とりあえず恋シテ、ミル

「あ、あたし、あたしね、笹森くんのこと好きなの……」
 咲菜(さきな)の手が、校庭のベンチで弁当を食らう星子(しょうこ)の腕を掴む。



 咲菜は高校2年間で得た親友だった。濡れたようでいて不潔感のない長い黒い髪は、曇天だというのに白い輪を携えている。
 弁当の箸が進んでいないことには気付いていたが、季節の変わり目だったし、咲菜という少女は腺病質に見える。それがまた彼女を美少女足らしめる。
 咲菜は美少女だった。その見た目ゆえに、周りの男子のみならず、女子も放っておかなかった。
「黙ってるつもりはなかったんだけど、どう言おうか分からなかったの……」
 だがしかし、気が弱いようだ。そのために、クラスの派手な集団とは合わず、星子を友に選んだ。
 星子は彼女に果物を勧めようとしていたところだった。食欲の無さげなこの親友の腹に、せめて何か入れさせたかった。しかし止められた腕は離された後も行場を失う。
「そ、そうなんだ……」
 咲菜は周りから声がかかるくせ、内気な性格のために応じようとはしなかった。活発な男子を怖がり、華美な女子とは上手く話せない。
 星子はそういう咲菜を見てきた。まさか彼女が特に苦手がるような相手に片想いをしているとは予想だにしなかった。笹森とは、その活発な男子の中にいて、華美な女子たちともよく話している。
「それでね、星子ちゃんって――」
 足音が近付いていた。
「おっす、白川(しらかわ)~」
 咲菜の声は遮られた。星子は顔を上げる。遮ったのは目付きの悪い男子だった。
「あ、ああ、七尾(ななお)くん」
 同じ小学時代と中学時代を過ごした七尾 文貴(ふみき)だ。
「今日も手作り弁当? 相変わらず美味そうだな」
 彼は星子の弁当を指して横を向いた。隣にはつい今し方話題に挙がった笹森 五百鈴(いおり)が立っている。星子がその存在に気付くと同時に咲菜の握力が戻ってきた。
「こいつの弁当、マジで美味いのよ」
 笹森五百鈴がベンチを覗く。星子と咲菜の間に広げられた弁当箱とフードコンテナを眺める。
「本当だね、美味しそう」
 温和げな顔立ちがさらに穏やかに綻ぶ。
 咲菜の握力が強まった。星子は彼女と笹森の顔を交互に見遣る。
「お料理は咲菜ちゃんのほうが美味いんだよ。ほら、ひとつ食べてみたら」
 星子は箸とセットになっている未使用のフォークを笹森に渡した。
「あ、星子ちゃん……!」
 互いに手作り弁当を持ち寄って具を交換するのが常になっていた。もらったばかりのカニ蒲鉾でチューリップの作られた玉子焼きを差し出す。
「いいの? いただきます」
 笹森がフォークを刺し、口に運んだ。咲菜は顔を覆っている。緩やかな「W」を描きがちな唇が波打つ。
「うわ、本当だ。美味しい」
 咲菜は両手で顔面を隠したまま、首を振っている。
「で、俺には?」
 七尾は自身を指で差す。
「はい」
 星子は返されたフォークに玉子焼きを刺して渡す。
「えー、俺も琴峯(ことみね)さんのがいいー」
「だめ。七尾くんはわたしの地味なの食べてて」
 七尾は笑って玉子焼きを口に入れる。
「あっはっは。やっぱ美味いわ。ごちそうさん」
「ごちそうさま」
 星子は咲菜を一瞥する。耳が真っ赤に染まっていた。
「どこ行くの?」
「サッカー」
 七尾が答えると、後ろで笹森が微笑を浮かべる。咲菜でなくとも、風船に針を近付けるような感覚に襲われる。美少女の隣にいても遜色ない麗らかさだ。
「食後なのによく動くけるね」
