初恋リスタート!
24歳の仮面
「お疲れ様でした! 来週のプレゼン資料、
共有ドライブに格納しておいたので確認お願いします!」
金曜日の午後八時。自分で言うのもなんだけど、ハキハキとした明るい自分の声が響く。
桜田莉愛、社会人二年目。
東京のIT系企業で営業アシスタントとして働く私は、社内でもそれなりに元気で好奇心旺盛な若手として通っていた。
何か新しいプロジェクトの兆しがあれば一番に首を突っ込み、他部署との調整も愛想よく難なくこなす。同僚からは「いつもポジティブで羨ましい」なんて言われることもある。
だけど――それは、大人になってから血の滲むような努力で作り上げた、完璧な「仮面」だった。
「はぁ……。今週も、なんとか生き延びた……」
最寄り駅から徒歩十分の狭いワンルームマンション。鍵を開けバッグを床に放り投げた瞬間、私の身体から「大人の私」のメッキが剥がれ落ちる。
ドサリとベッドに倒れ込み、天井を見つめると、胸の奥に沈んでいる重い重い錆びついた錨がジワジワと存在感を主張し始める。
本当の私は、こんな風に笑える人間じゃなかった。
私の記憶の底にある小学校から中学校までの九年間は、思い出すだけで呼吸が浅くなるような、完全なる暗黒時代だ。
元々はただ不器用で、極端に引っ込み思案な子供だった。何を喋るにもオドオドしてしまい、クラスメイトの顔色を伺っては「あ、ううん、なんでもない……」と口を噤む。
そんな態度が周囲の癪に障ったのだろう。
小学校高学年の頃には、すでに私の周りには誰もいなくなっていた。
中学校に進学しても、そのカーストは地続きだった。むしろ思春期特有の残酷さが加わり、私の立場は「クラスの底辺」で完全に固定された。
「なんか、あいつジメジメしてて気落ち悪い」
「話しかけんなよ、陰キャがうつる」
露骨な陰口、バイ菌を見るような目。移動教室の時はいつも一人で、机を並べるグループワークでは私がどこの班に入るかで押し付け合いの押し問答が始まる。腫れ物に触るような扱い、あるいは存在しないかのような無視。
私はいつしか学校という空間で「息を潜めて気配を消して、ひたすら耐えるモブ」になることでしか、自分を守れなくなっていた。
そんな灰色なんて言葉じゃ生ぬるい、漆黒の絶望に塗れた私の3年間。
そこにたった一つだけ、奇跡みたいに綺麗な光があった。
内山先生。
学校の北校舎、最上階の突き当たりにある第一理科室の主。
私の担任でもなければ学年の担当でもない。年齢は当時、おそらく二十代の半ば。少し癖のある黒髪に、いつも少し着崩した白衣を羽織り気だるげに、だけどどこか楽しそうに試験管や顕微鏡を弄っている大人の男性。
きっかけは、中学一年の初夏。クラスメイトから押し付けられたゴミ拾いの居残りで、一人で泣きながら校庭を歩いていた時のことだ。
ふと見上げた理科室の窓辺に、西日を浴びながら遠くを眺めている内山先生の姿があった。
その表情があまりにも静かで、だけどどこか優しくて。世界の全てから拒絶されているような心地がしていた私の心に、その白衣のシルエットがストンと、温かい灯火のように落ちてきたのだ。
それからの三年間、私の生きがいは「遠くから内山先生を見つめること」だけになった。
ストーカーのようにならないよう細心の注意を払いながら、すれ違う廊下で心臓が破裂しそうになるのを感じる。
週に一度、理科室の前を通る移動教室の時間だけが私にとっての聖域だった。一度でいいから話してみたい。その白衣のポケットに手を突っ込んだ先生に、「先生」って呼びかけてあの気だるげな、だけど優しい声で「ん?」と振り返ってほしかった。
だけど、当時の私は「クラスの嫌われ者」だ。そんなゴミみたいな自分が、学校で人気の内山先生に話しかけるなんて、おこがましいにも程がある。
