愛する君を消す
最初の祈り
葬儀の最後、棺の窓は開けなかった。お母さんがそう決めた、と誰かが小声で言った。顔を見ないまま、彼女は花の下にいた。
翌々日の夜中、三時を過ぎていた。机のスタンドだけが点いていた。卓上カレンダーは葬儀の日にめくったまま、誰もめくっていなかった。
机の端に、預かったままの布張りの本が置かれていた。二十三日の夜、玄関先で「明日、遅れずに来てくださいね」「五時に、待ってますから」と笑った声が、まだ耳の奥に残っていた。
机の上にはもう一つ、紙の袋。病院の帰り、コートの内ポケットから取り出したものだった。中身は袋から出して裸のまま置いていた。白地に紺の紐のお守り。明日、渡すはずだったもの。
窓の外はずっと黒く、ときどき遠くで車が一台通った。
桜井さんの声がいつから頭の奥に流れていたのかは、わからなかった。
「祖母が、若い頃に、ここでなにかあったみたいで」
「結ばれなかった、と聞きました」
夏祭りの夜の、神社の木のベンチの上の平らな声だった。
——二つの心から、面影を消し去るしかない。
ベンチの声の終わりのところだけが、ひと続きで頭の中で立ち上がった。
馬鹿げている、と頭の隅でわかっていた。こんなことをして、戻るはずがない。
それでも、ほかに行ける場所がなかった。彼女が連れて行ってくれた、あの場所だけだった。
***
立ち上がった。コートを取り、濃紺のマフラーを巻いた。財布と電話だけ入れた。机の端の布張りの本に目が止まった。
——返したい。
思った。
お守りを取り上げて内ポケットの右に入れた。家を出た朝と同じ位置に。
——これも持って行く。
布の感触をコートの上から一度確かめた。
***
始発に乗った。車両には三人いた。優先席の端で、年配の男が膝の上に両手を重ねて眠っていた。中ほどの座席で、コートの肩を斜めにした女が文庫を開いていた。最後尾の窓際に、若い男が額を窓硝子に押しつけて、外の暗さに目だけを開けていた。誰の顔も、輪郭の手前で止まっていた。視界に入って、入ったまま奥へ進まなかった。
駅を降り、坂をひとつ越えた。塀の上の紫陽花はもう枯れ、茶色の縁取りの先までしぼんでいた。冬枯れの枝のあいだに、夜明け前の白い空が透けていた。あの夏祭りの夜、彼女が立ち止まって青を見ていた塀だった。青はもう、どこにも残っていなかった。
鳥居の前で、あの日と同じ角度で頭を下げてくぐった。あの日は二人で並んで頭を下げた。彼女の頭が自分よりわずかに早く上がった、その記憶だけが残っていた。砂利の坂の中ほどで、手水鉢の縁の苔に右手を置いた。苔は霜で白く凍り、掌に細かい棘のような結晶が刺さって溶けずに残った。冷たさは骨の中ほどまで一拍で届き、あの夜よりも深かった。境内は暗い砂利の色でひらけ、頭上の空はまだ夜の色をしていた。月はとうに沈み、東の縁にだけ、紙を一枚薄く貼ったような白さが置かれていた。明かりも人もいなかった。雪はまだ降っていなかった。
立つというより、膝が抜けた。両膝が砂利に落ちた。粒の一つ一つが膝頭から脛の骨を伝って上がってきた。額を地面につけた。砂利の角が額の薄い皮膚に食い込み、冷たさが眉の上から目の奥に上がってきた。吐く息は地面に近いところで白く広がり、すぐに消えた。
両手を内ポケットから出した。右の手にお守りを握っていた。胸の前で握り直した。掌に布の角が当たった。親指の腹で刺繍の字を一度なぞった。凹凸の角は、まだ指にはっきり返ってきた。鳥居の向こうから風が一度吹いて、止んだ。
——戻してください。彼女を戻してください。
額を砂利につけたまま、その音だけを繰り返した。
視界の端がぐらりと傾き、耳鳴りが立った。瞼の裏で、白い光が強くなった。
***
白さが外側から薄くなり、布団の縁の冷たさが戻ってきた。仰向けで、天井の木目がいつもの位置にあった。枕元の時計は朝八時を二分過ぎていた。カーテンの隙間から、十二月の低い朝の光が一本、床板に落ちていた。
机の端に、布張りの本が、二十三日に置いた角度のまま置かれていた。
上体を起こした。脚が一拍だけ床の冷たさを思い出した。机の引き出しの一番上を開けた。白地に紺の紐のお守りが、紙の袋に入ったまま、ある。まだコートに移していない位置に、ある。
右手の小指の付け根に、砂利の粒の食い込んだ薄い痣があった。
枕元の携帯を取った。画面の上に、十二月二十四日、と白く出ていた。曜日の文字も、待ち受けの薄い色も、あの朝のままだった。指でカレンダーを開いた。二十四日のマスに、夕方の待ち合わせの予定が、消えずに入っていた。