「白川も食べてばっかで動かないと太るぞ」
「どうせもう太ってますよ~」
 華奢な咲菜がゆっくりと両手を下ろし、潤んだ目を見せる。
「そんなことないよね?」
 笹森が咲菜に訊ねた。彼女はまた両手で顔を覆うと、何度も頷く。
「んじゃ、またな」
 七尾は手を振って笹森を引き連れていった。
 星子は2人の背中が消えるのを見ると、赤い顔をしながら前髪を気にしている咲菜を振り向いた。大きな目は涙ぐみ、泣いた後のように見紛う。
「星子ちゃん、ありがと……笹森くんとちょっと話せた……」
 何度も前髪を撫でつけ、唇を尖らせている。笹森がこういう咲菜の仕草を見たなら、惚れるに違いない。しかし咲菜は笹森には見せないのだろう。



 梅雨の時期だというのに曇天ばかりで雨はここ数日降らなかった。
 咲菜は昼休みの教室の喧騒が苦手なようで、雨の降らない日は、グラウンドに続く遊歩道のベンチで弁当を食べる。具の交換もいつものことだ。
「お~、いたいた」
 足音が近付いてくる。走っているようだった。
 冷凍食品のから揚げを齧っていると七尾がやってきた。
「お嬢さんたち~」
 星子は咲菜と同時に彼に注目する。彼は短冊型の紙を4枚握っていた。
「どうしたの、七尾くん。また玉子焼きほしいの?」
 星子が訊ねる。
「玉子焼きはもらう。でも違う」
 短冊4枚をさらに前に出され、星子は書かれている文字を読み上げた。「たなばた祭り 織姫くじ 福引券」。
「どうしたの、これ」
「もらった。なんと、1等賞が高級マンゴーなのだ。こういうのはさ、無欲なほうが引き当てるって言うだろ。一緒に行かね?」
 七尾の傍にゆったりとした足取りで笹森がやって来た。彼は星子と咲菜に順に頭を下げる。
 咲菜は途端に顔を覆ってしまった。星子は咲菜と福引券の間で惑う。日程的に星子は予定がない。しかし咲菜はどうなのか。答えられそうにもない。
「2人は? 行くって?」
 湿度の高くなる季節だというのに、笹森の声は不快感なくしっとりと曇天に染み渡っていく。七尾の微かな濁りを帯びた声質とは正反対だ。
「んー、返事待ち。白川は予定込み込み? 琴峯さんは?」
 咲菜は顔を覆ったまま、首を縦に振っているが、それが返答として成り立っているかは怪しい。
「え、笹森くんも一緒?」
 星子は訊ねた。
「うん」
 笹森が答えると、星子は咲菜を見遣る。
「せっかくだし行こうよ、咲菜ちゃん」
 咲菜は何度も何度も頷く。
 七尾が唇を引き結ぶ。
「え、何……もし俺1人だったら来なかったワケ」
「そ、そんなことないよ。ね、咲菜ちゃん」
 咲菜はまたうんうんと頷く。
「ふーん。別に俺も琴峯さん誘いたかっただけだしー。な? 五百鈴(いおり)」
「えー、白川さんのことだって誘いたかったでしょ、七尾は」
「白川誘わなきゃ琴峯さんだって来ないだろー?」
 七尾は日程と待ち合わせ場所を告げると笹森を連れてサッカーをしに行ってしまった。
「勝手にオーケーしちゃったけど、咲菜ちゃん、予定、大丈夫だった?」
「うん……ありがとう。嬉しい」
 咲菜は髪に手櫛を入れる。脳天を撫でつけ、毛を気にした。
「ちょっと緊張しちゃって、もう食べられないや……」
 咲菜は弁当箱の蓋を閉めていく。まだ半分も食べていない。
「ちゃんと食べないと、お腹空いちゃうよ」
「ううん、もう平気……残りのおかず、よかったら星子ちゃんが食べて」
 彼女は交換用のフードコンテナを差し出した。冷凍食品のグラタンと、ほうれん草とコーンのソテーが残っている。
