女王陛下は愛されすぎている! 〜その男、女王に不敬につき〜

第1話 白鐘のない場所

 土砂降りの夜の中、橋の上で、わたしは一人膝をついて絶望していた。

 白い寝衣は雨水を吸い、ただただ、冷えきった身体を凍らせた。

 足の裏は焼けるように燃え、痛みすら遠のいて、自分のものですら分からなくなる。

 それでも、橋の向こうへ行きたかった。

 優しい鐘の鳴る教会へ。
 
「生きていていい」と教えてくれた場所へ。

「お母様……お父様……ごめんなさい」

 わたしの声は雨音に消えるはずだった。

 けれど、その声を彼が聞いてくれていた。

「クラルシア」

 低い声が、雨の向こうからわたしの名を呼ぶ。

 物語に出てくるような白馬の王子様とは程遠い。

 妖しげな黒い外套。高い背丈。鋭い目。

 雨雲を裂いた月光が彼の輪郭を照らす。 

 王宮の誰もがわたしを女王と呼ぶ中で、彼だけが、わたしをただの少女としてみてくれた。

 だから、その夜、わたしは初めて知った。
 王子様は、白馬に乗って現れるとは限らないのだと。

⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯

 水の中では、音が遠かった。

「ごぼっ……ごぼ、っ……!」

 顔を、桶の水に押し込まれている。

 冷たい水が鼻から入り、喉の奥が焼けるように痛んだ。息をしようとすればするほど、水が入ってくる。胸の内側が熱く膨れ、頭の奥が白く弾けそうになる。

 クラルシアは両手で桶の縁を掴んだ。

 けれど、背後から髪を押さえつけられ、顔を上げることができない。

 金の髪が、水の中でほどけていく。

 細く、淡く、光を含んだその髪が、冷たい水の中でゆらゆらと揺れていた。

 まるで、自分の身体だけが別の場所へ沈んでいくようだった。

 遠い。

 苦しい。

 息が、できない。

「苦しい……お願い、やめて……!」

 ようやく顔を引き上げられた瞬間、クラルシアは激しく咳き込んだ。

 喉が痛い。

 胸が苦しい。

 濡れた髪が頬に張りつき、息を吸うたびに喉がひゅう、と細く鳴った。

 水なのか、涙なのか分からないものが、睫毛の先から落ちていく。

「やめるわけないでしょ」

 主犯格の少女が、冷たい声で言った。

 同じ教会に保護された孤児。少し年上の少女だった。整った服を着て、きちんと髪を結い、シスターたちの前ではいつも礼儀正しく微笑んでいる。

 けれど今、その顔には、笑みしかなかった。

「こいつ、また男に色目使ったらしいよ」

「知ってる。トーマスとテリーでしょ。ほんと最悪」

「見た?また目を伏せてたの。あれ、わざとでしょ」

 違う。

 クラルシアは、心の中でそう叫んだ。

 色目など、使った覚えはなかった。

 男子の方など、極力見ないようにしていた。目が合えば、勘違いされる。勘違いされれば、噂になる。噂になれば、こうしてまた責められる。

 見てもいけない。

 笑ってもいけない。

 黙っていれば、気取っていると言われる。

 怯えて俯けば、可愛い顔で同情を引いていると言われる。

 何をしても、同じだった。

 クラルシアがそこにいるだけで、誰かが怒る。

 クラルシアがそこにいるだけで、誰かが騒ぐ。

 クラルシアがそこにいるだけで、誰かが彼女の罪を作り上げる。

「ほんと、気持ち悪い」

 水を吸った服を乱暴に引かれ、クラルシアは冷たい床の上へ突き飛ばされた。

 石の床は氷のようだった。

 濡れた布が肌に貼りつく。身体の線が出るのが嫌で、クラルシアは腕で胸元を隠すようにして、震えながらうずくまった。

 寒い。

 気持ち悪い。

 見ないで。

 誰も、見ないで。

「うわ…なんかこいつ胸まで大きくない?男に媚びるために生まれてきたんじゃないの?」

「やだ、ほんとにそう見える」

「その顔、わざとらしいんだよね」

 少女たちは笑った。

 その中の一人は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。怖がっているようにも、気まずそうにも見えた。

