女王陛下は愛されすぎている! 〜その男、女王に不敬につき〜

第3話 トルガ・ラグレイ

 王都下層区に、銀靴が来た。

 その知らせは、鐘よりも早く路地裏を駆け抜けた。

 痩せた子供たちが、木箱の陰へ潜る。

 露店の老婆が慌てて布を引き、腐りかけた果物を抱えて奥へ引っ込む。

 日銭を稼ぐ男たちは顔を伏せ、女たちは戸口を閉ざした。

 下層区の空気が、音もなく縮んでいく。

 王都保安団。

 王都の秩序を守る精鋭。

 王宮の書類には、そう記されている。

 けれど、この街で彼らをその名で呼ぶ者はいない。

 磨き上げた軍靴で泥道を踏み、貧民の戸口を蹴り、都合の悪い者だけを連れていく連中。

 貴族街では秩序の象徴。

 下層区では恐怖の足音。

 だからこの街の者たちは、彼らをただ一言で呼んだ。

 銀靴、と。

「トルガ・ラグレイはどこだ」

 王都保安団の男が、路地の中央で声を張った。

 返事はなかった。

 泥道に、銀の飾りがついた軍靴が沈む。

 そのたびに、路地の住人たちはさらに奥へ身を引いた。

 保安団の後ろには、王宮から遣わされた使者が一人立っていた。

 深緑の外套をまとい、手には封蝋つきの書状を持っている。

 その顔には、隠しきれない嫌悪が浮かんでいた。

 下層区の匂いを、肺に入れたくないという顔だった。

「聞こえぬのか。トルガ・ラグレイを出せ」

 保安団の男が、近くに積まれていた木箱を軍靴で蹴った。

 乾いた音が、路地に響く。

 木箱の陰に隠れていた子供が、小さく肩を震わせた。

 その時、奥の暗がりから、低い笑い声がした。

「銀靴が黒犬を探してやがる」

 誰かが囁いた。

「また死人が出るぞ」

「馬鹿、黙れ」

 路地の空気が、さらに張り詰める。

 銀靴たちは、誰一人として奥へ踏み込もうとはしなかった。

 人買いの倉庫を一夜で潰した男。

 違法賭場の用心棒を何人も路地に転がした男。

 密売組織の帳簿を燃やし、売られかけていた子供たちを逃がした男。

 噂の真偽は分からない。

 けれど、銀靴たちは知っていた。

 この路地で黒犬の名を呼ぶ時は、命令書よりも間合いの方が重要になる。

 次の瞬間、暗がりから一人の男が現れた。

 全身を黒に包む外套。
 手入れの悪い黒髪。
 鋭すぎる目。

 長身だった。

 けれど、貴族の騎士のような厚みはない。
 
 飢えと路地裏と喧嘩で、余分なものだけを削ぎ落としたような身体だった。

 骨と筋だけで立つ、黒い影。

 王都の泥と血の匂いに、あまりにも馴染んだ男。

 トルガ・ラグレイ。

 下層区で黒犬と呼ばれる男は、王宮の使者と王都保安団を一瞥した。

「俺に用か」

 低い声だった。

 保安団の男が眉をひそめる。

「トルガ・ラグレイだな」

 銀靴の一部はトルガの顔を1度はみたことがあるようで、忌々しげに睨みつけていた。

「だったら何だ」

「王宮より召喚命令が出ている。直ちに同行せよ」

「帰れ」

 トルガは、一瞥もせず答えた。

 使者は一瞬、言葉を失った。

 保安団の一人が、剣の柄に手をかける。

「貴様、王宮からの命であるぞ。下層区の無法者風情が――」

 言い終わる前に、トルガの視線がそちらへ向いた。

 それだけだった。

 だが、剣にかけられた手は止まった。

 保安団の男の喉が、かすかに鳴る。

「王宮の命だろうが、銀靴の命だろうが知らねえ」

 トルガは淡々と吐き捨てた。

「俺はてめえらの犬じゃねえ」

 周囲の路地に、かすかな笑いが漏れた。

 だが、誰も大きくは笑わない。

 銀靴の前で笑えば、あとで何をされるか分からない。

 使者は怒りを押し殺すように息を吸った。

「女王陛下より、貴様を王宮へ召すよう命が下っている」

「女王が俺に何の用だ」

「それは王宮で聞け」

「見世物か」

「口を慎め」

 トルガは使者を見た。

「慎ませたいなら、まともな用件を持ってこい」

 使者の頬が引きつる。

 だが、怒鳴り返すことはしなかった。

 この男に怒声は効かない。

 そう直感したのだろう。

 使者は懐から、一枚の古い紙片を取り出した。

「聖ルミナ教会の件だ」

 その名が出た瞬間、路地の音が一つ消えた。

 トルガの目から、色が消える。

 それまで泥の上に立っていた黒犬が、ほんの一瞬だけ、別の場所を見た。

「……今、何つった」

