次の世界でも、私を探してくださいね。

34

 その朝、遠音皇子は重苦しい気持ちで目覚めた。心の洞窟の奥から、ひしひしと孤独を感じさせる淋しい風が吹いている。
 これは、なぜだ。
 その沈んだ気持ちは午後になっても元に戻らず、逃げるようにして町に出かけたものの、かといっておもしろいことはひとつもなく、泊りの予定を早めに切りあげて宮廷に帰ってきた。
 
 その時、麗園から夜空に響くハリのある音楽が聴こえ、中を覗くと、竹香が幻想的に舞っているのが見えた。
 物語のような絵に、思わず引き込まれて、息を呑んだ。
 
 竹香は芍薬の鑑賞会だと言っていたはずだったが、自身が踊っていた。自分の前で踊ったよりも、何倍も情熱的で、魂がこもっていた。
 私はこういう舞いが見たかった。
 これが私のために用意されたものではないということが、納得いかない。
 
 今朝の寂寞たる暗闇のもとはそのせいだ。
 ああ、この疎外感がやりきれない。
 
 前に、鬱な朝に辟易していた時、明るい朝を迎えたことがあった。またああいう気分になりたいのに。
 
 遠音皇子はため息をついた。ますます不幸にはいりこんでいく感じがしている。これをどうにか止められないものだろうか。
 皇子は何かにつけ竹香のことが思い出されてならないのだが、考えていくうちに、ムカムカしてきた。
 この時が、愛しさが憎しみに豹変した瞬間だったかもしれない。
 
 昨夜、竹香が離山と親しげに話していた場面が浮かんできた。
 また離山だ。
 あの男は何なのだ。それにしても、離山を招待して、私を招かないというのは腹だたしい。
 私を誰だと思っているのだ。
 そう思うとますます腹が立ってきて、抑えられなくなった。
 わぁーっ、
 皇子は大声を叫んだ。気が違ったかもしれない。その原因はあいつだ。

「麗園の竹香を呼べ」
 と皇子が叫んだ。

 翌日、遠音皇子から呼び出された時、竹香は鑑賞会の打ち合わせなのだろうと思って、軽い気持ちで出かけた。そう、踊るのなら、芍薬が一番美しい時のほうがよいわね。

 前に遠音皇子を訪れたのは夜だったが、昼の宮殿というのはさすがに豪華で、金箔が天井にも、家具にも、ふんだんに使われていた。人間の権力者は金色が好きだと聞いたことがあるが、本当だと思った。

「今年の芍薬は経年より見事に咲きましたね。母上も喜んでおられるでしょう」
 と皇子の声は穏やかである。
「ありがとうございます」

「昨日の芍薬鑑賞会はいかがでしたか」
「大盛況でした。みなさんに、とても喜んでもらいました」
「それはよかった」

「それで、殿下の鑑賞会は、いつがよろしいのでしょうか」
「あれはもういい」
 皇子は指をはじくように振って、けんもほろろに言った。
「えっ、はい。では、そのように」

 私は本来ならば、あの会の主賓のはずだ。それなのに竹香が自分を招かなかったのは実に不愉快だが、あっさりと「そのように」と引き下がるのも、いまいましい。

「なぜかわかるか」
 皇子の声は低かったが、威圧感があった。
「……いいえ」
「あそこは私の庭だ。私のための芍薬だ。だから、見たい時に、行けばよいのだ。そうではないか」
「はい、そうです」
 微妙に冷たい空気が流れてきたので、竹香は不安になってきた。

「そなたは客に舞ってみせたそうだな」
「はい」
「その踊りを、今度は私にも披露しようというのか」
「はい。そのつもりでしたが」

 遠音皇子の目の色が暗くなったように見えて、竹香はぎくりとして、身体が冷たくなった。

「下衆《ゲス》の連中が見たあとで、この私に見せようというのですか」
「すみません、そういう意味ではありませんでした。もし来てくださるのでしたら、もちろん、新しい踊りにします」


「まあ、いい。母上の庭をいつも大切に守ってくれて感謝しています」
「ありがとうございます。すばらしいお庭で働くことができて、わたしは幸せ者です。わたしにのすべきところやまた新しいお考えなどがおありでしたら、何なりと申しつけください」
「いや。今までのように、やってくれればいい。庭には、満足している」
「ありがとうございます」
 皇子の機嫌が晴れたようなので、竹香はほっとして、微笑んだ。嵐が来るかと思ったら急に晴れたりして、変化の多い殿下で、対応するほうは気疲れしてしまうわ、と竹香は内心ため息である。

「竹香、あなたはすごくいい笑顔をしていますね、そんな笑顔が毎日見られたら、きっと幸せなことだろうと思います」
「ありがとうございます」

「あなたの好きなことは、庭と踊りとナツメ餅でしたね」
「はい、よく覚えておられますね」
「覚えていますよ。私を誰だと思っているのですか」
「すみません」
 皇子の感情の起伏が激しい方なので、竹香はもっと気をつけなければならないと身体を固くした。

「そのナツメ餅を、一度、ご馳走になりたいものです」
「皇子さまが好まれるようなものではありません」
「そんなことはないですよ。あなたはいつもそう勝手に決めて、私を遠ざけますね」
「そういうつもりではありませんでした。すみません」
 皇子がまた気分を害してしまわれたようである。やれやれ。