 けれど、止める者はいなかった。

 止めない者も、同じだった。

「ちょっと、傷はつけないようにね」

 主犯格の少女が、低く囁いた。

「証拠が出たらまずいから」

 その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残った。

 傷をつけてはいけない。

 けれど、傷つけることはやめない。

 その冷たさが、クラルシアには何より怖かった。

 顔に傷をつけてはいけない。

 肌に痕を残してはいけない。

 綺麗なままでいなければならない。

 けれど、その内側がどれほど怯えても、壊れても、誰も気にしない。

「クラルシアって名前、何? 王族気取り?」

「生意気」

「ほら、許してほしいなら謝りなよ」

「土下座して」

 クラルシアは、震える手を床についた。

 いつものように。

 そうすれば、少しは早く終わるから。

 そうしなければ、もっとひどくなるから。

「もう……許してください」

 声が震えた。

「お願いします」

 少女たちは笑った。

「見て、また泣いてる」

「面白い」

「顔に傷つけられないのが残念だわ」

「そろそろシスターが戻ってくるよ。やめよ」

 足音が遠ざかっていく。

 笑い声も、やがて廊下の向こうへ消えた。

 クラルシアは、しばらく動けなかった。

 悔しさよりも、恐怖が勝っていた。

 怒りよりも、寒さが身体を支配していた。

 濡れた髪から、水滴が落ちる。

 ぽたり。

 ぽたり。

 それが水なのか涙なのか、もう分からなかった。

 震える手で、濡れた服をゆっくり整える。

 布が肌に張りついて気持ち悪い。冷たくて、重くて、息がしづらい。けれど、ここに残ってはいられなかった。

 見つかる前に、戻らなければならない。

 何もなかった顔をしなければならない。

 そうしなければ、また怒られる。

 クラルシアは濡れた足で廊下へ戻った。

 石の床に、足跡が薄く残る。

 一歩。

 また一歩。

 その跡さえ、自分の罪の証拠のように思えた。

 すると、ちょうどシスターが角を曲がってくるところだった。

 クラルシアを見るなり、彼女の顔が歪む。

「またあなたなの!」

 乾いた音が響いた。

 頬を叩かれたのだと、遅れて分かった。

 痛みより先に、驚きが来た。

 そのあとで、じん、と頬が熱くなった。

「どうしてあなたは、いつも問題ばかり起こすの! 少しは周りに迷惑をかけないようにしなさい!」

 ヒステリックな声が、石の廊下に響く。

「水場で騒ぎを起こしたのでしょう? あなたがいると、いつも男子も女子も揉めるのよ!」

 違います。

 わたしではありません。

 そう言えばよかったのかもしれない。

 けれど、言えなかった。

 言っても、誰も信じない。

 だからクラルシアは、頬を押さえたまま、ただ立っていた。

 喉が痛い。

 身体が寒い。

 息が苦しい。

 けれど、それよりも胸の奥が冷たかった。

 美しいから、憎まれる。

 ならば、この顔は祝福ではない。

 呪いだ。

 クラルシアは、濡れた睫毛を伏せた。

 その奥で、遠い白鐘の音が鳴った気がした。

 聖ルミナ教会。

 白鐘の小教会。

 シスター・テレサの温かな手。

 あの人なら、きっと抱きしめてくれた。

 泣いてもいいと言ってくれた。

 ここにいていいと言ってくれた。

 食べてもいい。

 眠ってもいい。

 笑ってもいい。

 生きていていい。

 そんな当たり前のことを、当たり前のように言ってくれた。

 なのに、ここにはいない。

 ここには、白鐘の音もない。

 朝の光もない。

 焼きたてのパンの匂いもない。

 あの温かな手もない。

 ここにあるのは、冷たい水と、石の床と、濡れた服の重さだけだった。

 クラルシアは声にならない声で、ただ一人の名を呼んだ。

 テレサ様。

 どうして。

 どうして、わたしをここに置いていったのですか。

 答えはなかった。

 代わりに、シスターのため息だけが落ちた。

「早く着替えなさい。その姿でうろうろしないで。みっともない」

 みっともない。

 その言葉に、クラルシアは小さく頷いた。

 謝れば終わる。

 黙っていれば終わる。

 笑えば、少しだけ早く終わる。

 だから、クラルシアは覚えた。

 泣く時は、音を立ててはいけない。

 痛い時は、顔に出してはいけない。

 誰かに見られても。

 誰かに憎まれても。

 誰かに奪われても。

 それが、クラルシアに与えられた最初の恐怖だった。

 それから、何年も経った。

 クラルシア・ヴァイスヴェールは、女王になった。

 金の髪は、今も美しいと言われた。

 白い肌は、今も王国の宝だと言われた。

 小さな身体も、華奢な手足も、怯えを隠す微笑みでさえ、民を慰める女王の美徳だと褒められた。

 誰もが、彼女を見ていた。

 女王として。

 王家の血として。

 美しい象徴として。

 国の未来を宿すべき身体として。

 けれど、誰も知らない。

 白い衣の下で、彼女がいまだに水の冷たさを覚えていることを。

 褒め言葉のたびに、胸の奥であの石の床が蘇ることを。

 美しいと言われるたび、息が少しだけ苦しくなることを。

 そして十八歳の春。

 王宮は、微笑みながら彼女に告げた。

 王家の血を、残していただかねばなりません。

 その言葉を聞いた時、クラルシアは、なぜか遠い水音を思い出した。

 ごぼり、と。

 息の出来ない水の音を。

 美しいままでいろ。  

 傷を残すな。  

 誰かのために、その身体を差し出せ。

 あの頃と何が違うのだろう。

 言葉だけが、少し綺麗になっただけではないのか。

 クラルシアは、膝の上で指を重ねた。

 逃げられない。
 拒めない。

 女王である限り、彼女の身体さえ国のものになる。

 けれど、その時。

 胸の奥で、かすれた鐘の音が鳴った気がした。

 白鐘の小教会。

 クラルシアは、静かに息を吸った。

 もし、どうしても婚姻を受け入れろと言うのなら。

 せめて、最後に一つだけ。

 自分の心を守るための条件を出そうと思った。
< 1 / 4 >

この作品をシェア

pagetop