海沿いの食堂に恋が咲く
海沿いの小さな町に、愛斗は息子の真紀と二人で暮らしていた。
町にはショッピングモールもあるにはあるが規模は小さく、スーパーやコンビニもそれぞれ二軒ずつしかない。静かで時間の流れがゆっくりとしたこの場所で、愛斗は三年前に離婚して以来、シングルファーザーとして真紀を育ててきた。
だが料理がまるで得意ではない彼にとって、毎日の食事は悩みの種だった。
そんな愛斗と真紀が頼りにしているのが、町の入り口にある食堂みさきだ。
この店の看板メニューは、脂の乗った魚の煮付けに、優しい味のひじきと筑前煮、そしてじっくり煮込んだハンバーグ。漁師たちが仕事帰りに立ち寄り、町の人々が日常的に通う人気店で、愛斗も真紀もすっかり常連になっている。
店主の美咲は五十代を過ぎているというのに、いつも身だしなみが整い、笑顔が明るく、歳を重ねるごとに深まる美しさを持っていた。料理の腕は抜群で、店に来る誰もが彼女の作る味に心を掴まれ、町のみんなからまるでアイドルのように慕われている。真紀も「美咲さんのご飯が一番美味しい」といつも目を輝かせる。
愛斗自身も、いつしかそんな美咲に恋心を抱くようになっていた。
今日も愛斗は店に向かって歩いていた。
潮風が頬をなで、遠くから波の音が聞こえてくる。店の前まで来ると、ガラス戸には「準備中」の札が掛かっていた。だが、少しだけ戸に隙間が開いているのを見て、愛斗は軽く手を挙げながら中に入った。
「すみません、まだ準備中なんですよ」
奥から出てきた美咲が、愛斗の顔を見ると柔らかく表情を緩める。
「あら、愛斗くんだったの。どうしたの? 今日はいつもより少し早いのね」
愛斗は頷きながら、手の中に持っていた小さなものを差し出した。四つ葉のクローバーが描かれた布に包まれた、小さなお守りだ。
「美咲さん、こんにちは。これ、道に落としてありましたよ」
美咲は目を見開き、慌てて手で受け取る。指でそっと包みを開くと、中身を確認した瞬間、瞳にみるみる涙が浮かんできた。
「ありがとう……本当にありがとうございます。これは、とても大事なものだったんです」
「大事なものだったんですね。届けられてよかった」愛斗は静かに言葉を続けた。
「美咲さんがいつもスマホのストラップに付けているのを見ていました。お守りの裏に『美咲』と書いてあったので、すぐにわかりました」
美咲は指で涙を拭きながら、小さく笑みを浮かべる。
「そうなんです。これは……息子とお揃いのお守りなんです。今はもう、ずっと会っていないんですけど」
愛斗は少し驚き、静かに問いかけた。
「え、留学でもされているんですか?」
美咲はゆっくりと首を横に振り、窓の外の海を眺めるように視線を遠くに向けた。
「違うんです。私、二年前までは普通に結婚して、夫と息子と一緒に暮らしていました。だけど夫からは長い間暴力を受けていて、息子にまで手を上げるようになってしまって……私は自分のことだけで精一杯になって、息子を置いて、この町に逃げてきたんです」
その言葉に、愛斗は胸の奥が締めつけられるような痛みを感じた。彼女のこれまでの苦しみを想像すると、言葉がすぐには出てこなかった。
だがすぐに、柔らかい声で慰めるように言った。
「話してくれて、ありがとうございます。一人で抱えていたら、きっと辛かったでしょう」
美咲は再び涙を浮かべながら、愛斗を見つめる。
「ありがとうございます。こんな話、誰にもしたことがなかったの。聞いてくれて、本当に助かりました」
「どういたしまして。これからは、いつでも話してください」
そんな言葉を交わしているうちに、店内の時計がカチリと音を立てた。愛斗が視線を向けると、短い針は十一時を少し回っていた。
潮風が店の戸の隙間から入り込み、二人の間に柔らかな空気を運んでいく。
これから始まる一日の営業が待っているけれど、この瞬間だけは、二人だけの静かな時間が流れていた。