「うん。じゃあ……いただきます」



 数日ぶりの雨が外の音を奪っていく。鳥の囀りは聞こえず、車の走行音は違って聞こえる。
 今日は咲菜が休みだった。体調不良なのだという。こういうときに、星子は2階玄関ホールの共有スペースで弁当を食らう。玄関に背を向け、中庭を臨むベンチがある。自動販売もあり、静かだった。
 疎らにひとりで飯を食うことになった同級生たちが昼食に勤しんでいる。教室は忙しく、席を取られ、或いは肩身が狭いのだった。
 事前に休みそうなことは聞いていたが、星子はいつもどおりの量を作ってきた。咲菜と交換用に作ってきた分も、食べきれないこともない。普段が腹八分目の量なのだ。
「今日はサッカー、できないわ」
 顔を上げると、ヨーグルトジュースを手にした七尾が立っていた。
「やる」
 いちごミルクを差し出され、星子は目付きの悪い顔と小型の牛乳パックを往復する。すぐ傍の自動販売機で売っているものだった。
「どうして……」 
「いつも玉子焼きもらってくるから」
「でも、お弁当のなかのひとつだし……」
「ンでも1コ弁当作れるくらいには毎回もらってるだろ。だから」
「じゃ、じゃあ、ありがとう。いただきます」
 受け取ると、七尾は星子の隣にどす、と座った。
「あ、咲菜ちゃんと交換しようとしてた分、今日は咲菜ちゃんお休みだし、食べる?」
 保冷バッグからフードコンテナを取り出す。蓋を取ると、玉子焼き2切れとアスパラガスのベーコン巻きが入っている。
「食べる」
 フォークを貸す。男子の手には保存容器が小さく見えた。
「七尾くん、お昼いつも食べないの?」
「俺早食いだから」
「今日は、笹森くんは?」
 今日の笹森の様子を咲菜に報告するつもりでいた。
 玉子焼きを齧る七尾の目が、いつもにも増して険しくなる。
「別にいつも五百鈴と一緒にいるワケじゃねーぞ。なんか呼ばれたって。女子に」
 咲菜の恋敵はどれほどいるのだろう。しかし咲菜が恥ずかしさを捨てれば、勝者は決まっているも同然だ。
「ああ、笹森くん、モテそうだもんね」
「モテそうっつーかフツーにモテる」
 七尾の語気が強まった。怒っているように聞こえたのは、友人を軽んじられたと思ったのか。
「そうなんだ。かっこいいもんね」
 七尾は咀嚼しながら星子を睨む。そして呑み下すと、口を開いた。
「何、好きなの?」
 星子は肝を潰した。
「えっ、違う、違う!」
 笹森に恋慕しているのは咲菜だ。だがそれを言うわけにもいかない。
「ふーん、ああいうのがタイプだったとはねぇ」
「だから違うって。かっこいいとは思うけど。わたしのタイプはね、年上! 包容力があって、面白い人! それでちょっと、俺様系」
「ど~だか」 
 七尾の口元に笑みが浮かぶ。
「本当だってば」
「ほ~?」
「本当に、本当!」
「じゃあ、そういうコトにしておいてやるよ。俺様は優しいから」



 雨が傘を打つ。白地に淡い青のチェック模様と散りばめられたひまわりの柄が気に入っている。
 玄関は2階にある。濡れた段差に足を置く。正面に建っている体育館の軒下に男子と女子が2人立っていた。対峙して何か話しているようだが、星子が階段の半ばまで差し掛かると男子のほうがこちらを向いた。手を振っている。
 星子は後ろを振り向いた。他に階段を降りている者はいたが、誰もその男子のほうは見ていなかった。星子は何度か振り返る。しかし他に反応している者はいない。男子は手を振り続けている。
