融けた海
「感傷性色彩融解。百万人に一人の割合でかかる国の指定難病です。ある特定の強い感情を抱くと、まるで氷が溶けていくように視界から特定の色が消えます。どの感情で色が消えるのかは人によって異なり、強さも全く違います。その色は見えても、濃淡や透明度がわからなくなる人、その色が他の色に見える人、その色が濃淡のみのこってモノクロに見える人・・・。本当に様々で、全く同じ例はほとんど見られません。消えやすいのは赤や黄色、緑と言われていますが、一ノ瀬さんの場合はとてもめずらしく、青系統の色も区別できていません。治療法は確立されておらず、不治の病といえるでしょう」
五年前、病院でこんな診断を受けた。そのときのことは、今までもはっきりと覚えている。医師の言葉を聞いた瞬間、診察室に貼ってあった海のポスターがすっと、灰色に変わった。これからずっとこのような生活を送ると考えると、足がすくみそうだった。
「希海!明日、海行こ」
親友の瑠璃が誘いに来た。大学生活最後の夏。悔いのないように、思いっきり楽しみたい。
「もちろん!何時に集まる?」
「うーん、じゃあ、10時に、私の家!絶対ね。」
瑠璃は、スキップでもするように次の講義へ向かった。
私と瑠璃は同じ高校出身だ。高校の頃はそれほど仲良くなかったが、大学の最初の講義がたまたま隣の席で、そこから急激に打ち解けた。4年たった今では、今まで出会った人だれよりも打ち解けている大親友だ。
その日の講義はもう終わっていたから、明日のことを考えながら浮ついた気持ちで家に帰った。
翌日、午前6時半。耐え難い頭痛で目が覚めた。今まで経験したことのない痛み。思わず、ベッドの上でこめかみを押さえる。
「い、痛い・・・」
数分経って目を開けると、床においていた今日着る予定の水着が目に入った。昨日の大学の帰りに買った、レモンイエローの水着。その美しい黄色が、彩度のない灰色と化していた。どこを見渡しても、何度まばたきをしても、まわりにある黄色のものだけモノクロ。
「え・・・?どうなってるの・・・?」
そう不安に思えば思うほど、頭痛が強くなっていく。やっとのことで頭痛薬を手に取り、喉の奥へ流し込んだ。そして、布団を頭からかぶり、もう一度、浅い眠りについた。
ー希海!あんた何してるの!陸翔が、陸翔が死んでいたかもしれないのよ!ー
その言葉が響いた瞬間、目が覚めた。色は、何事もなかったかのようにもとに戻っていた。
「え・・・、また・・・?どうして今・・・」
時間を確認しようと、スマートフォンの電源を入れる。表示された時刻は、午前8時。約束の10時までは、あと2時間。海沿いにある瑠璃の家までは、電車で1時間かかる。
「どうしよう、はやく行かないと間に合わない!」
慌ただしく準備を整え、朝食もとらずに駅へ向かった。
それにしても、さっきのは何だったのだろう。急な激しい頭痛。黄色だけが消えた視界。そしてあのときの夢・・・。
考えるだけで恐ろしくなり、不安が募る。そしてまた、こめかみがキリキリと痛くなってきた。やっぱり、頭痛薬を持ってくればよかった。
「……大丈夫。ただの寝不足だよ、きっと」
自分に言い聞かせるように呟き、満員の各駅停車に乗り込んだ。車窓から差し込む夏の強い日差しが、私の肌をじりじりと焼く。ガタゴトと揺れる電車の窓の外には、夏の象徴のようなひまわり畑が広がっていた。 けれど、その景色を見た瞬間、私は息を呑んだ。
咲き誇っているはずのひまわりの花びらが、そこだけ油絵の具を削ぎ落としたかのように、すべて、薄汚れた灰色に染まっている。 心臓がドクンと大きく跳ねた。慌てて車内の吊り革広告を見る。黄色い背景の週刊誌の広告が、そこだけ切り取られたようにモノクロになっている。 やっぱり、おかしい。私の目はどうなってしまったのだろう。
動揺を隠せないまま、電車は目的地の駅に滑り込んだ。 改札を出ると、「希海ー!」と大きく手を振る瑠璃の姿が見えた。彼女の笑顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張が少しだけ緩む。
