さくらの約束
瀬川海(せがわうみ)は、眼鏡の奥の瞳でいつも、クラスの端に座る白星妃(しらぼしきさき)を追っていた。
 ルーム長として接するうちに、彼は彼女が言葉を紡げない「失声症」であることを知る。けれど、声がないことは、彼女の美しさを少しも損なわせなかった。
 四月の放課後。校庭の桜が風に踊る窓際で、二人はノートを介して会話をしていた。
「桜は、満開のときが一番綺麗だよね」
 海の言葉に、妃は少しだけ寂しそうに微笑み、さらさらとペンを走らせた。
『私は、散る姿が一番綺麗だと思う』
 その感性に、海は胸を突かれた。多くの人が絶頂の美しさを愛でるなかで、彼女だけは消えゆく瞬間の、儚い煌めきを愛していた。
「……そうだね。散る桜も、雪みたいで綺麗だ。でも、僕は会いに行くよ。散っていく桜のように、今のあなたが一番美しいと思うから」
 海の真っ直ぐな言葉に、妃の瞳が揺れた。彼女は大きな瞳を潤ませ、震える手でノートにこう書いた。
『ありがとう』
 それが、彼女の精一杯の告白のように海には見えた。
 しかし、妃には海に言えない秘密があった。
 桜が完全に散り果てる頃、彼女はこの街を去らなければならない。ルーム長として真面目に自分を支えてくれた海に、悲しい顔をさせたくなくて、転校の事実は伏せたままでいた。
 別れの前日。夕暮れの桜並木で、二人は並んで歩いた。
 風が吹き、薄桃色の花びらが二人の間を通り抜けていく。その時、妃が立ち止まった。
 彼女は海の手をそっと握り、眼鏡越しに彼の目を見つめた。
 そして、これまで一度も聞くことのできなかった、かすかな、けれど凛とした声が海の耳に届いた。
「……ありが、とう」
 海が息を呑む。彼女の声は、春の風に溶けてしまいそうなほど繊細だった。
 妃は一つのメモを彼に手渡した。そこには、彼女の本当の願いが綴られていた。
『桜が散る頃が一番綺麗。でも、桜がまた咲く頃に、あなたに逢いたい』
 翌日、彼女の机は空になっていた。
 海は、散り急ぐ花びらの中で立ち尽くす。彼女が教えてくれなかった「転校」という事実。けれど、悲しみよりも先に、胸に灯ったのは熱い決意だった。
「待ってるよ。桜が咲く場所で。君という星を見つけるから」
 真面目なルーム長は、今日も眼鏡を指で押し上げ、彼女がいない教室で、次の一歩を刻み始める。いつかまた、満開の桜の下で、彼女の本当の笑顔に「会いに行く」ために。
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