君島准教授、ちょっといいですか。
第1話 やりたいことがない学生
君島先生がキョトンとした顔で私を見ている。
しまった。
私は何を口走っているのか。
大学のオフィスアワー。
レポートの相談をしたくて勇気を出して刑法研究室の前まで来た。
君島先生は予約不要。
だけど、本当に突然来て大丈夫なんだろうか。
ゼミではいつも飄々としているから、いまいちよくわからない。
ふぅ。
意を決してノックしようとした時。
「僕のところに用?」
突然後ろから、扉の向こうにいるものだと思っていた人に声をかけられ、ビクッとした。
「は、はい」
「どうぞ、入って」
私の緊張とは裏腹に、君島先生はさらりと部屋へ招き入れてくれた。
「どうしたの?」
「あ、えっと、レポートのことで教えていただきたくて」
「うん、どんなこと?」
「あの、刑務作業についてもう少し掘り下げて調べたくて。実際の体験談が読める本ってありますか?」
「あー」
そう言うと君島先生は立ち上がり、壁面いっぱいの本を眺めながら、
「何が知りたい? 作業の内容? 更生との関係?」
「あ、できれば両方」
「OK」
君島先生は本棚を少し見上げ、本を2冊取り出し、
「この辺りは参考になるかな」
と言って手渡してくれた。
「次のゼミまでに返してくれたらいいよ」
「ありがとうございます」
そう言って、すぐに部屋を出ればよかったのに。
私は本に視線を落としたまま一瞬固まってしまった。
「刑務作業って、何も考えずに黙々と労働ができてちょっと羨ましい」
と、ため息とともに唐突にそんなことを呟いてしまったものだから、君島先生は目を丸くしている。
はっと我に返ったが、発してしまった言葉は取り消すことはできず。
「すみません、不謹慎なこと言っちゃった」
「いや。思うのは自由だから」
「……」
君島先生は時計を見、
「このあと授業?」
「いえ」
「じゃあ、時間ある?」
「あります」
「コーヒー、飲む?」
「え?」
「あれ、そういう気分じゃなかったらいいんだけど」
君島先生は首を傾げながら私を見下ろす。
私はなんとなくそのまま勧められた椅子に座ってしまった。
君島先生は何も言わずコーヒーを2杯作っている。
ほっとするいい香りが研究室に広がる。
「ミルクは?あ、牛乳だけど」
「いえ」
「砂糖は?」
「欲しいです」
「いくつ?」
「ひとつ」
「ん」
そう言って、君島先生は角砂糖をひとつ入れ机の上にコーヒーを置いた。
「ありがとうございます」
そして、もうひとつのコーヒーは牛乳も砂糖もたくさん入った、まるで子供が飲むようなコーヒー牛乳ができあがっていた。
先生、甘党なんだ。
いい年齢の大人の男性なのに、ブラックじゃないんだな。
君島先生は自分の椅子に深く腰掛け、甘そうなコーヒー牛乳をひと口飲むと、
「はぁ」
と気の抜けた声を出し、
「どうぞ」
と私にコーヒーを勧めた。
遠慮がちにコーヒーを口に含む。
喉の奥を通っていくのがわかった。
先生は黙ったままただ静かに飲んでいる。
沈黙。
え。
先生何か話があるんじゃないの?
