってるのか?」
「できないのではなくて、しなさそうだなと思って。男子厨房に入らず、とか言いそうだなと」
「ここのどこが厨房だ?」
真顔で返されて、樹莉は笑いを堪える。
「ほら、飲め」
言葉は脅し文句のようだが、カチャリと優しくカップを置かれた。
「はい、いただきます」
樹莉はカップを持ち上げて、ゆっくりと口をつける。
「美味しいです」
「そうか」
そのまましばらく沈黙が流れる。
やがてポツリと亜紋が呟いた。
「すまない、樹莉」
え?と樹莉は顔を上げる。
突然どうしたというのだろう。
「実は、樹莉を襲った男の目星はついているんだ」
「そうなのですか?」
「ああ。正確には、男を操っている影の犯人をな。だが、証拠はない。警察に話しても、すぐには逮捕されない可能性が高いし、樹莉をきちんと保護してくれるかどうかも怪しい。だから黒木に樹莉を守らせつつ、犯人はしばらく泳がせて、尻尾を掴みたかったんだ。けど、そんな事情は樹莉には関係ない。一刻も早く警察に話して捜査を始めてもらった方がいいだろう。怖くて眠れない思いまでさせて、すまなかった」
亜紋は樹莉にそう言うと、スマートフォンを手に取る。
「これから警察に通報する」
樹莉はハッとして、亜紋の手に自分の手を重ねた。
「樹莉?」
「あの、もう夜も遅いし、これから事情聴取されるのも大変ですから」
なんとか止めようと言葉を続ける。
「だから、今はまだ連絡しなくても」
「そうか。では明日、仕事が終わったら一緒に警察署に行こう」
「えっと、仕事のあとはゆっくり休みたいです。それにガーデンをもう一度見たくて。今日、全部見て回れなかったから」
「それはいいけど、樹莉?」
訝しむように顔を覗き込まれて、樹莉は視線を落とした。
「もう少しだけ、いてもいいですか?」
え?と亜紋が訊き返す。
「一人暮らしの部屋に帰るのは怖くて……。もう少し、ここにいさせてもらえませんか?」
おずおずと顔を上げると、亜紋は樹莉を真っ直ぐ見つめて頷いた。
「もちろんだ。明日もここに帰って来い」
「はい」
樹莉はようやくホッと安心した。