桜坂くんの余命が尽きるまで。

第8話 静かな冬の終わり

二月に入ると街はバレンタインのチョコレートの甘い香りと受験シーズンのピリついた空気に包まれ始めた
けれど病院の五階にある桜坂くんの病室だけは時間の流れが完全に止まってしまったかのようにただ静まり返っていた
「……あき、ほ……」
ベッドの上の桜坂くんはもう自力で上半身を起こすこともできなくなっていた
声を出すのさえ、一言一言が命を削るような大仕事だった
隣に置かれた心電図の音と彼の浅い呼吸の音だけが部屋の沈黙を埋めている
「ここにいるよ、桜坂くん 無理して喋らなくていいからね」
私は彼の枕元に座り、そっとその手を握った
あんなに器用にシャーペンを回していた彼の指は今は驚くほど細く、まるで枯れ枝のようになっていた
爪の先は血の気が引いて紫色に変色し始めている
私の手から彼の手にいくら体温を分け与えようとしても彼の身体は冷たい氷のように熱を拒絶した
「…ちょっ、と…眠い、な……」
「うん、寝てていいよ 私がずっと手を握ってるから」
彼は安心したようにゆっくりと重そうに長い睫毛の並ぶ瞼を閉じた
眠っている彼の顔はまるでおとぎ話に出てくる眠り姫のようでこのまま二度と目が覚めないのではないかという恐怖が波のように何度も私の胸に押し寄せてくる
心電図の波形を見るのが怖かった
規則正しく「ピッ、ピッ」と鳴るその音が少しでも乱れるたびに、私の心臓は止まりそうになる
けれど私は彼の前で泣かないと決めていた
あの夜、彼の本当の願いを知って二人の約束を交わしてからは私は彼の「最高の味方」であり続けると心に誓ったのだ
彼が眠っている間、私はカバンから小さなノートを取り出した
それは彼から譲り受けたあの黒い手帳だった
私は彼の真似をして彼が眠っている間に見つけた「今日の小さな世界の美しさ」を書き留めるようになっていた
『二月十日 通学路の途中で小さな梅の花が咲いているのを見つけたよ 桜坂くん、もうすぐ春が来るね』
『二月十五日 今日の図書室の夕日はオレンジ色じゃなくてすごく綺麗なピンク色だった 桜坂くんと一緒に見たらもっと綺麗だったろうな』
いつか彼が目を覚ましたときに読み聞かせてあげるために。
私の目を通して見た世界を彼に届けるために。
二月の終わり、激しい雪が降った日の夜
桜坂くんがふと目を覚まして窓の外をじっと見つめていた
「…ゆき……」
「うん、すごい雪だよ 明日の朝にはきっと世界中が真っ白になってるね」
桜坂くんはかすかに口元を動かして微笑んだ
「…しろい、世界…綺麗、だね… でも、ね…僕は、やっぱり…秋穂の、青いワンピースが……もう一度、見たい、な……」
彼のその言葉に胸の奥がツンと痛んだ
あの夏休み、二人で行った水族館。ソーダ味のアイス。駅前のロータリー。
すべてが遠い昔の出来事のように思えるけれど彼にとっては今でも心の真ん中で輝き続けている大切な記憶なのだ
「春になったらまたあのワンピース着るね だから一緒に桜を見ようね」
「……うん……約束……だ……」
彼は弱々しく私の小指に自分の小指を絡めようとしたけれどもうその力さえ残っていなかった
私が彼の小指に自分の小指をそっと引っ掛け、親指を合わせた
冬が静かに終わりを告げようとしていた
外の雪は少しずつ雨へと変わり、凍りついた世界を溶かしていく
けれどそれと同時に彼の心臓のタイマーの針もいよいよ最後の数秒へと近づいているのを私は肌で感じていた
彼の寿命が尽きるまであと15日。
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