 星子は戸惑った。足元が浮つく。雨水が摩擦を殺した。置いたはずの靴が前方へ滑る。体重を乗せ、気付くと彼女は階段に座っていた。傘が転がっていく。チェック模様と回るひまわりが目をおかしくさせた。
「何してんだっ!」
 怒声が響く。最初、星子は教師だと思った。ふざけたわけではない。だが余所見をした。
「あ、ああ……ごめんなさい……」
 制服に雨水が染み込んでいく。視界を塞ぐ傘が持ち上がった。
「あのなぁ……」
 七尾が立っている。我が物顔でひまわり柄の傘を差している。小麦色の肌に合っている。ふと目を逸らすと、体育館の軒下に男子の姿はなかった。
「傘、ありがとう」
 傘へ手を伸ばすと、眉を顰めた七尾の手も伸びる。傘はない。掌の向きを変えられ、掴まれる。
 運動神経の優れた男子というものは体温が高いらしい。雨天のなかでは、肌に染み込んでいく。
「パンツまで濡れてんじゃねーの」
「えっ、パンツ!?」
 星子は七尾の手を放した。そして立ち上がり、スカートの尻に手をやる。濡れている。
「怪我は」
 七尾は鼻を鳴らし、腕を組む。尊大な態度はまるで教師と紛う。
「ないよ」
「どうせ後から痛ぇ、痛ぇ言うんだろ。行くぞ、保健室」
 星子は体育館の軒下に佇む女子を一瞥した。
「カノジョさんじゃないの? 待たせていいの?」
「カノジョじゃない」
「ああ、そうなの? 後輩とか? 待たせちゃ悪いんじゃない」
 七尾は大きな溜息を吐いた。そして体育館を振り返ると手を振った。
「待たせてねーよ。待たれてるだけ」
「俺様だね」
「ほ~? じゃあお前のタイプじゃん、良かったな」
 星子は何の話かと、いつもより近い三白眼を覗く。
「俺様系がタイプなんだろ?」
「そうだっけ」
「あれれ~、星子チャンは自分の言ったことも忘れちゃうのかな~」
 星子は七尾の制服の肩を捉えた。傘を傾けているために雨を受けて透けている。
 バッグからハンドタオルを取り出す。
「肩濡れてる」
 七尾はタオルを睨む。さらに前へ突き出しても受け取りはしない。この尊大な男子は、自ら拭くことはしないのだろう。下僕が拭けというわけだ。星子は濡れた箇所をタオルで叩く。
「は?」
「これ使ってないから清潔(きれい)だよ」
 肩を拭く手が剥がされる。
「そうじゃなくて……いいや」
 七尾は傘を閉じた。まだ雨は降っている。星子に渡し、彼女は受け取った。何故閉じたのか分からないまま、ストラップを外そうとした。しかし傘が開く前に、星子の身体は七尾に引き寄せられた。足の裏が濡れた階段から離れる。
「え!」
「笹森のほうが良いとか言うなよ」
「な、七尾くん! 危ないよ!」
「暴れんなって、お姫様」
 シャツ越しの鼓動が聞こえる。雨水に体温を奪われながら、蒸れていく。
 小学時代は星子のほうが背が高かった。しかし今はもう比べるまでもないほどの圧倒的な体格差ができている。男子の肉体とは不思議なものだ。


 保健室には誰もいなかった。星子は診察台に置かれた。
 七尾は保健室に来慣れているようで、タオルと体操着を星子に放り投げる。
「ありがとう」
「へーへー」
 彼は背を向け、シャツを脱ぎ始める。まだ夏もそう深まっていないというのに彼の肌はすでに焼けている。シャツを脱いでも上半身は白い半袖シャツが薄らと見える。
「わ、わ……!」
「何」
「なんで脱ぐの!」
「濡れてるから。風邪ひいちまうだろ。白川も脱いだら?」
