桜坂くんの余命が尽きるまで。
第2話 世界の色彩が変わる場所
桜坂くんから秘密を打ち明けられてから一週間が経った
五月の風は日ごとに爽やかさを増し、クラスの男子たちは額に汗を浮かべながら部活動へと駆けていく
そんな眩しい日常のすぐ隣で私と桜坂くんの時間は静かに、しかし確実にすり減っていた
「ねぇ森永さん 今日の日直の仕事、代わってくれてありがとう」
放課後の図書室
いつものカウンター席に座るなり、桜坂くんが小さく頭を下げた
彼の顔色は先週よりも少しだけ白いように見えた
「ううん、別に大したことしてないし ちょっと体調が悪そうだったから」
「やっぱり顔に出てたかな 最近、朝起きるのが少しきつくてさ」
彼は自嘲気味に笑い、お気に入りのシャーペンを指先でくるくると回した
その指は驚くほど細く、皮膚の下を走る青い血管が彼の命の危うさを無言で主張しているようだった
あの日以来、私は彼の「一挙手一投足」を観察するようになってしまった
授業中に彼が少しでも胸に手を当てれば心臓が跳ね上がり、彼が深くため息をつくだけで最悪の事態が頭をよぎる
普通に過ごしてほしいと言われたのに私はどうしても彼を「もうすぐいなくなる人」として見てしまうのだ
「…桜坂くん」
「ん?」
「本当に病院に行かなくていいの? その、もっとすごい病院とか海外の治療法とか何かあるかもしれないじゃんか」
一週間、ずっと胸の奥に燻っていた言葉がついに口から零れ落ちた
奇跡なんて信じるタチではなかったけれど彼の前ではどうしても、奇跡にすがりたくなってしまう
桜坂くんは回していたシャーペンをピタリと止めて窓の外を見つめた
西日に照らされた彼の横顔はやはりどこか透明でこの世界に繋ぎ止める紐が一本ずつ切れていくような、そんな錯覚を抱かせる
「もう全部試したんだよ」
彼の声はひどく穏やかだった
怒りも悲しみも、絶望すらも通り過ぎた後の凪のような声
「有名な大病院にも行ったし、治験の薬も試した でもね僕の心臓はもう新しい血液を全身に送り出すだけの体力が残ってないんだ これ以上体にメスを入れたり強い薬を使ったりするのは寿命を縮めるだけだって だからね森永さん 僕はもう諦めてるんじゃないんだ 受け入れたんだよ」
受け入れた。
その四文字が私の胸に重く突き刺さる
まだたったの十七歳なのに。
これからいくらでも楽しいことが待っているはずなのに。
彼は自分の死を明日の予定と同じように受け入れているというのか
「……ずるいよ」
気づけば私の視界は涙で滲んでいた
図書室のなかだけで泣くなら許す、という彼の言葉をこんなに早く破ることになるとは思わなかった
「桜坂くんはそうやってひとりで納得してるかもしれないけど…残される方の気持ちはどうなるの 私、まだあなたのこと、全然知らないのに」
ぽたぽたと貸出台の木目に涙の雫が落ちていく
自分の感情の昂ぶりに自分が一番驚いていた
ただのクラスメイト、ただの図書委員。
それなのにどうしてこんなに胸が引き裂かれるように痛いのだろう
桜坂くんはしばらく黙っていたが、やがて椅子から立ち上がり、私の前に立った
そしてポケットから白いハンカチを取り出すと不器用な手つきで私の涙を拭った
「ごめんね、泣かせるつもりじゃなかったんだ」
彼の指先がほんの少しだけ私の頬に触れた
驚くほど冷たかった
「じゃあさ、僕のことをもっと知ってよ 僕も森永さんのことが知りたい 残された時間をただ悲しんで待つだけじゃなくて一緒に新しい思い出で埋めていこう」
「思い出…?」
「そう 僕の目から見る世界を森永さんにも見せてあげる きっといつも見ている景色が全然違って見えるはずだから」
そう言って笑う彼の瞳は夕日の光を反射してまるで夜空にまたたく星のように輝いていた
その日から桜坂くんは毎日のように私に小さな「世界の美しさ」を教えてくれるようになった
「森永さん、見て あの雲、ちょうど大きなクジラみたいじゃない?」
「森永さん、この中庭の隅に咲いてる花、なんて名前か知ってる? 誰も気づかないけどすごくいい匂いがするんだよ」
「購買の焼きそばパン、今日は紅生姜がいつもより多くて当たりだ」
彼が指さすものはどれも学校生活の中にあるありふれた、些細なものばかりだった
けれど彼の言葉を通してそれらを見るとまるですべての景色に鮮やかな絵の具を塗り足したかのように、世界が色彩を帯びて動き出すのだ
いつの間にか私は学校に来るのが楽しみになっていた
教室で遠くから彼を見つめるだけで胸の奥がじんわりと温かくなる
けれどそれと同時に胸を締め付けるような切なさも増していった
世界がこんなに美しいと教えてくれた人は来年の春にはもういない
彼の寿命が尽きるとき、私の世界の色彩もまた失われてしまうのだろうか
「ねぇ森永さん 今度の夏休み、どこか遠くへ行ってみない?」
六月の終わり、雨が窓を叩く図書室で桜坂くんが少しはにかみながらそう言った
それは私たちが「日常」という境界線を越えて二人だけの特別な時間を踏み出す合図だった