結局卒業式の日まで、私は一度も先生と言葉を交わすことができなかった。ただ遠くから、たくさんの生徒に囲まれて笑う先生の白衣の背中を涙で滲む視界で見つめていただけ。
「……内山先生」
24歳になった今でも、お酒を飲んでひとりで夜を迎えるとき、思い出すのは決まって先生の姿だ。
大人になってそれなりの知識をつけ、メイクを覚え、服を選び、誰とでも物怖じせず話せるスキルを身につけた。男性から食事に誘われることだって、一度や二度じゃない。
だけど誰の隣にいても、私の心はあの理科室の窓辺に取り残されたままだった。恋を知る前の、一番苦しくて死にそうだった私をただそこに存在することで救ってくれていた、私の神様。
「一回くらい、ちゃんと喋ってみたかったなぁ。今のコミュ力があれば、絶対に理科室の常連になってみせるのに」
苦笑しながら、マグカップに残った冷めた白湯を飲み干す。
明日も仕事だ。ため息を夜気に溶かしながら、私は電気を消してベッドに潜り込んだ。
ゆっくりと目を閉じる。心臓がなぜかトクトクと、いつもより少し強い主張をしながら脈打っているのを感じながら、私は深い眠りへと落ちていった。
――チク、タク、チク、タク。
暗闇の中で、奇妙な音が響き始めた。
それは、ワンルームにある安物の時計の音ではない。もっと重厚でどこか懐かしい、柱時計のような音。
音がだんだんと大きくなる。チクタク、チクタク、チクタク――。
やがてその音は、凄まじい勢いで「逆回転」を始めた。
ガラガラガラガラ!!!と、世界が崩壊するような音が脳内を満たす。
「え……っ!?」
あまりの衝撃に目を開けようとしたが、身体が強烈な重力に引っ張られるようで、指一本動かせない。まるで奈落の底へ向かって、超高速のジェットコースターで真っ逆さまに落ちていくような感覚。
(何これ、地震!? それとも、私、死ぬの――!?)
あまりの恐怖に私はぎゅっと目を瞑り、嵐が過ぎ去るのを待つように身を縮めた。
共有ドライブに格納しておいたので確認お願いします!」
金曜日の午後八時。自分で言うのもなんだけど、ハキハキとした明るい自分の声が響く。
桜田莉愛、社会人二年目。
東京のIT系企業で営業アシスタントとして働く私は、社内でもそれなりに元気で好奇心旺盛な若手として通っていた。
何か新しいプロジェクトの兆しがあれば一番に首を突っ込み、他部署との調整も愛想よく難なくこなす。同僚からは「いつもポジティブで羨ましい」なんて言われることもある。
だけど――それは、大人になってから血の滲むような努力で作り上げた、完璧な「仮面」だった。
「はぁ……。今週も、なんとか生き延びた……」
最寄り駅から徒歩十分の狭いワンルームマンション。鍵を開けバッグを床に放り投げた瞬間、私の身体から「大人の私」のメッキが剥がれ落ちる。
ドサリとベッドに倒れ込み、天井を見つめると、胸の奥に沈んでいる重い重い錆びついた錨がジワジワと存在感を主張し始める。
本当の私は、こんな風に笑える人間じゃなかった。
私の記憶の底にある小学校から中学校までの九年間は、思い出すだけで呼吸が浅くなるような、完全なる暗黒時代だ。
元々はただ不器用で、極端に引っ込み思案な子供だった。何を喋るにもオドオドしてしまい、クラスメイトの顔色を伺っては「あ、ううん、なんでもない……」と口を噤む。
そんな態度が周囲の癪に障ったのだろう。
小学校高学年の頃には、すでに私の周りには誰もいなくなっていた。
中学校に進学しても、そのカーストは地続きだった。むしろ思春期特有の残酷さが加わり、私の立場は「クラスの底辺」で完全に固定された。
「なんか、あいつジメジメしてて気落ち悪い」
「話しかけんなよ、陰キャがうつる」
露骨な陰口、バイ菌を見るような目。移動教室の時はいつも一人で、机を並べるグループワークでは私がどこの班に入るかで押し付け合いの押し問答が始まる。腫れ物に触るような扱い、あるいは存在しないかのような無視。