——戻ったのだ。
——今日の夕方まで、ある。彼女を、救える。
翌々日の夜中、三時を過ぎていた。机のスタンドだけが点いていた。卓上カレンダーは葬儀の日にめくったまま、誰もめくっていなかった。
机の端に、預かったままの布張りの本が置かれていた。二十三日の夜、玄関先で「明日、遅れずに来てくださいね」「五時に、待ってますから」と笑った声が、まだ耳の奥に残っていた。
机の上にはもう一つ、紙の袋。病院の帰り、コートの内ポケットから取り出したものだった。中身は袋から出して裸のまま置いていた。白地に紺の紐のお守り。明日、渡すはずだったもの。
窓の外はずっと黒く、ときどき遠くで車が一台通った。
桜井さんの声がいつから頭の奥に流れていたのかは、わからなかった。
「祖母が、若い頃に、ここでなにかあったみたいで」
「結ばれなかった、と聞きました」
夏祭りの夜の、神社の木のベンチの上の平らな声だった。
——二つの心から、面影を消し去るしかない。
ベンチの声の終わりのところだけが、ひと続きで頭の中で立ち上がった。
馬鹿げている、と頭の隅でわかっていた。こんなことをして、戻るはずがない。
それでも、ほかに行ける場所がなかった。彼女が連れて行ってくれた、あの場所だけだった。
***
立ち上がった。コートを取り、濃紺のマフラーを巻いた。財布と電話だけ入れた。机の端の布張りの本に目が止まった。
——返したい。
思った。
お守りを取り上げて内ポケットの右に入れた。家を出た朝と同じ位置に。
——これも持って行く。
布の感触をコートの上から一度確かめた。
***
始発に乗った。車両には三人いた。優先席の端で、年配の男が膝の上に両手を重ねて眠っていた。中ほどの座席で、コートの肩を斜めにした女が文庫を開いていた。最後尾の窓際に、若い男が額を窓硝子に押しつけて、外の暗さに目だけを開けていた。誰の顔も、輪郭の手前で止まっていた。視界に入って、入ったまま奥へ進まなかった。
駅を降り、坂をひとつ越えた。塀の上の紫陽花はもう枯れ、茶色の縁取りの先までしぼんでいた。冬枯れの枝のあいだに、夜明け前の白い空が透けていた。あの夏祭りの夜、彼女が立ち止まって青を見ていた塀だった。青はもう、どこにも残っていなかった。
鳥居の前で、あの日と同じ角度で頭を下げてくぐった。あの日は二人で並んで頭を下げた。彼女の頭が自分よりわずかに早く上がった、その記憶だけが残っていた。砂利の坂の中ほどで、手水鉢の縁の苔に右手を置いた。苔は霜で白く凍り、掌に細かい棘のような結晶が刺さって溶けずに残った。冷たさは骨の中ほどまで一拍で届き、あの夜よりも深かった。境内は暗い砂利の色でひらけ、頭上の空はまだ夜の色をしていた。月はとうに沈み、東の縁にだけ、紙を一枚薄く貼ったような白さが置かれていた。明かりも人もいなかった。雪はまだ降っていなかった。
立つというより、膝が抜けた。両膝が砂利に落ちた。粒の一つ一つが膝頭から脛の骨を伝って上がってきた。額を地面につけた。砂利の角が額の薄い皮膚に食い込み、冷たさが眉の上から目の奥に上がってきた。吐く息は地面に近いところで白く広がり、すぐに消えた。
両手を内ポケットから出した。右の手にお守りを握っていた。胸の前で握り直した。掌に布の角が当たった。親指の腹で刺繍の字を一度なぞった。凹凸の角は、まだ指にはっきり返ってきた。鳥居の向こうから風が一度吹いて、止んだ。
——戻してください。彼女を戻してください。
額を砂利につけたまま、その音だけを繰り返した。
視界の端がぐらりと傾き、耳鳴りが立った。瞼の裏で、白い光が強くなった。
***
白さが外側から薄くなり、布団の縁の冷たさが戻ってきた。仰向けで、天井の木目がいつもの位置にあった。枕元の時計は朝八時を二分過ぎていた。カーテンの隙間から、十二月の低い朝の光が一本、床板に落ちていた。
机の端に、布張りの本が、二十三日に置いた角度のまま置かれていた。
上体を起こした。脚が一拍だけ床の冷たさを思い出した。机の引き出しの一番上を開けた。白地に紺の紐のお守りが、紙の袋に入ったまま、ある。まだコートに移していない位置に、ある。
右手の小指の付け根に、砂利の粒の食い込んだ薄い痣があった。
枕元の携帯を取った。画面の上に、十二月二十四日、と白く出ていた。曜日の文字も、待ち受けの薄い色も、あの朝のままだった。指でカレンダーを開いた。二十四日のマスに、夕方の待ち合わせの予定が、消えずに入っていた。
——戻ったのだ。
——今日の夕方まで、ある。彼女を、救える。