「遅いよ希海! 待ちくたびれ……って、顔色悪くない? 大丈夫?」
「う、うん。ちょっと寝不足なだけ。ごめんね、待たせちゃって」
「無理しちゃダメだよ? ほら、せっかくの海なんだから、元気出していこ!」
瑠璃は私の手を引き、海岸へと歩き出した。彼女の無邪気な明るさが、今の私には眩しすぎた。
砂浜に足を踏み入れると、ざざん、と波の音が鼓膜を揺らした。 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ー希海、陸翔を見ててね。お母さん、すぐ戻るからー
頭の奥で、あの日の母の声が蘇る。 本当は青いだなんて、信じがたいほど色のない海。白い砂浜。一瞬だけ目を離した隙に、波間に消えた小さな体。 海の音を聴いた瞬間、抑え込んでいた幼少期の出来事が、決壊したダムのように私の心に流れ込んできた。
ハァ、ハァ、と息が上手く吸えなくなる。冷や汗が止まらない。目の前の海が、まるで陸翔を飲み込んだあの日の怪物のようで、足がすくんで動けなくなった。
「希海? 本当に大丈夫? 顔真っ青だよ。あそこにパラソル立てたから、ちょっと休もう」
瑠璃が心配そうに私の顔を覗き込み、私の手を引いて歩く。 瑠璃が広げてくれた大きくて鮮やかな赤いビーチパラソル。熱中症対策にと、彼女が手渡してくれた赤い缶のスポーツドリンク。
「ほら、これ飲んで」
瑠璃の優しい声を聞きながら、私はその缶を受け取ろうとした。 その時、胸の奥からどろりとした激しい「恐怖」と「罪悪感」が融け出した。ー私は、楽しんでいい人間じゃない。私のせいで、陸翔は……。
ーその瞬間。 瑠璃の手にある缶の、そして見上げるほど大きなパラソルの、鮮烈な「赤」が。 じわじわと、まるで水に溶ける絵の具のように色を失い、冷酷な灰色へと変わっていった。
「え……っ、あか、赤が……」
「希海? 赤がどうしたの?」
瑠璃の声が遠く聞こえる。 黄色だけでなく、今度は赤まで消えてしまった。私の視界は、夏の海のはずなのに、まるで古いモノクロ映画のようにくすんでいく。 恐怖のあまり、私はその場にへたり込んでしまった。瑠璃が私を呼ぶ声だけが、遠くでずっと響いていた。
翌週、私はすがるような思いで大きな病院の眼科を訪れた。 そこで告げられたのが、あの、残酷な病名だった。
あれから五年。私の世界からは、完全に「赤」「黄」「青系統」の色が失われていた。
大学を卒業した私は、都内のデザイン事務所でWebデザイナーとして働いている。 「色の見えないデザイナー」なんて、普通ならおこがましい。けれど私は、内定後に症状が悪化してからは、感覚ではなく「論理」で画面を支配することを選んだ。
『#FF0000』は鮮烈な赤。 『#FFFF00』は注意を引く黄色。 『#0000FF』は、かつて私が愛し、そして失った、あの深い海の色。
パソコンの画面に向かい、カラーコードの数値を脳内で計算する。
「このターゲット層なら、補色はこのコード。明度はこの数値……」
画面に並ぶ16進数の文字列こそが、私にとっての「正解の色」だ。同僚たちは私のことを「計算され尽くした完璧な色彩センスを持つ天才」と称賛する。けれど皮肉なものだ。私は自分が作った美しいWebサイトを、ただの一度も「美しい」と感じたことはない。すべては灰色に並ぶ数値の羅列でしかないのだから。
そんな私にとって、唯一の「現実」との繋がりが、教師になった瑠璃からのメッセージだった。 お互い忙しくなって頻繁には会えなくなっていたけれど、彼女からの「最近どう?」という連絡だけは、私の凍りついた心を少しだけ融かしてくれていた。
そんな瑠璃から、一通の写真付きメールが届いたのは、よく晴れた春の日のことだった。
「希海、生まれたよ! 男の子。落ち着いたら、ぜひ会いにきて!」
