乾杯はふたりだけの秘密
 気付けば、自宅マンションのエレベーターの前だった。
「先輩、起きてますか?」
「うん、起きてるよ~」
 揺れが心地好くて、ついぼんやりしていた。
「鍵貸してください」
「ああ……うん。えーっとぉ……こっちだっけ。あれぇ? 違うか。こっちだったかなぁ……」
 結衣はわざともたもたしながらコートのポケットを片方ずつ探って鍵を取り出し、新田に手渡した。あの日、鍵を開けた記憶がなかったのは、おそらくこれが理由だと気付いた。
「靴脱がせますよ」
 玄関で下ろされるのかと思えば、新田は背中に乗せたままで器用にパンプスを脱がせる。くすぐったくて、思わず身をよじった。
「先輩、暴れないでください。落ちますよ」
 敬語だけれど、顔は半笑いだ。困っているというよりは、少し面白がっているようにも見える。「しょうがないな」という慣れのニュアンスと、どこか余裕めいたものも感じられた。
「お邪魔します。とりあえずソファで下ろしますね」
 そう言いながら、新田も靴を脱いでリビングに進んだ。酔っているとはいえ、いつもこんなことまでさせていたのかと、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。
「下ろしますけど、まだ手は離さないでくださいね」
「うん」
 ただの酔っ払いを甘やかし過ぎている。まるで赤ちゃんをベッドに寝かせるように、ゆっくりと屈んで静かにソファに下ろされた。
 見上げると、新田の柔らかな笑顔があった。
「大丈夫ですか? 水持ってきましょうか?」
「……うん」
「ちょっと待っててください」
 キッチンへ向かう新田の背中を眺めていると、自分でも説明がつかないような感情が芽生え、結衣はゆっくりとソファに横たわった。
「どうぞ」
 しばらくして、水の入ったグラスが目の前に差し出された。
「飲めな~い」
「え?」
「飲ませて」
 新田の反応が見てみたくなって、どさくさに紛れてそんなことを言ってみる。酔っ払いならこれくらい許されるだろう。
 新田は一瞬驚いた表情を見せたが、「はいはい」と言いながら甘く微笑んでソファに腰を下ろした。自分から仕掛けておきながら、不意に近付いてきた顔に動揺して反射的に目を伏せた瞬間、羽毛を掬い上げるような力加減で抱き起こされた。
「どうぞ」
 グラスが近付き、唇に軽く触れた。薄く唇を開くと、冷たい水がゆっくりと口内に注がれた。
「ありがと~」
「先輩、ベッド行きますか?」
「――ッ!?」
 ――待って待って待って!!
 結衣の心臓が激しく鼓動した。まだ心の準備ができていない。少し甘えてみるだけのつもりだったが、新田には挑発しているように映ったのかもしれない。
「やだ」
 心の声が思わず口をついて出た。
「まだ嫌~」
 きっちり拒否をする酔っ払いを演じてみるが、もう遅い。再び「はいはい」と慣れた口調で窘められ、抱きかかえられた。おんぶとは違ってまともに顔を合わせる形となり、目のやり場に困った結衣は咄嗟に瞼を閉じた。
 数歩歩くと、そこはもう寝室だとわかる。足を止めた新田の腕からゆっくりとベッドに下ろされると、しばらく時が止まったように静まり返った。
 ふと、帰ってしまったのかと不安になり、状況を確認しようと薄目を開けると、ベッド脇で屈んで覗き込む新田の顔がすぐそばにあった。結衣は堪えきれず、寝返りを打って背を向けた。
「先輩?」
 動揺してボロを出しそうな気がして、結衣は押し黙った。
「どうせ明日になったら、また覚えてないんですよね」
 眠っているものと思い込んだのか、新田がひとりごとのように呟いた。その声は、どことなく寂しげに聞こえる。
「先輩?」
 返事をしようか迷った。もし、もう一度呼ばれたら、寝ぼけたふりをして返事してみよう。
「結衣――」
 不意に低く甘い声で呼び掛けられ、息を呑んだ。新田に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに、心臓の音がうるさい。
「俺はお前のこと、すげえ好きなんだけど」
 一瞬、空気の揺れを感じた。甘い香りが鼻をくすぐり、すぐそばに新田の温かい気配を感じる。次の瞬間、額に柔らかくて温かいものが触れて、思わず目を開けそうになった。
「おやすみ」
 囁くように呟くと、新田の足音が遠ざかった。
 結衣は無意識に止めていた息をゆっくりと吐き出した。体の力は抜けていくが、胸の高鳴りは鳴り止まない。
 やがて鍵を閉める音が聞こえ、数秒後、新聞受けに鍵が落とされる音が続いた。結衣は寝返りをうって仰向けになり、目を閉じて指先で額を撫でた。
< 10 / 29 >

この作品をシェア

pagetop