愛する君を消す
川沿い
川沿いに出ると、空気の色が一段群青に沈んだ。建物の白から離れたぶんだけ、川面の色が窓に上がってきた。
タクシーは川沿いの通りの信号の一つ手前で停まった。プラネタリウムのあたりで、と目印で伝えていた。
歩道に車いすを降ろした。タクシーのエンジン音が遠ざかった。鞄の内側のポケットから、白地に紺の紐のお守りを取り出した。手のひらに移したとき、紐の麻の毛羽が薄く立っていた。一年前のクリスマスイブの夕方、救出のあとに渡してくれたもの。受け取ってからずっと、コートのポケットに入れていた。今朝、鞄の内側へ移してきた。
初めて二人で出かけたのが、この川沿いだった。始まりの場所から、返していきたかった。
紺色の毛布の上に、白地が小さく置かれる。
もらった瞬間より、ポケットに入れた一冬のほうが、ずっと長かった。
——今度は、あなたが、持っていてください。
声には出さなかった。お守りは毛布の傾斜を滑り落ちず、そこに留まった。
十二月の昼下がりの低い光が川面に降りていた。風が表面を撫でるたびに白い光の粒が規則的に跳ね、跳ね終わったところで群青に沈み直す。橋を渡る車の音や自転車のベルが、思いがけず頬の近くまで迫ってきた。
遊歩道は石畳だった。タイヤが継ぎ目を越えるたびにカラカラと低く鳴る。
川風の匂いが毛布の繊維の匂いと薄く混ざる。声をかけずに、しばらくそのまま押した。風が一度強く吹き、お守りの白地が毛布の上で半呼吸ぶんだけ持ち上がり、また戻った。
商店街のアーケードの入口を通り過ぎた。アーケードの奥に古い喫茶店がある。間口の小さな、見落としそうな入口の店。二階の窓に古い扇風機の影が見えた。冬でも回したままにしている、と店主が笑って言っていた。あれが見えれば営業中の合図、と。
「あそこの二階で、あなたはブラックコーヒー、私は宇治金時を注文しました」
車いすの横を歩きながら、低い声で、彼の耳のあたりへ届けた。
「私が『子どもの頃から、夏は、これだけは譲れなくて』、と笑ったら、あなたはカップの縁から顔を上げて、『桜井さんでも、宇治金時を選ぶんですね』、と笑ってくださいましたね」
二階の窓の内側で、扇風機の首がいまもゆっくり振れているはずだった。
「あのとき、いじわるもしました。好きですよといった後、かき氷の匙をあなたのほうへ、差し出してから自分で食べました。まだ、早いですね、と」
声が、自分の耳の奥でほんのわずかに甘く戻ってきた。
「あのときは、ごめんなさい」
今日は店には入らないと決めていた。車いすを押す手をゆるめないまま、アーケードの入口は背中のうしろへ流れていった。
***
二つめの角の手前で車いすを止めた。古いプラネタリウムの建物が見えた。コンクリートの外壁も、塗装の褪せた灰色も、ガラスの中央の和紙の貼り紙『冬季は午後五時閉館』も、変わらない墨の字だった。入らない、と決めていた。
ガラスの向こうの暗がりに、あの日のドームの藍色が、いちど深く沈むのを思い出した。
車いすの横に屈み込む。
「ここで、こと座とわし座の話を、聞きました。あなたは途中でいちど、寝ていました。初めて二人で出かけた日なんですから、もっと緊張していてほしかったです」
そう言って怒ってみせたかったのに、あのとき私は、ちっとも怒れなかった。
ドームの薄暗さも、隣の座席のリクライニングがほんのわずかにこちらへ傾いた感じも、それ以上は声に乗せなかった。
風が川面の方から流れてきた。透の前髪がほんの数ミリ揺れた。
毛布の下に手を入れ、透の右手を両手で包んだ。冷たい。
紙袋の取っ手で手が重なった日の、薄手の生地の縫い目の硬さ。他にもいくつもあった。両手で包んだ彼の手の付け根を、親指の腹で一度だけなぞった。半歩、彼の方が前にいた。私はその半歩のうしろを、自分の場所にしていた。
「あなたの肩はいつも、私の右半身の少し前にありました」
川面の方を向いたまま、声に出した。返事を待たずに、首筋の高さを彼の肩の高さに合わせ直すように半身を傾けた。
手のひらの体温が手の甲に移っていく感触を待った。私の手のひらの熱は、彼の手の甲には移ってこなかった。
***
透の手を毛布の下に戻した。お守りの白地は、毛布の上にそのまま留まっていた。毛布の縁を整え、立ち上がった。