「ところで、あなたの夢は何ですか」
 また穏やかな声に戻った。
「夢ですか。夢は、……」
 竹香が眉毛を八の字にした。何と答えれば、よいのだろうか。粗相がないように返答しなければ。
「それは……」
「それは何ですか」
「それは……大切な人と、ともに生きていくことです」
「それが夢ですか」
「はい」
「あなたには、そういう人がいるのですか。ともに生きていきたいという人が」
「はい」

「あなたの相手というのは、あの足の悪い官僚ではないですか」
「はい」
「やはりそうなのですか。私の出番はないですか。もう遅いですか」
「どういう意味でしょうか」
「先日も申しこんだつもりでしたが、私も幸せになりたいのです。私がもう一度、立候補したら、どうでしょうか」
「皇子さまが、何に立候補なさるのですか」
「あなたと人生を歩く相手に」

「まさか」
「まさか、はないでしょう。無礼ではないですか」
「すみません」
「あなたは覚えてはいないのですか。この間も言いましたよね。答えはもらえていませんが、私は本気です」

「わたしは教養もないですし、宮廷の作法も知りません。わたしが相手では、殿下が恥をかかれるばかりです」
「それはかまわないのだよ。私がかまわないと言っているのだ」
 皇子の声が大きくなった。

「私が恥をかくとかなんとか、あなたはまた勝手に決めましたね。実に悪い癖だ。やめなさい」
「すみません」
「……まあ、いい」

 重すぎる乱気流につぶされそうで、竹香はここから一刻も早く立ち去りたい。

「あなたが、私のことをどう思っているか聞かせてください」
「はい。……よい方だと思っています」
「好いてくれていますか」
「好ましいお方だと思っています」
「まあ、とにかく、好ましいと思ってくれているのなら、それはよかった。時間をかけて、好きになってください。私も好きになってもらえるように努めますから」
「ありがとうございます。でも、……」
「でも、どうなのですか」
「わたしがともに生きていきたい人は、もう決まっていますから」

「そうですか。そういうことですか」
 皇子が立ち上がって、腕を背中に回して、歩き回った。
「竹香、あなた無知な人ですね。何も知らない人ですね。常識というものがない」
「すみません」
「あなたが私に対して、どれほど侮辱的な態度をしてきたのか、わかっていないようですね」
「わたし、どんな侮辱的なことをしたのでしょうか」

「その足の悪い男が官僚でなくなったら、どうしますか。私には、人の首を切るなんてことは、簡単です」
「何を言われるのですか。離山さまのような優秀な人材を失うのは、国家の損失です」
「国家のことは、私が決めます。あなたが口を出すことではない。あなたが私に対してどんな無礼を言っているのか、自覚しているのですか」
「無礼なことを言ったのでしたら謝りますが、そんなことを言ったでしょうか」

「何もわかっていない。おまえこそ、もう首だな。仕事を失ったら、どうしますか」
「わたしは宮廷の仕事を失っても、生きていけます。わたしは洗濯ができますから、食べていけます」
「センタク?」
「そうです。わたしは洗うのが速くて、仕上がりがきれいだと評判なのです」
「私はなんという低層の人間と口をきいているのだろう」
 彼は腰に手を当てて、空を仰いだ。

「これが最後ですからね。よく聞くのですよ。私はこれまで、ほしいものを手にいれなかったことがないのです。おまえを手にいれようと思えば、できるのですよ」
「やめてください、遠音皇子さま、その言い方、こわいです」
「そうですよ。ようやくわかりましたか。私はこわい存在なのです。誰も、私の要請を断れないのです」
「どうしてですか」
「私がそういう立場にいる人間だからです。国民の幸せは私達が考える、それが天命です。おまえ達平民は、皇帝や私の幸せのために、尽くすのが義務だ。だから、おまえ達はそれだけを考えていればよいのだ。言われたように、やっていればよいのだ」
「わたし達は心を持った人間で、ものではありません。ここで、失礼します。お茶をありがとうございました」
 竹香が勢いよく立ち上がったので、椅子が鳴った。

「待て」
 遠音皇子の声がすごんでいたので、竹香は青い顔をして振り返った。

「無作法な者よ。ここでは、私が帰れという前に、帰ることはできないのだ。勝手に決めるなと言ったはずだ。座れ」
 遠音皇子の表情が引きつって、皺に影ができている。

「おまえは調子に乗り、度を越して、何でも勝手に決める。芍薬麗園に人を招いたことも、そうだ。それが癇に障る」
「先ほども言いましたが、殿下から許可はいただいております。前に踊った夜、ご褒美をくださると言われたので、世話になった人たちに麗園を見せたいと言ったら、許可をくださいました」
「人に芍薬を見せることには許可したかもしれないが、踊ることは聞いてはいない。それに、音楽部の連中を勝手に使ったというではないか」
「そういうことではありません。麗園の使用届は出しました」
「誰の許可を取ったかと訊いているのだ」
「あれでよろしいのかと思いました」
「麗園の所有者は誰だと訊いているのだ」
「所有者は遠音皇子さまでいらっしゃいます」
「私の許可を得たのか」
「そう思っておりましたが、私の誤解でしたら、どうすればよろしいのでしょうか。始末書を書けばよろしいのでしょうか」
「紙1枚で済むと思っているのか」

「では、何をどうすればよろしいのでしょうか」
「追って知らせる。帰ってよい」
 
 竹香は金色の宮殿を振り返りながら、宮廷が、初めてとてもおそろしい場所に思えた。ここに母がここにいたという軌跡は何もない。でも、もしいたとしたら、ここの恐ろしさを感じて、密かに、身を隠してしまったのかもしれない。ここはトラブルと頭痛の倉庫だ。長くいるところではない。
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