私はいつしか学校という空間で「息を潜めて気配を消して、ひたすら耐えるモブ」になることでしか、自分を守れなくなっていた。
そんな灰色なんて言葉じゃ生ぬるい、漆黒の絶望に塗れた私の3年間。
そこにたった一つだけ、奇跡みたいに綺麗な光があった。
内山先生。
学校の北校舎、最上階の突き当たりにある第一理科室の主。
私の担任でもなければ学年の担当でもない。年齢は当時、おそらく二十代の半ば。少し癖のある黒髪に、いつも少し着崩した白衣を羽織り気だるげに、だけどどこか楽しそうに試験管や顕微鏡を弄っている大人の男性。
きっかけは、中学一年の初夏。クラスメイトから押し付けられたゴミ拾いの居残りで、一人で泣きながら校庭を歩いていた時のことだ。
ふと見上げた理科室の窓辺に、西日を浴びながら遠くを眺めている内山先生の姿があった。
その表情があまりにも静かで、だけどどこか優しくて。世界の全てから拒絶されているような心地がしていた私の心に、その白衣のシルエットがストンと、温かい灯火のように落ちてきたのだ。
それからの三年間、私の生きがいは「遠くから内山先生を見つめること」だけになった。
ストーカーのようにならないよう細心の注意を払いながら、すれ違う廊下で心臓が破裂しそうになるのを感じる。
週に一度、理科室の前を通る移動教室の時間だけが私にとっての聖域だった。一度でいいから話してみたい。その白衣のポケットに手を突っ込んだ先生に、「先生」って呼びかけてあの気だるげな、だけど優しい声で「ん?」と振り返ってほしかった。
だけど、当時の私は「クラスの嫌われ者」だ。そんなゴミみたいな自分が、学校で人気の内山先生に話しかけるなんて、おこがましいにも程がある。
結局卒業式の日まで、私は一度も先生と言葉を交わすことができなかった。ただ遠くから、たくさんの生徒に囲まれて笑う先生の白衣の背中を涙で滲む視界で見つめていただけ。
「……内山先生」
24歳になった今でも、お酒を飲んでひとりで夜を迎えるとき、思い出すのは決まって先生の姿だ。
大人になってそれなりの知識をつけ、メイクを覚え、服を選び、誰とでも物怖じせず話せるスキルを身につけた。男性から食事に誘われることだって、一度や二度じゃない。
だけど誰の隣にいても、私の心はあの理科室の窓辺に取り残されたままだった。恋を知る前の、一番苦しくて死にそうだった私をただそこに存在することで救ってくれていた、私の神様。
「一回くらい、ちゃんと喋ってみたかったなぁ。今のコミュ力があれば、絶対に理科室の常連になってみせるのに」
苦笑しながら、マグカップに残った冷めた白湯を飲み干す。
明日も仕事だ。ため息を夜気に溶かしながら、私は電気を消してベッドに潜り込んだ。
ゆっくりと目を閉じる。心臓がなぜかトクトクと、いつもより少し強い主張をしながら脈打っているのを感じながら、私は深い眠りへと落ちていった。
――チク、タク、チク、タク。
暗闇の中で、奇妙な音が響き始めた。
それは、ワンルームにある安物の時計の音ではない。もっと重厚でどこか懐かしい、柱時計のような音。
音がだんだんと大きくなる。チクタク、チクタク、チクタク――。
やがてその音は、凄まじい勢いで「逆回転」を始めた。
ガラガラガラガラ!!!と、世界が崩壊するような音が脳内を満たす。
「え……っ!?」
あまりの衝撃に目を開けようとしたが、身体が強烈な重力に引っ張られるようで、指一本動かせない。まるで奈落の底へ向かって、超高速のジェットコースターで真っ逆さまに落ちていくような感覚。
(何これ、地震!? それとも、私、死ぬの――!?)
あまりの恐怖に私はぎゅっと目を瞑り、嵐が過ぎ去るのを待つように身を縮めた。