乾杯はふたりだけの秘密
マンションに到着してエレベーターに乗り、コートのポケットから鍵を取り出して差し込もうとしたところで、ようやく新田が口を開いた。
「先輩、すみません」
「うん?」
結衣は振り向いて新田を見上げた。彼の眉がひそめられ、唇は固く引き結ばれているように見える。その表情に、何か不安や焦りのようなものを感じ取った。
「何か変なこと言ってしまって……俺、やっぱ帰ります」
新田にしては珍しい発言だった。気を遣っているのだろうか。何を今さら、と不思議に思う。
「訳わかんないこと言ってすみません。熱のせいで、何かちょっとおかしくなってるんだと思います」
新田の言う通りなのかもしれない。今日の新田はちょっとおかしい。けれど、だからこそひとりで放っておけないと思ったのも事実だった。
「適当に何か食って寝てたら治ると思うんで」
「ううん、いいよ。もうひとりで帰せないし、上がって」
結衣がそう返すと、新田は表情を緩め素直に応じた。
「お邪魔します」
ひんやりとした玄関でスリッパに履き替え、リビングへ向かう。静まり返った家の中に、スリッパの足音だけがやけに響くように感じた。
「ベッド行く? あ、着替えいるよね、ちょっと待ってて」
結衣はリモコンを手に取り、暖房を入れた。
「あの、俺まだ寝ないんで、ここにいてもいいですか?」
「ああ、うん。じゃあソファに座ってて。すぐに暖房効いてくると思うから」
「はい、ありがとうございます」
結衣は寝室のクローゼットの引き出しから、一番大きいスウェットを取り出した。それからベッドを整えてリビングに戻った。
「起きてるのは構わないけど、先に着替えたら? スーツじゃ窮屈でしょ」
結衣はソファに座る新田に着替えを手渡すと、ソファの背もたれに掛けられた彼のコートを手に取り、ハンガーに掛けた。
「ありがとうございます。そうします」
新田は喉元へ手をやりながら立ち上がり、ネクタイの結び目に指先を差し入れ、ゆっくりと引き下げた。その仕草が妙に生々しくて、釘付けになった。
ふと我に返って、視線を外す。
「預かるよ」
結衣が手を差し出すと、新田がジャケットを脱いだ。そうして、首から引き抜かれたネクタイ、シャツと順に受け取る。
部屋が温まってくると、指先にじんわりと血が巡るのがわかる。冷えていた頬もほんのりと熱を帯びてきた。
着替えを済ませた新田が再びソファに腰掛け、隣に結衣も腰を下ろした。
「お世話になります」
「ううん、気にしないで」
言いながら、自分にはかなりオーバーサイズのスウェットをジャストサイズで着こなしている新田の姿をさりげなく確認した。“彼シャツ”の逆バージョンに何となく照れ臭くなるけれど、今はそのことには触れない。
「会社の人は、先輩んち来たことあるんですか?」
「ないねえ」
「木村先輩と中島先輩もですか?」
「うん。どっちも来たことない」
「俺だけ、ですか?」
「うん」
「そうですか」
新田の表情が満足げに見えるのは、気のせいだろうか。なにげない会話で、自然と沈黙がほどけていった。
「ここ、誰かと一緒に住んでたんですか?」
「ううん、ひとりだよ」
「それにしては、広すぎませんか?」
「うん、そうなんだよね。部屋を決める時、寝室は別がいいと思ったんだけど、住んでみたら別にいらなかったなって。そんなにしょっちゅう人が来るわけじゃないし、パーテーションで仕切れば良かったじゃんって思ってね」
「来るのは彼氏くらいですか?」
「うん、まあ……」
何となく今は触れてほしくない部分だった。ろくでもない男を思い出したくないというわけではなく、場の空気がしらけてしまう気がするからだ――と、こんな状況でも無意識に恋愛モードになっている自分のほうが、ろくでもない女なのかもしれない。
「先輩?」
「うん?」
「俺のこと、好きですか?」
「うん」
もう、後輩として、とは言わない。
「そう、ですか」