「口に合う?」
「あ、大丈夫です」
そう言うと、君島先生はふっと笑い、
「君正直だね」
「え」
「おいしかったらおいしいって言うでしょ」
「あ」
別にまずかったわけじゃない。
ただ、私はコーヒーより紅茶が好きなだけ。
「そういうわけじゃなくて」
「いいのいいの」
そう言うと君島先生は楽しそうに笑った。
その笑顔が全然意地悪じゃなくて。
君島先生って、こんな感じなんだ。
ちょっと肩の力が抜けた。
カップを両手で包む。
君島先生は私がここにいるのを忘れているかのように、外を眺めながら静かにコーヒー牛乳を飲んでいる。
先生は沈黙のこの空間、気まずくないんだろうか。
どうして何も聞かないのだろう。
時間だけが静かに流れていく。
カップにはもうほとんどコーヒーが残っていない。
「先生」
「ん?」
「先生はどうして大学の先生になろうと思ったんですか?」
「僕?」
「はい」
「うーん……成り行き、かな」
「え?」
「気づいたらなってた」
そう言うと、ふっと目を細めて笑った。
「そんなことあります?」
「そんなもんじゃない?」
そんなもの、なんだろうか。
そんな感じで進路を決めていいのだろうか。
そんなの、怖すぎない?
「先生、私……」
君島先生は首を傾げて次の言葉を待っている。
「……やりたいことなくて」
「そうなんだ」
そうなんだ、って。
そんなあっさり。
「でも、就活はしなきゃって思ってるんです。働かなくちゃいけないのはわかってるから」
「うん」
「でも、ほんと、やりたいことがなくて。適職診断とかしても、いまいちピンと来ないし」
「うん」
「みんなそれなりになんとなく方向定まってたりするし。なのに自分はなんにも見つからなくて」
「うん」
「こんな私が就活していいんでしょうか」
カップに落としていた視線を恐る恐る上げると、君島先生がこちらをまっすぐ見ていてどきっとした。
「ひとつ聞いてもいい?」
「はい」
「やりたくない仕事ってある?」
「やりたくない仕事……」
「そう」
「介護、とか?」
「とか?」
「営業、とか?」
「うん」
「あと、販売系も苦手かも」
「なるほど。苦手なものはよくわかってるんだね」
「よくわかっているというか、そんなに得意なものがないというか」
「これだけは得意なんです、って言える人、そんな多くないと思うよ」
「そうなんですか?」
「なんとなくで仕事決めた大人なんていっぱいいるさ」
「え、でも、それって怖くないですか?」
「ん?」
「なんとなくで決めて失敗したら」
「失敗?」
「はい。嫌じゃないですか、せっかく就職できたと思ったのに合わなかったなんて」
「合わなかっただけだよね?」
「え?」
「そりゃまあ、最初に選んだ会社に長くいられればそれが一番ラッキーだけどさ」
「ラッキー……」
そんな運ゲーみたいに言われても。
「もし合わなくて仕事辞めちゃったら履歴書に傷つきません?」
「まあ、そうかもね」
そうかもね、って……。
「やっぱ、怖いです」
「うん」
君島先生は脚を組み直した。
きっと呆れてるんだ。
あれこれ理由をつけて動けない私のことを。
「真面目なんだね」
「え?」
「そういう人、嫌いじゃないよ」
そう言うと君島先生はにっこりした。
「僕なんて成り行きで働いてるんだから」
「でもちゃんと先生してるじゃないですか」
「そんな大したもんじゃないよ。あ、でも」
ふっと私の目を見つめ、
「学生と話すのは嫌いじゃない」
そう言ってにんまり笑った。
「でもそれも、働いてみて気づいたんだけどね」
「じゃあ、やっぱり働いてみないとわからないってことですか?」
「そうだね。少なくとも僕はそうだった」
私は小さく息を吐いた。
「やっぱり、怖いです」
「うん」
そう言うと君島先生は黙ってしまった。
困らせてしまったかも。
2人の間になんとも言えない間が流れる。
すると、
「怖いままでいいんじゃない?」
「え?」
「怖くなくなる日なんて、多分来ないよ。僕も今でも怖いし」
「先生も?」
「うん」
「だから、とりあえず今できることだけやってる」
そう言うと君島先生は冷めかけたコーヒー牛乳を一口飲んだ。
私は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「なんか先生って、思ってた人と違ったなって」