添付されていた写真には、小さな小さな赤ちゃんが写っていた。 おめでとう、と返信を打ちながら、私の胸にちくりとした痛みが走る。 五年前、海で私を心配してくれた優しい瑠璃。私はあの病気の日以来、なんとなく海を避けるようになり、瑠璃にも病気のことは隠し続けていた。
「会いに行かなきゃ。……大好きな親友の、大切な子供だもの」
私は、自分の胸の奥にある「真っ黒な澱」に気づかないふりをして、瑠璃の家へと向かった。
瑠璃の家は、新築の木の匂いがした。
「希海! よく来てくれたね、上がって上がって!」
出迎えてくれた瑠璃は、すっかり「母親」の顔をしていた。学生の頃の面影を残しながらも、どこか柔らかく、満ち足りたオーラをまとっている。
「ほら、この子が律だよ」
リビングのベビーベッドに案内される。そこには、すやすやと眠る小さな赤ん坊がいた。 瑠璃が愛おしそうに我が子を見つめ、優しくお腹をトントンと叩いている。その空間は、誰が見ても「幸せ」そのものだった。
「可愛い……ね」
口から出た言葉は、本物だった。けれど、その直後。 私の脳裏に、あの砂浜の光景が、最悪の鮮明さでフラッシュバックした。
一瞬、目を離したすきに。波にのまれていく、小さな、小さな体。
目の前の幸せそうな赤ん坊と、私のせいで視覚障害を負ってしまった弟・陸翔の姿が、残酷に重なる。 どうして瑠璃は、そんなに幸せそうに笑えるの? どうして私は、あの時、弟の手を離してしまったの? 祝福したい。親友の幸せを、心から喜びたい。なのに、胸を切り裂くような罪悪感と、「私は一生、あんな風に光の中で笑うことはできない」という絶望的な孤独感が、私を支配していく。
「……希海? どうしたの? あ、この服、可愛いでしょ。希海が好きそうな、綺麗なミントグリーンを選んだんだよ」
瑠璃が赤ん坊の服を指さす。 その言葉に、私は息が止まった。
(……ミントグリーン? 緑……?)
私の目に見えているその服は、ただの、濁った灰色だった。
「あ……」 私は、自分の手のひらを見た。リビングに飾られた観葉植物を見た。 これまで、私の世界に辛うじて残っていた「安らぎの緑」が。 親友への嫉妬と、自分への嫌悪、そして圧倒的な孤独の波に飲まれて、すうっと消えていく。
「私には、わからない」
「え……? 希海?」
頭痛が激しくなる。私はこめかみを押さえながら、絞り出すように声を漏らした。
「私は……あなたの赤ん坊が着ている服の色すら、計算しないと分からないの」
「ちょっと、希海? 何を言ってるの……?」
瑠璃の困惑した顔が、モノクロの世界の中で歪む。 私は耐えきれなくなって、隠し続けていたすべてを、堰を切ったように吐き出した。
「私、病気なの。感傷性色彩融解。感情が動くと、色が消えるの。五年前、一緒に海に行った日、あったよね。あの日に、赤と黄色が消えた。そして今、あなたの幸せそうな姿を見て……緑が消えた」
「嘘……でしょ……?」
「嘘じゃない! 私にはもう、何も見えないの! 陸翔のときもそう、私が一瞬目を離したから、あの子の光を奪ったの! 私は、私は最初から、海なんて見る資格のない人間だったんだよ…!」
叫ぶ私を見て、瑠璃は怯えたように一歩、後ろに引いた。 その瞳に浮かんだのは、同情ではなく、私の「異常性」に対する明らかな恐怖だった。 何より、自分の大切な赤ん坊のそばで、狂ったように叫ぶ私を、彼女は母親の目で警戒していた。
「……ごめん、希海。ちょっと、ついていけない。……今日は、帰って」
冷たい声だった。 その言葉を聞いた瞬間。 私の心の中で、何かが、完全にパキンと音を立てて凍りついた。
家を飛び出し、一人、自室に戻る。 窓の外を見る。街も、空も、すべてがコントラストの強い白と黒、そして灰色だけで構成されている。 親友すらも失い、完全に心を閉ざした。