 星子は目を剥いた。だが一瞬のことだった。小学校入学時代から知った相手だ。大したことではないのだろう。男女ではない。友人だ。咲菜とも下着程度までは見せ合える。ブラウスのボタンに手を掛けた。
「おいおいおい、星子チャぁン? 俺のこと忘れてない?」
「でも脱いだら、って……」
「フツーはどっか隠れるヨネ?」
「ああ、ごめんなさい。七尾くんだからいいかなって思っちゃった」
 七尾は眉間に皺を寄せた。三白眼が細まり、星子を横目で捉える。
「あのなぁ……」
 星子は体操着を持ってベッドに向かった。カーテンを閉める。
 ブラウスを脱ぎ、長袖の体操着を被る。スカートを外し、ハーフパンツに爪先を通す。
「変な噂たっちゃうかもな」
 カーテンの向こうで七尾が鼻を鳴らす。
「変な噂って?」
「この稀代のモテ男の俺様にもカノジョができたって」
 星子は思い出した。彼は告白を受けている最中だったのだ。
「ああ、あの子と付き合うんだ。でもごめんね、なんか邪魔しちゃったみたいで……あの子にもあとで謝らないといけないよね」
「はぁ?」
「でも友情より愛情を採(と)らなきゃいけないときもあるよ。気にかけてくれたのはありがたいし、わたしが悪いんだけど……」
 雨音が聞こえる。七尾は雨に消えてしまったのか。
「七尾くん? 寝た?」
 よく食べ、よく寝るのが、星子のよく知る七尾文貴だ。
 カーテンを開けると、七尾が佇んでいる。太陽が隠された天気は、普段よりも室内を暗くする。彼の表情を塗り潰している。
「白川は友情より愛情、採んの?」
「うーん、どうだろ。恋愛とか分からないし」
 七尾は三白眼だけをくれた。見下されている。
「もし、琴峯さんと好きなヤツが被ったとしても?」
 咲菜と想人が同じだったら。笹森を好きになったら。しかし星子は笹森五百鈴をよく知らなかった。精々、英語の成績が良く、囲碁将棋部に入っていることしか知らない。笹森五百鈴を好きになったら……縹緻(きりょう)は好い。背が高く、物腰は柔らかい。だが同級生の域を出ない。
「咲菜ちゃんのほうが大事だと思う」
「……ふーん」
「だって咲菜ちゃんは優しいし」
「俺だって優しいだろ」
「なんで張り合うの」
 遠くで雷が鳴った。星子は窓の外に気を取られる。咲菜は雷が苦手だった。今頃は家で一人で寝ているのだろうか。美少女は、そういう点もまた可憐に見える。
「七尾くん、早く戻らないとさっきの子、雷怖がってるかもよ」
「足、自分で手当てしとけよ」
 彼は濡れたシャツを肩に掛け、保健室から出て行ってしまった。







 玄関に戻ると、自動販売機の前に笹森がいた。隣のクラスの女子と談笑している。腰を屈め、白い牛乳パックを持ち上げた。青みの入ったデザインは牛乳ではなくヨーグルトジュースだろう。
『じゃあね、部活、頑張ってね』
 笹森は、話していた女子に微笑を見せる。女子は彼に手を振った。咲菜とは正反対の快活な雰囲気で、仕草のひとつ、表情のひとつが輝かしい。
 笹森はその女子が消えていくのを見ていた。星子は彼の後姿を見ていた。咲菜が悲しい思いをするのかもしれない。しかしそれを伝えるべきか、伝えないべきか。
 笹森はストローを咥えて振り返った。温厚な印象を与える垂れ目が見開かれる。
「あ、白川さん」
 下駄箱が光る。そして空の破裂する音が廊下に谺(こだま)した。
「雷、すごいね。白川さんも、部活?」
 笹森は微苦笑を浮かべた。そして星子の服装を眺めた。だが嫌味のない視線だった。
「あ……ううん。これは転んで制服濡らしちゃったの。七尾くんに助けてもらったんだけれど……」