町にはショッピングモールもあるにはあるが規模は小さく、スーパーやコンビニもそれぞれ二軒ずつしかない。静かで時間の流れがゆっくりとしたこの場所で、愛斗は三年前に離婚して以来、シングルファーザーとして真紀を育ててきた。
だが料理がまるで得意ではない彼にとって、毎日の食事は悩みの種だった。
そんな愛斗と真紀が頼りにしているのが、町の入り口にある食堂みさきだ。
この店の看板メニューは、脂の乗った魚の煮付けに、優しい味のひじきと筑前煮、そしてじっくり煮込んだハンバーグ。漁師たちが仕事帰りに立ち寄り、町の人々が日常的に通う人気店で、愛斗も真紀もすっかり常連になっている。
店主の美咲は五十代を過ぎているというのに、いつも身だしなみが整い、笑顔が明るく、歳を重ねるごとに深まる美しさを持っていた。料理の腕は抜群で、店に来る誰もが彼女の作る味に心を掴まれ、町のみんなからまるでアイドルのように慕われている。真紀も「美咲さんのご飯が一番美味しい」といつも目を輝かせる。
愛斗自身も、いつしかそんな美咲に恋心を抱くようになっていた。
今日も愛斗は店に向かって歩いていた。
潮風が頬をなで、遠くから波の音が聞こえてくる。店の前まで来ると、ガラス戸には「準備中」の札が掛かっていた。だが、少しだけ戸に隙間が開いているのを見て、愛斗は軽く手を挙げながら中に入った。
「すみません、まだ準備中なんですよ」
奥から出てきた美咲が、愛斗の顔を見ると柔らかく表情を緩める。
「あら、愛斗くんだったの。どうしたの? 今日はいつもより少し早いのね」
愛斗は頷きながら、手の中に持っていた小さなものを差し出した。四つ葉のクローバーが描かれた布に包まれた、小さなお守りだ。
「美咲さん、こんにちは。これ、道に落としてありましたよ」
美咲は目を見開き、慌てて手で受け取る。指でそっと包みを開くと、中身を確認した瞬間、瞳にみるみる涙が浮かんできた。
「ありがとう……本当にありがとうございます。これは、とても大事なものだったんです」
「大事なものだったんですね。届けられてよかった」愛斗は静かに言葉を続けた。
「美咲さんがいつもスマホのストラップに付けているのを見ていました。お守りの裏に『美咲』と書いてあったので、すぐにわかりました」
美咲は指で涙を拭きながら、小さく笑みを浮かべる。
「そうなんです。これは……息子とお揃いのお守りなんです。今はもう、ずっと会っていないんですけど」
愛斗は少し驚き、静かに問いかけた。
「え、留学でもされているんですか?」
美咲はゆっくりと首を横に振り、窓の外の海を眺めるように視線を遠くに向けた。
「違うんです。私、二年前までは普通に結婚して、夫と息子と一緒に暮らしていました。だけど夫からは長い間暴力を受けていて、息子にまで手を上げるようになってしまって……私は自分のことだけで精一杯になって、息子を置いて、この町に逃げてきたんです」
その言葉に、愛斗は胸の奥が締めつけられるような痛みを感じた。彼女のこれまでの苦しみを想像すると、言葉がすぐには出てこなかった。
だがすぐに、柔らかい声で慰めるように言った。
「話してくれて、ありがとうございます。一人で抱えていたら、きっと辛かったでしょう」
美咲は再び涙を浮かべながら、愛斗を見つめる。
「ありがとうございます。こんな話、誰にもしたことがなかったの。聞いてくれて、本当に助かりました」
「どういたしまして。これからは、いつでも話してください」
そんな言葉を交わしているうちに、店内の時計がカチリと音を立てた。愛斗が視線を向けると、短い針は十一時を少し回っていた。
潮風が店の戸の隙間から入り込み、二人の間に柔らかな空気を運んでいく。
これから始まる一日の営業が待っているけれど、この瞬間だけは、二人だけの静かな時間が流れていた。