希海という字なのに、青色が最初に見えなくなった。だんだん、他の色も消えて、ついには完全にモノクロになった。けれど、もう涙すら出ない。 数値だけで作られた、完璧で鮮やかな世界は取り戻せた。 その代わりに、私の心からはもう、何も融け出すことはない。
感情が消え失せれば、これ以上、色が消えることもないのだから。
「……これで、いいんだ」
私は、世界で一番静かなモノクロの部屋で、パソコンの電源を入れた。
五年前、病院でこんな診断を受けた。そのときのことは、今までもはっきりと覚えている。医師の言葉を聞いた瞬間、診察室に貼ってあった海のポスターがすっと、灰色に変わった。これからずっとこのような生活を送ると考えると、足がすくみそうだった。
「希海!明日、海行こ」
親友の瑠璃が誘いに来た。大学生活最後の夏。悔いのないように、思いっきり楽しみたい。
「もちろん!何時に集まる?」
「うーん、じゃあ、10時に、私の家!絶対ね。」
瑠璃は、スキップでもするように次の講義へ向かった。
私と瑠璃は同じ高校出身だ。高校の頃はそれほど仲良くなかったが、大学の最初の講義がたまたま隣の席で、そこから急激に打ち解けた。4年たった今では、今まで出会った人だれよりも打ち解けている大親友だ。
その日の講義はもう終わっていたから、明日のことを考えながら浮ついた気持ちで家に帰った。
翌日、午前6時半。耐え難い頭痛で目が覚めた。今まで経験したことのない痛み。思わず、ベッドの上でこめかみを押さえる。
「い、痛い・・・」
数分経って目を開けると、床においていた今日着る予定の水着が目に入った。昨日の大学の帰りに買った、レモンイエローの水着。その美しい黄色が、彩度のない灰色と化していた。どこを見渡しても、何度まばたきをしても、まわりにある黄色のものだけモノクロ。
「え・・・?どうなってるの・・・?」
そう不安に思えば思うほど、頭痛が強くなっていく。やっとのことで頭痛薬を手に取り、喉の奥へ流し込んだ。そして、布団を頭からかぶり、もう一度、浅い眠りについた。
ー希海!あんた何してるの!陸翔が、陸翔が死んでいたかもしれないのよ!ー
その言葉が響いた瞬間、目が覚めた。色は、何事もなかったかのようにもとに戻っていた。
「え・・・、また・・・?どうして今・・・」
時間を確認しようと、スマートフォンの電源を入れる。表示された時刻は、午前8時。約束の10時までは、あと2時間。海沿いにある瑠璃の家までは、電車で1時間かかる。
「どうしよう、はやく行かないと間に合わない!」
慌ただしく準備を整え、朝食もとらずに駅へ向かった。
それにしても、さっきのは何だったのだろう。急な激しい頭痛。黄色だけが消えた視界。そしてあのときの夢・・・。
考えるだけで恐ろしくなり、不安が募る。そしてまた、こめかみがキリキリと痛くなってきた。やっぱり、頭痛薬を持ってくればよかった。
「……大丈夫。ただの寝不足だよ、きっと」
自分に言い聞かせるように呟き、満員の各駅停車に乗り込んだ。車窓から差し込む夏の強い日差しが、私の肌をじりじりと焼く。ガタゴトと揺れる電車の窓の外には、夏の象徴のようなひまわり畑が広がっていた。 けれど、その景色を見た瞬間、私は息を呑んだ。
咲き誇っているはずのひまわりの花びらが、そこだけ油絵の具を削ぎ落としたかのように、すべて、薄汚れた灰色に染まっている。 心臓がドクンと大きく跳ねた。慌てて車内の吊り革広告を見る。黄色い背景の週刊誌の広告が、そこだけ切り取られたようにモノクロになっている。 やっぱり、おかしい。私の目はどうなってしまったのだろう。
動揺を隠せないまま、電車は目的地の駅に滑り込んだ。 改札を出ると、「希海ー!」と大きく手を振る瑠璃の姿が見えた。彼女の笑顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張が少しだけ緩む。
「遅いよ希海! 待ちくたびれ……って、顔色悪くない? 大丈夫?」
「う、うん。ちょっと寝不足なだけ。ごめんね、待たせちゃって」
