レディ・マーメイド
再び迫る危機
この平穏がずっと続くような、どこかでもう危機は去ったと思い込むような日々が続いた。

樹莉も、黒木も、亜紋でさえ。

ホテルの繁忙期である夏休みが近づき、忙しくなったこともある。

一時は強く「このままでは終われないし、終わらせない」と意識していたが、それが少し薄れてきた頃、樹莉が再び狙われた。

その日。
いつものようにパレ・ド・フローラでの勤務を終えた樹莉は、ロビーのソファに座っている黒木に目配せしつつ、先輩の静香と一緒にバックヤードの更衣室に向かった。

「すっかり暑くなってきたね。地獄の夏休みが始まるー」

私服のフェミニンなワンピースに着替えながらぼやく静香に、樹莉も苦笑いした。

「でもそれを乗り超えたら、有休取ってのんびり旅行できますよね」
「そうよ。世間が日常生活に戻った頃に、私達の夏休みが始まるの。旅費は安いし空いてるし、おまけに気候もよくて最高よね」
「はい。それを楽しみにがんばりましょ!」

そうね、と笑った静香の手の中で、スマートフォンが鳴り出す。

「あ、彼だ。じゃあね樹莉ちゃん。また明日」
「はい。お疲れ様でした」

もしもしー?と応答しながら静香が出て行き、樹莉もパタンとロッカーを閉める。

(さてと。黒木さんをお待たせしてるし、私も急ごう)

すると更衣室の入り口が開いて、黒い私服姿の30代くらいの女性が入って来た。

「お疲れ様です」

新しいフロントスタッフだろうか。
見慣れないその女性に挨拶すると、その人はツカツカと樹莉に近づき低い声で尋ねた。

「コースターをどこに隠したのよ?」

冷や水を浴びせられたように、樹莉の身体から一瞬で血の気が引く。

(この人、まさか……)

肩の上で切り揃えた黒い髪を揺らしながら、鋭い目つきの女は更に樹莉に詰め寄った。

「あんたのせいで報酬金が入らないのよ。早くコースターを返しなさい!」

樹莉は震えそうになる声で懸命に答える。

「持ってません」
「うそばっかり! それともなに、既に暗号を解いて金を手に入れたの? それならあんたを痛めつけて金の在り処を吐かせるしかないわね」

ゴクリと樹莉が喉を鳴らした時、更衣室のドアが激しく叩かれた。

「樹莉さん!」と黒木の声がする。

女はチッと舌打ちすると窓に駆け寄って全開にし、壁際の椅子に足をかけて、あっという間に脱出した。

「樹莉さん!」

ドアを蹴破って黒木が入って来る。

「無事か!?」
「ええ。でも逃げられてしまいました」

樹莉が窓の向こうに目をやると、黒木は悔しそうに顔を歪めた。

「ごめん、油断した。ケガはない?」
「ありません。黒木さんのおかげで助かりました」
「……支配人と亜紋さんに連絡しよう。こうなった以上、警察を呼ぶしかない」

真剣な眼差しの黒木に、樹莉も「はい」と頷いた。
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