夜のパン屋さん

夜のパン屋さん

ひっこしてきて、まだ二週間もたっていない。
段ボールが、まだ三つも部屋のすみに残っている。
ひなたは、その一つに寄りかかって、天井のしみを数えていた。




時計は、もう夜中の一時をまわっていた。
カーテンの隙間から、なにかがちらちら光っている。
オレンジ色の、火みたいな光だった。




サンダルをつっかけて、外に出た。
昼間は工事のトラックが通るだけの、なんでもない路地。
そこに、見たことのない店が、あたりまえの顔をして建っていた。


ドアを押すと、ベルも鳴らずに開いた。
奥から、低い声がした。
「……いらっしゃい」
くまは、ひなたのほうを見もしなかった。




棚には、パンの札が、字もばらばらに手書きされていた。
「言えなかった、ごめん」
「言えなかった、ありがとう」


奥の棚には、値札のないパンもあった。
くまが、ぼそっと言った。
「それは、まだ焼けてない」



「これ、ください」
一番小さいパンを指さすと、くまは無言で紙に包んだ。
レシートも、値段も、何もなかった。



かじると、少しぱさぱさしていた。
おいしくは、なかった。
でも、なんでか、前の学校で最後に話した女の子の、困ったような顔が浮かんだ。



くまは、そのままカウンターを拭いていた。
何も言わなかった。
ひなたも、何も言わなかった。



気がつくと、自分の部屋だった。
カーテンの隙間から、朝の光が入っていた。
手のひらを見ると、パンくずが、ひとつだけ。



教室に入ると、いつもの席に、いつもの子がいた。
一度も、名前を呼んだことのない子。



ひなたは、机のあいだを歩いていった。
心臓が、変な音を立てていた。
「あの」



その子が、顔を上げた。
「……なに?」
ひなたは、少し笑って、隣の椅子を指さした。
「ここ、座っていい?」
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