「よく言われる」
「失礼しました」
君島先生に借りた本を抱えて研究室を後にした。
なにも解決しなかったけど。
でも。
話せてよかったかも。
しまった。
私は何を口走っているのか。
大学のオフィスアワー。
レポートの相談をしたくて勇気を出して刑法研究室の前まで来た。
君島先生は予約不要。
だけど、本当に突然来て大丈夫なんだろうか。
ゼミではいつも飄々としているから、いまいちよくわからない。
ふぅ。
意を決してノックしようとした時。
「僕のところに用?」
突然後ろから、扉の向こうにいるものだと思っていた人に声をかけられ、ビクッとした。
「は、はい」
「どうぞ、入って」
私の緊張とは裏腹に、君島先生はさらりと部屋へ招き入れてくれた。
「どうしたの?」
「あ、えっと、レポートのことで教えていただきたくて」
「うん、どんなこと?」
「あの、刑務作業についてもう少し掘り下げて調べたくて。実際の体験談が読める本ってありますか?」
「あー」
そう言うと君島先生は立ち上がり、壁面いっぱいの本を眺めながら、
「何が知りたい? 作業の内容? 更生との関係?」
「あ、できれば両方」
「OK」
君島先生は本棚を少し見上げ、本を2冊取り出し、
「この辺りは参考になるかな」
と言って手渡してくれた。
「次のゼミまでに返してくれたらいいよ」
「ありがとうございます」
そう言って、すぐに部屋を出ればよかったのに。
私は本に視線を落としたまま一瞬固まってしまった。
「刑務作業って、何も考えずに黙々と労働ができてちょっと羨ましい」
と、ため息とともに唐突にそんなことを呟いてしまったものだから、君島先生は目を丸くしている。
はっと我に返ったが、発してしまった言葉は取り消すことはできず。
「すみません、不謹慎なこと言っちゃった」
「いや。思うのは自由だから」
「……」
君島先生は時計を見、
「このあと授業?」
「いえ」
「じゃあ、時間ある?」
「あります」
「コーヒー、飲む?」
「え?」
「あれ、そういう気分じゃなかったらいいんだけど」
君島先生は首を傾げながら私を見下ろす。
私はなんとなくそのまま勧められた椅子に座ってしまった。
君島先生は何も言わずコーヒーを2杯作っている。
ほっとするいい香りが研究室に広がる。
「ミルクは?あ、牛乳だけど」
「いえ」
「砂糖は?」
「欲しいです」
「いくつ?」
「ひとつ」
「ん」
そう言って、君島先生は角砂糖をひとつ入れ机の上にコーヒーを置いた。
「ありがとうございます」
そして、もうひとつのコーヒーは牛乳も砂糖もたくさん入った、まるで子供が飲むようなコーヒー牛乳ができあがっていた。
先生、甘党なんだ。
いい年齢の大人の男性なのに、ブラックじゃないんだな。
君島先生は自分の椅子に深く腰掛け、甘そうなコーヒー牛乳をひと口飲むと、
「はぁ」
と気の抜けた声を出し、
「どうぞ」
と私にコーヒーを勧めた。
遠慮がちにコーヒーを口に含む。
喉の奥を通っていくのがわかった。
先生は黙ったままただ静かに飲んでいる。
沈黙。
え。
先生何か話があるんじゃないの?
「口に合う?」
「あ、大丈夫です」
そう言うと、君島先生はふっと笑い、
「君正直だね」
「え」
「おいしかったらおいしいって言うでしょ」
「あ」
別にまずかったわけじゃない。
ただ、私はコーヒーより紅茶が好きなだけ。
「そういうわけじゃなくて」
「いいのいいの」
そう言うと君島先生は楽しそうに笑った。
その笑顔が全然意地悪じゃなくて。
君島先生って、こんな感じなんだ。
ちょっと肩の力が抜けた。
カップを両手で包む。
君島先生は私がここにいるのを忘れているかのように、外を眺めながら静かにコーヒー牛乳を飲んでいる。
先生は沈黙のこの空間、気まずくないんだろうか。
どうして何も聞かないのだろう。
時間だけが静かに流れていく。
カップにはもうほとんどコーヒーが残っていない。
「先生」
「ん?」
「先生はどうして大学の先生になろうと思ったんですか?」
「僕?」
「はい」
「うーん……成り行き、かな」
「え?」
「気づいたらなってた」
そう言うと、ふっと目を細めて笑った。
「そんなことあります?」
「そんなもんじゃない?」
そんなもの、なんだろうか。
そんな感じで進路を決めていいのだろうか。
そんなの、怖すぎない?