新田が大きく息をついたのがわかった。そうして、結衣は自分の肩の力も抜けていくのを感じた。
「先輩、すみません」
「うん?」
結衣は振り向いて新田を見上げた。彼の眉がひそめられ、唇は固く引き結ばれているように見える。その表情に、何か不安や焦りのようなものを感じ取った。
「何か変なこと言ってしまって……俺、やっぱ帰ります」
新田にしては珍しい発言だった。気を遣っているのだろうか。何を今さら、と不思議に思う。
「訳わかんないこと言ってすみません。熱のせいで、何かちょっとおかしくなってるんだと思います」
新田の言う通りなのかもしれない。今日の新田はちょっとおかしい。けれど、だからこそひとりで放っておけないと思ったのも事実だった。
「適当に何か食って寝てたら治ると思うんで」
「ううん、いいよ。もうひとりで帰せないし、上がって」
結衣がそう返すと、新田は表情を緩め素直に応じた。
「お邪魔します」
ひんやりとした玄関でスリッパに履き替え、リビングへ向かう。静まり返った家の中に、スリッパの足音だけがやけに響くように感じた。
「ベッド行く? あ、着替えいるよね、ちょっと待ってて」
結衣はリモコンを手に取り、暖房を入れた。
「あの、俺まだ寝ないんで、ここにいてもいいですか?」
「ああ、うん。じゃあソファに座ってて。すぐに暖房効いてくると思うから」
「はい、ありがとうございます」
結衣は寝室のクローゼットの引き出しから、一番大きいスウェットを取り出した。それからベッドを整えてリビングに戻った。
「起きてるのは構わないけど、先に着替えたら? スーツじゃ窮屈でしょ」
結衣はソファに座る新田に着替えを手渡すと、ソファの背もたれに掛けられた彼のコートを手に取り、ハンガーに掛けた。
「ありがとうございます。そうします」
新田は喉元へ手をやりながら立ち上がり、ネクタイの結び目に指先を差し入れ、ゆっくりと引き下げた。その仕草が妙に生々しくて、釘付けになった。
ふと我に返って、視線を外す。
「預かるよ」
結衣が手を差し出すと、新田がジャケットを脱いだ。そうして、首から引き抜かれたネクタイ、シャツと順に受け取る。
部屋が温まってくると、指先にじんわりと血が巡るのがわかる。冷えていた頬もほんのりと熱を帯びてきた。
着替えを済ませた新田が再びソファに腰掛け、隣に結衣も腰を下ろした。
「お世話になります」
「ううん、気にしないで」
言いながら、自分にはかなりオーバーサイズのスウェットをジャストサイズで着こなしている新田の姿をさりげなく確認した。“彼シャツ”の逆バージョンに何となく照れ臭くなるけれど、今はそのことには触れない。
「会社の人は、先輩んち来たことあるんですか?」
「ないねえ」
「木村先輩と中島先輩もですか?」
「うん。どっちも来たことない」
「俺だけ、ですか?」
「うん」
「そうですか」
新田の表情が満足げに見えるのは、気のせいだろうか。なにげない会話で、自然と沈黙がほどけていった。
「ここ、誰かと一緒に住んでたんですか?」
「ううん、ひとりだよ」
「それにしては、広すぎませんか?」
「うん、そうなんだよね。部屋を決める時、寝室は別がいいと思ったんだけど、住んでみたら別にいらなかったなって。そんなにしょっちゅう人が来るわけじゃないし、パーテーションで仕切れば良かったじゃんって思ってね」
「来るのは彼氏くらいですか?」
「うん、まあ……」
何となく今は触れてほしくない部分だった。ろくでもない男を思い出したくないというわけではなく、場の空気がしらけてしまう気がするからだ――と、こんな状況でも無意識に恋愛モードになっている自分のほうが、ろくでもない女なのかもしれない。
「先輩?」
「うん?」
「俺のこと、好きですか?」
「うん」
もう、後輩として、とは言わない。
「そう、ですか」
新田が大きく息をついたのがわかった。そうして、結衣は自分の肩の力も抜けていくのを感じた。