「無理しちゃダメだよ? ほら、せっかくの海なんだから、元気出していこ!」
瑠璃は私の手を引き、海岸へと歩き出した。彼女の無邪気な明るさが、今の私には眩しすぎた。
砂浜に足を踏み入れると、ざざん、と波の音が鼓膜を揺らした。 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ー希海、陸翔を見ててね。お母さん、すぐ戻るからー
頭の奥で、あの日の母の声が蘇る。 本当は青いだなんて、信じがたいほど色のない海。白い砂浜。一瞬だけ目を離した隙に、波間に消えた小さな体。 海の音を聴いた瞬間、抑え込んでいた幼少期の出来事が、決壊したダムのように私の心に流れ込んできた。
ハァ、ハァ、と息が上手く吸えなくなる。冷や汗が止まらない。目の前の海が、まるで陸翔を飲み込んだあの日の怪物のようで、足がすくんで動けなくなった。
「希海? 本当に大丈夫? 顔真っ青だよ。あそこにパラソル立てたから、ちょっと休もう」
瑠璃が心配そうに私の顔を覗き込み、私の手を引いて歩く。 瑠璃が広げてくれた大きくて鮮やかな赤いビーチパラソル。熱中症対策にと、彼女が手渡してくれた赤い缶のスポーツドリンク。
「ほら、これ飲んで」
瑠璃の優しい声を聞きながら、私はその缶を受け取ろうとした。 その時、胸の奥からどろりとした激しい「恐怖」と「罪悪感」が融け出した。ー私は、楽しんでいい人間じゃない。私のせいで、陸翔は……。
ーその瞬間。 瑠璃の手にある缶の、そして見上げるほど大きなパラソルの、鮮烈な「赤」が。 じわじわと、まるで水に溶ける絵の具のように色を失い、冷酷な灰色へと変わっていった。
「え……っ、あか、赤が……」
「希海? 赤がどうしたの?」
瑠璃の声が遠く聞こえる。 黄色だけでなく、今度は赤まで消えてしまった。私の視界は、夏の海のはずなのに、まるで古いモノクロ映画のようにくすんでいく。 恐怖のあまり、私はその場にへたり込んでしまった。瑠璃が私を呼ぶ声だけが、遠くでずっと響いていた。
翌週、私はすがるような思いで大きな病院の眼科を訪れた。 そこで告げられたのが、あの、残酷な病名だった。
あれから五年。私の世界からは、完全に「赤」「黄」「青系統」の色が失われていた。
大学を卒業した私は、都内のデザイン事務所でWebデザイナーとして働いている。 「色の見えないデザイナー」なんて、普通ならおこがましい。けれど私は、内定後に症状が悪化してからは、感覚ではなく「論理」で画面を支配することを選んだ。
『#FF0000』は鮮烈な赤。 『#FFFF00』は注意を引く黄色。 『#0000FF』は、かつて私が愛し、そして失った、あの深い海の色。
パソコンの画面に向かい、カラーコードの数値を脳内で計算する。
「このターゲット層なら、補色はこのコード。明度はこの数値……」
画面に並ぶ16進数の文字列こそが、私にとっての「正解の色」だ。同僚たちは私のことを「計算され尽くした完璧な色彩センスを持つ天才」と称賛する。けれど皮肉なものだ。私は自分が作った美しいWebサイトを、ただの一度も「美しい」と感じたことはない。すべては灰色に並ぶ数値の羅列でしかないのだから。
そんな私にとって、唯一の「現実」との繋がりが、教師になった瑠璃からのメッセージだった。 お互い忙しくなって頻繁には会えなくなっていたけれど、彼女からの「最近どう?」という連絡だけは、私の凍りついた心を少しだけ融かしてくれていた。
そんな瑠璃から、一通の写真付きメールが届いたのは、よく晴れた春の日のことだった。
「希海、生まれたよ! 男の子。落ち着いたら、ぜひ会いにきて!」
添付されていた写真には、小さな小さな赤ちゃんが写っていた。 おめでとう、と返信を打ちながら、私の胸にちくりとした痛みが走る。 五年前、海で私を心配してくれた優しい瑠璃。私はあの病気の日以来、なんとなく海を避けるようになり、瑠璃にも病気のことは隠し続けていた。
「会いに行かなきゃ。……大好きな親友の、大切な子供だもの」