 低い声だった。

 使者は、初めて自分が踏んではならないものを踏んだことに気づいたように、わずかに背筋を正した。

「聖ルミナ教会。かつて王都外れにあった小教会だ。保護記録に、貴様の名が残っている」

 トルガは黙った。

 路地の空気が冷える。

 銀靴たちも、無意識に半歩下がった。

「シスター・テレサを覚えているか」

 使者がその名を口にした時、トルガの表情から完全に色が消えた。

「……その名前を餌にしたなら、覚悟はできてんだろうな」

 声は荒くなかった。

 むしろ静かだった。

 だからこそ、使者の背に冷たいものが走った。

「餌ではない。これは正式な記録に基づく照会である。女王陛下は、聖ルミナ教会に所縁のある者との面会を望まれている」

「女王が」

「そうだ」

「聖ルミナ教会に?」

「そう言っている」

 トルガは、使者の手元にある古い紙を見た。

 焼け焦げた端。
 煤の跡。

 かつて小教会にあったはずのもの。

 朝になると鳴っていた、鐘の音が、耳の奥で一瞬だけ蘇る。

 盗まなくても、パンが出た。
 寝ている間に殴られなかった。
 名を呼ばれた。

 あの細い腕のばばあが、どういうわけか、スラムのガキにまで祈れと言った。

 ――罪人は、一生許されないのですか。

 うるせえ。

 トルガは心の中で吐き捨てた。

「その名簿」

 トルガは低く言った。

「どこで拾った」

 使者が眉を動かす。

「燃え残りを漁ったのか。てめえら」

「王宮保管庫に移されていた記録の一部だ。焼失前に提出された写しが残っていた。これはその後に発見されたものだ」

「几帳面なばばあだな」

 トルガは吐き捨てるように言った。

「死んだあとまで迷惑をかけやがる」

 使者は顔をしかめた。

 だが、その声にあったのは嘲りではなかった。

 悪態でしか、死者を呼べない男の響きだった。

「では、同行するのだな」

 保安団の男が、強気を取り戻したように言う。

 トルガはゆっくりとそちらを見た。

「銀靴」

「何だ」

「勘違いすんな」

 トルガの声は低い。

「俺は王宮に従うんじゃねえ。女王に尻尾を振るわけでもねえ」

 トルガは、使者の持つ名簿から目を離さなかった。

「三ヶ月パン食わせてもらった借りだ。……それ以上でも以下でもねえ」

 使者は小さく息を吐いた。

 安堵か、困惑か、自分でも分からぬ息だった。

「では、支度を」

「いらねえ」

「しかし、王宮へ参るのだぞ。その格好では――」

「この格好で呼んだのはそっちだろ」

 トルガは外套を軽く払った。

 泥が落ちる。

 だが、落ちきることはなかった。

「案内しろ」

 保安団の男が顔をしかめる。

「貴様――」

 その言葉は最後まで続かなかった。

 トルガが一歩近づいただけで、男は黙った。

「俺を呼んだのは王宮だ」

 トルガは言った。

「連れて行くのもてめえらの仕事だろ」

 それだけ言うと、トルガは路地の奥を一度だけ振り返った。

 木箱の陰から、子供たちがこちらを見ている。

「今日は外に出るな」

 低い声だった。

 子供がびくりと肩を震わせる。

「銀靴がいる」

 子供は小さく頷き、すぐに闇へ消えた。

 使者は、その様子を見てわずかに眉を動かした。

 この男は、子供に声を荒げなかった。
 怒鳴る必要すらなかった。

 下層区の子供たちは、銀靴よりも黒犬の言葉を聞く。

 使者はその事実だけで、この男がただの無法者ではないことを理解した。

「行くぞ」

 トルガはそう言って、王宮の方角へ歩き出した。

 銀靴たちは慌てて道を開ける。

 王宮から来た使者は、この男を連れて帰ることが本当に正しいのか、分からなくなっていた。

 だが、もう遅い。

 聖ルミナ教会。

 シスター・テレサ。

 その二つの名は、下層区の黒犬を王宮へ引きずり出すには、十分すぎる鎖だった。

 トルガは一度だけ空を見た。

 王宮の方角には、白い塔が霞んで見えていた。

 似合わねえ場所だ。

 そう思った。

 だが、足は止めなかった。

 あのばばあの名前を出された。

 なら、行くしかない。

 それだけだった。

 王宮の白い床が、下層区の泥を知るのは、その日が初めてだった。
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