彼の寿命が尽きるまであと290日。
五月の風は日ごとに爽やかさを増し、クラスの男子たちは額に汗を浮かべながら部活動へと駆けていく
そんな眩しい日常のすぐ隣で私と桜坂くんの時間は静かに、しかし確実にすり減っていた
「ねぇ森永さん 今日の日直の仕事、代わってくれてありがとう」
放課後の図書室
いつものカウンター席に座るなり、桜坂くんが小さく頭を下げた
彼の顔色は先週よりも少しだけ白いように見えた
「ううん、別に大したことしてないし ちょっと体調が悪そうだったから」
「やっぱり顔に出てたかな 最近、朝起きるのが少しきつくてさ」
彼は自嘲気味に笑い、お気に入りのシャーペンを指先でくるくると回した
その指は驚くほど細く、皮膚の下を走る青い血管が彼の命の危うさを無言で主張しているようだった
あの日以来、私は彼の「一挙手一投足」を観察するようになってしまった
授業中に彼が少しでも胸に手を当てれば心臓が跳ね上がり、彼が深くため息をつくだけで最悪の事態が頭をよぎる
普通に過ごしてほしいと言われたのに私はどうしても彼を「もうすぐいなくなる人」として見てしまうのだ
「…桜坂くん」
「ん?」
「本当に病院に行かなくていいの? その、もっとすごい病院とか海外の治療法とか何かあるかもしれないじゃんか」
一週間、ずっと胸の奥に燻っていた言葉がついに口から零れ落ちた
奇跡なんて信じるタチではなかったけれど彼の前ではどうしても、奇跡にすがりたくなってしまう
桜坂くんは回していたシャーペンをピタリと止めて窓の外を見つめた
西日に照らされた彼の横顔はやはりどこか透明でこの世界に繋ぎ止める紐が一本ずつ切れていくような、そんな錯覚を抱かせる
「もう全部試したんだよ」
彼の声はひどく穏やかだった
怒りも悲しみも、絶望すらも通り過ぎた後の凪のような声
「有名な大病院にも行ったし、治験の薬も試した でもね僕の心臓はもう新しい血液を全身に送り出すだけの体力が残ってないんだ これ以上体にメスを入れたり強い薬を使ったりするのは寿命を縮めるだけだって だからね森永さん 僕はもう諦めてるんじゃないんだ 受け入れたんだよ」
受け入れた。
その四文字が私の胸に重く突き刺さる
まだたったの十七歳なのに。
これからいくらでも楽しいことが待っているはずなのに。
彼は自分の死を明日の予定と同じように受け入れているというのか
「……ずるいよ」
気づけば私の視界は涙で滲んでいた
図書室のなかだけで泣くなら許す、という彼の言葉をこんなに早く破ることになるとは思わなかった
「桜坂くんはそうやってひとりで納得してるかもしれないけど…残される方の気持ちはどうなるの 私、まだあなたのこと、全然知らないのに」
ぽたぽたと貸出台の木目に涙の雫が落ちていく
自分の感情の昂ぶりに自分が一番驚いていた
ただのクラスメイト、ただの図書委員。
それなのにどうしてこんなに胸が引き裂かれるように痛いのだろう
桜坂くんはしばらく黙っていたが、やがて椅子から立ち上がり、私の前に立った
そしてポケットから白いハンカチを取り出すと不器用な手つきで私の涙を拭った
「ごめんね、泣かせるつもりじゃなかったんだ」
彼の指先がほんの少しだけ私の頬に触れた
驚くほど冷たかった
「じゃあさ、僕のことをもっと知ってよ 僕も森永さんのことが知りたい 残された時間をただ悲しんで待つだけじゃなくて一緒に新しい思い出で埋めていこう」
「思い出…?」
「そう 僕の目から見る世界を森永さんにも見せてあげる きっといつも見ている景色が全然違って見えるはずだから」
そう言って笑う彼の瞳は夕日の光を反射してまるで夜空にまたたく星のように輝いていた
その日から桜坂くんは毎日のように私に小さな「世界の美しさ」を教えてくれるようになった
「森永さん、見て あの雲、ちょうど大きなクジラみたいじゃない?」
「森永さん、この中庭の隅に咲いてる花、なんて名前か知ってる? 誰も気づかないけどすごくいい匂いがするんだよ」
「購買の焼きそばパン、今日は紅生姜がいつもより多くて当たりだ」
彼が指さすものはどれも学校生活の中にあるありふれた、些細なものばかりだった
けれど彼の言葉を通してそれらを見るとまるですべての景色に鮮やかな絵の具を塗り足したかのように、世界が色彩を帯びて動き出すのだ
いつの間にか私は学校に来るのが楽しみになっていた
教室で遠くから彼を見つめるだけで胸の奥がじんわりと温かくなる
けれどそれと同時に胸を締め付けるような切なさも増していった
世界がこんなに美しいと教えてくれた人は来年の春にはもういない
彼の寿命が尽きるとき、私の世界の色彩もまた失われてしまうのだろうか
「ねぇ森永さん 今度の夏休み、どこか遠くへ行ってみない?」
六月の終わり、雨が窓を叩く図書室で桜坂くんが少しはにかみながらそう言った
それは私たちが「日常」という境界線を越えて二人だけの特別な時間を踏み出す合図だった
彼の寿命が尽きるまであと290日。