「次に、行きましょう」
タクシーは川沿いの通りの信号の一つ手前で停まった。プラネタリウムのあたりで、と目印で伝えていた。
歩道に車いすを降ろした。タクシーのエンジン音が遠ざかった。鞄の内側のポケットから、白地に紺の紐のお守りを取り出した。手のひらに移したとき、紐の麻の毛羽が薄く立っていた。一年前のクリスマスイブの夕方、救出のあとに渡してくれたもの。受け取ってからずっと、コートのポケットに入れていた。今朝、鞄の内側へ移してきた。
初めて二人で出かけたのが、この川沿いだった。始まりの場所から、返していきたかった。
紺色の毛布の上に、白地が小さく置かれる。
もらった瞬間より、ポケットに入れた一冬のほうが、ずっと長かった。
——今度は、あなたが、持っていてください。
声には出さなかった。お守りは毛布の傾斜を滑り落ちず、そこに留まった。
十二月の昼下がりの低い光が川面に降りていた。風が表面を撫でるたびに白い光の粒が規則的に跳ね、跳ね終わったところで群青に沈み直す。橋を渡る車の音や自転車のベルが、思いがけず頬の近くまで迫ってきた。
遊歩道は石畳だった。タイヤが継ぎ目を越えるたびにカラカラと低く鳴る。
川風の匂いが毛布の繊維の匂いと薄く混ざる。声をかけずに、しばらくそのまま押した。風が一度強く吹き、お守りの白地が毛布の上で半呼吸ぶんだけ持ち上がり、また戻った。
商店街のアーケードの入口を通り過ぎた。アーケードの奥に古い喫茶店がある。間口の小さな、見落としそうな入口の店。二階の窓に古い扇風機の影が見えた。冬でも回したままにしている、と店主が笑って言っていた。あれが見えれば営業中の合図、と。
「あそこの二階で、あなたはブラックコーヒー、私は宇治金時を注文しました」
車いすの横を歩きながら、低い声で、彼の耳のあたりへ届けた。
「私が『子どもの頃から、夏は、これだけは譲れなくて』、と笑ったら、あなたはカップの縁から顔を上げて、『桜井さんでも、宇治金時を選ぶんですね』、と笑ってくださいましたね」
二階の窓の内側で、扇風機の首がいまもゆっくり振れているはずだった。
「あのとき、いじわるもしました。好きですよといった後、かき氷の匙をあなたのほうへ、差し出してから自分で食べました。まだ、早いですね、と」
声が、自分の耳の奥でほんのわずかに甘く戻ってきた。
「あのときは、ごめんなさい」
今日は店には入らないと決めていた。車いすを押す手をゆるめないまま、アーケードの入口は背中のうしろへ流れていった。
***
二つめの角の手前で車いすを止めた。古いプラネタリウムの建物が見えた。コンクリートの外壁も、塗装の褪せた灰色も、ガラスの中央の和紙の貼り紙『冬季は午後五時閉館』も、変わらない墨の字だった。入らない、と決めていた。
ガラスの向こうの暗がりに、あの日のドームの藍色が、いちど深く沈むのを思い出した。
車いすの横に屈み込む。
「ここで、こと座とわし座の話を、聞きました。あなたは途中でいちど、寝ていました。初めて二人で出かけた日なんですから、もっと緊張していてほしかったです」
そう言って怒ってみせたかったのに、あのとき私は、ちっとも怒れなかった。
ドームの薄暗さも、隣の座席のリクライニングがほんのわずかにこちらへ傾いた感じも、それ以上は声に乗せなかった。
風が川面の方から流れてきた。透の前髪がほんの数ミリ揺れた。
毛布の下に手を入れ、透の右手を両手で包んだ。冷たい。
紙袋の取っ手で手が重なった日の、薄手の生地の縫い目の硬さ。他にもいくつもあった。両手で包んだ彼の手の付け根を、親指の腹で一度だけなぞった。半歩、彼の方が前にいた。私はその半歩のうしろを、自分の場所にしていた。
「あなたの肩はいつも、私の右半身の少し前にありました」
川面の方を向いたまま、声に出した。返事を待たずに、首筋の高さを彼の肩の高さに合わせ直すように半身を傾けた。
手のひらの体温が手の甲に移っていく感触を待った。私の手のひらの熱は、彼の手の甲には移ってこなかった。
***
透の手を毛布の下に戻した。お守りの白地は、毛布の上にそのまま留まっていた。毛布の縁を整え、立ち上がった。
「次に、行きましょう」