「七尾、まだいるの?」
「保健室で別れちゃったの。もう帰ったんじゃないかな」
「えー、そうなの。なんだ、待ってるだけ損したな。白川さんは今帰るところ?」
「うん。でも……」
 星子は外を見た。夥しい数の白い線が空から降っている。
「じゃあ一緒に帰ろう。雨が少し落ち着いたらさ」
 笹森は玄関ホールの共有スペースに回っていった。星子も後を追う。ベンチに腰を掛けた彼の隣にひとつ空けて腰を下ろす。
 きょとんとした垂れ目がヨーグルトジュースを吸いながら星子を一瞥する。
「汗臭かった?」
「え、わたし?」
 体操着の襟を摘んで、中を嗅ぐ。保健室の匂いがした。そして半乾きの匂いもする。
 笹森は笑った。
「違うよ、ぼくが」
「ううん、全然、全然。笹森くんは臭くないよ」
 しかし星子が気にしてしいるのは半乾きの匂いでも汗臭さでもない。
 咲菜にはない外向的な笑顔が星子の眼球の裏に残ったまま、大雨では洗い流せない。
「あ、あのさ、さっきの子って……」
 星子は固唾を呑んだ。咲菜の恋が決まってしまう。
「え?」
 座りながら、上半身を星子に向け、笹森は首を傾げた。校則違反の扱いでもおかしくない色素の薄い髪が颯々と揺れる。
「あ、あの、さっき話してた子は……?」
 窓という窓、玄関口という玄関口から閃光が走った。笹森の輪郭が消える。
 空が裂けるほどの轟音が響き渡った。
「ごめん、なんて言った……?」
「あ、………えっと………」
 もし笹森と特別な関係にあったのなら、咲菜が悲しむ。しかし真相を知ったまま、咲菜に黙っておくことはできない。
「ん、ううん! なんでもない! 雷、怖いねー」
「白川さん、雷、苦手?」
「わたしはそんな怖くないよ! 落ちてきたら怖いけど……咲菜ちゃんがね、雷怖がるんだ」
 咲菜を意識するべきだ。同じクラスに絶世の美少女がいるのだ。笹森は彼女に気付くべきなのだ。雷を怖がる可憐な女の子がすぐ傍にいるのだ。
 星子は笹森の目を見詰める。
「咲菜ちゃんって、琴峯さんだよね。そうなんだ。雷、怖いんだ」
「可愛いよね」
「うん。琴峯さん、綺麗だし」
 星子は思わず立ち上がってしまった。笹森も即座に星子の挙動を目で追っていた。
 笹森から見ても、咲菜は美少女なのだ。
 星子は親友の好きな人を振り返る。髪同様に色素の薄い瞳が透けていた。視線が搗(か)ち合った途端、彼は慌て出した。
「あ、白川さんも綺麗だと思うよ。七尾だってそう言ってたし」
 だが星子は、先程七尾が交際相手と一緒にいるのを見た。
「ああ、それは玉子焼き目当てだと思う。いけないな、七尾くん。カノジョいるのにそんなこと、冗談でも言っちゃうのは良くないな」
 交際相手がいるというのに、七尾は軽薄だ。星子から見ても、彼は軟派なところがある。
「あれ、七尾ってカノジョいるんだ?」
 笹森と顔を見合わせる。どうやら七尾は笹森にも秘していたらしい。
「だってさっき、あそこの体育館の下で、女の子といたよ?」
「ああ、それなら違うよ。なんか1年生の女の子に呼ばれたって言ってたから。カノジョ要らないって言ってたけどなぁ。他に好きな子いるっぽいし」
 外が光る。雷鳴は不完全燃焼といった具合。星子は掴んだ。手応えがあった。
「笹森くんは、いるの? 好きな子……」
 笹森の緩やかな「W」を描く口元が「M」字に近付いていく。
「……いないよ。今は」
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