「先生、私……」
君島先生は首を傾げて次の言葉を待っている。
「……やりたいことなくて」
「そうなんだ」
そうなんだ、って。
そんなあっさり。
「でも、就活はしなきゃって思ってるんです。働かなくちゃいけないのはわかってるから」
「うん」
「でも、ほんと、やりたいことがなくて。適職診断とかしても、いまいちピンと来ないし」
「うん」
「みんなそれなりになんとなく方向定まってたりするし。なのに自分はなんにも見つからなくて」
「うん」
「こんな私が就活していいんでしょうか」
カップに落としていた視線を恐る恐る上げると、君島先生がこちらをまっすぐ見ていてどきっとした。
「ひとつ聞いてもいい?」
「はい」
「やりたくない仕事ってある?」
「やりたくない仕事……」
「そう」
「介護、とか?」
「とか?」
「営業、とか?」
「うん」
「あと、販売系も苦手かも」
「なるほど。苦手なものはよくわかってるんだね」
「よくわかっているというか、そんなに得意なものがないというか」
「これだけは得意なんです、って言える人、そんな多くないと思うよ」
「そうなんですか?」
「なんとなくで仕事決めた大人なんていっぱいいるさ」
「え、でも、それって怖くないですか?」
「ん?」
「なんとなくで決めて失敗したら」
「失敗?」
「はい。嫌じゃないですか、せっかく就職できたと思ったのに合わなかったなんて」
「合わなかっただけだよね?」
「え?」
「そりゃまあ、最初に選んだ会社に長くいられればそれが一番ラッキーだけどさ」
「ラッキー……」
そんな運ゲーみたいに言われても。
「もし合わなくて仕事辞めちゃったら履歴書に傷つきません?」
「まあ、そうかもね」
そうかもね、って……。
「やっぱ、怖いです」
「うん」
君島先生は脚を組み直した。
きっと呆れてるんだ。
あれこれ理由をつけて動けない私のことを。
「真面目なんだね」
「え?」
「そういう人、嫌いじゃないよ」
そう言うと君島先生はにっこりした。
「僕なんて成り行きで働いてるんだから」
「でもちゃんと先生してるじゃないですか」
「そんな大したもんじゃないよ。あ、でも」
ふっと私の目を見つめ、
「学生と話すのは嫌いじゃない」
そう言ってにんまり笑った。
「でもそれも、働いてみて気づいたんだけどね」
「じゃあ、やっぱり働いてみないとわからないってことですか?」
「そうだね。少なくとも僕はそうだった」
私は小さく息を吐いた。
「やっぱり、怖いです」
「うん」
そう言うと君島先生は黙ってしまった。
困らせてしまったかも。
2人の間になんとも言えない間が流れる。
すると、
「怖いままでいいんじゃない?」
「え?」
「怖くなくなる日なんて、多分来ないよ。僕も今でも怖いし」
「先生も?」
「うん」
「だから、とりあえず今できることだけやってる」
そう言うと君島先生は冷めかけたコーヒー牛乳を一口飲んだ。
私は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「なんか先生って、思ってた人と違ったなって」
「よく言われる」
「失礼しました」
君島先生に借りた本を抱えて研究室を後にした。
なにも解決しなかったけど。
でも。
話せてよかったかも。