私は、自分の胸の奥にある「真っ黒な澱」に気づかないふりをして、瑠璃の家へと向かった。
瑠璃の家は、新築の木の匂いがした。
「希海! よく来てくれたね、上がって上がって!」
出迎えてくれた瑠璃は、すっかり「母親」の顔をしていた。学生の頃の面影を残しながらも、どこか柔らかく、満ち足りたオーラをまとっている。
「ほら、この子が律だよ」
リビングのベビーベッドに案内される。そこには、すやすやと眠る小さな赤ん坊がいた。 瑠璃が愛おしそうに我が子を見つめ、優しくお腹をトントンと叩いている。その空間は、誰が見ても「幸せ」そのものだった。
「可愛い……ね」
口から出た言葉は、本物だった。けれど、その直後。 私の脳裏に、あの砂浜の光景が、最悪の鮮明さでフラッシュバックした。
一瞬、目を離したすきに。波にのまれていく、小さな、小さな体。
目の前の幸せそうな赤ん坊と、私のせいで視覚障害を負ってしまった弟・陸翔の姿が、残酷に重なる。 どうして瑠璃は、そんなに幸せそうに笑えるの? どうして私は、あの時、弟の手を離してしまったの? 祝福したい。親友の幸せを、心から喜びたい。なのに、胸を切り裂くような罪悪感と、「私は一生、あんな風に光の中で笑うことはできない」という絶望的な孤独感が、私を支配していく。
「……希海? どうしたの? あ、この服、可愛いでしょ。希海が好きそうな、綺麗なミントグリーンを選んだんだよ」
瑠璃が赤ん坊の服を指さす。 その言葉に、私は息が止まった。
(……ミントグリーン? 緑……?)
私の目に見えているその服は、ただの、濁った灰色だった。
「あ……」 私は、自分の手のひらを見た。リビングに飾られた観葉植物を見た。 これまで、私の世界に辛うじて残っていた「安らぎの緑」が。 親友への嫉妬と、自分への嫌悪、そして圧倒的な孤独の波に飲まれて、すうっと消えていく。
「私には、わからない」
「え……? 希海?」
頭痛が激しくなる。私はこめかみを押さえながら、絞り出すように声を漏らした。
「私は……あなたの赤ん坊が着ている服の色すら、計算しないと分からないの」
「ちょっと、希海? 何を言ってるの……?」
瑠璃の困惑した顔が、モノクロの世界の中で歪む。 私は耐えきれなくなって、隠し続けていたすべてを、堰を切ったように吐き出した。
「私、病気なの。感傷性色彩融解。感情が動くと、色が消えるの。五年前、一緒に海に行った日、あったよね。あの日に、赤と黄色が消えた。そして今、あなたの幸せそうな姿を見て……緑が消えた」
「嘘……でしょ……?」
「嘘じゃない! 私にはもう、何も見えないの! 陸翔のときもそう、私が一瞬目を離したから、あの子の光を奪ったの! 私は、私は最初から、海なんて見る資格のない人間だったんだよ…!」
叫ぶ私を見て、瑠璃は怯えたように一歩、後ろに引いた。 その瞳に浮かんだのは、同情ではなく、私の「異常性」に対する明らかな恐怖だった。 何より、自分の大切な赤ん坊のそばで、狂ったように叫ぶ私を、彼女は母親の目で警戒していた。
「……ごめん、希海。ちょっと、ついていけない。……今日は、帰って」
冷たい声だった。 その言葉を聞いた瞬間。 私の心の中で、何かが、完全にパキンと音を立てて凍りついた。
家を飛び出し、一人、自室に戻る。 窓の外を見る。街も、空も、すべてがコントラストの強い白と黒、そして灰色だけで構成されている。 親友すらも失い、完全に心を閉ざした。
希海という字なのに、青色が最初に見えなくなった。だんだん、他の色も消えて、ついには完全にモノクロになった。けれど、もう涙すら出ない。 数値だけで作られた、完璧で鮮やかな世界は取り戻せた。 その代わりに、私の心からはもう、何も融け出すことはない。
感情が消え失せれば、これ以上、色が消えることもないのだから。
「……これで、いいんだ」
私は、世界で一番静かなモノクロの部屋で、パソコンの電源を入れた。

