余白
「先生、また郵便受けいっぱいになってましたよ」
かさりと音を立てて、紙の束をテーブルに置く。
仕事用デスクに向かっていた先生は、椅子ごと振り向いて、困ったように眉を下げた。
「ああ、すまない。ここ最近ずっと籠りきりだったから」
「それなら、しばらくは来ない方がよかったですか?」
仕事の邪魔をしてしまったかと、不安がよぎる。それが顔に出てしまったらしく、先生は慌てたように答えた。
「いや、そんなことはないよ。だが、私のような胡散臭い作家の家に通うなど、親御さんがいい顔をしないんじゃないかい?」
「私だって今年で二十歳ですよ。自分のことくらい自分で決めます」
友人の伝手を頼って押し掛けている作家志望の私を、こんな風に受け入れて、挙句家族関係の心配までする。先生のその優しさに、甘えている自覚はあった。
それでも私は、先生の元で学びたい。この人の見ている、そして描く美しい世界に、少しでも近づきたい。
その思いに邪念が混ざり始めたのは、いつからだろう。
先生に持参した原稿を渡して、読んでもらっている間、溜まった家事を片付ける。
添削をしてもらうお礼の意味もあるけれど、何よりこの時間をじっとして過ごすことは、緊張でとてもできない。
最初は、自分の作品がどう評価されるか、気になって仕方がなかったから。
今はそれに加えて、先生の真剣な横顔に、胸が高鳴って止まらなくなるから。
必死に気を紛らわせようとするけれど、これは先生の使った食器だとか、先生の部屋着だとか一々考えてしまう。まるで妻のようだ、と脳裏に浮かんだ考えに、慌てて頭を振った。
これ以上は、いけない。
努めて無心を意識して働き、おかげで綺麗になった室内にぽつんと佇む。
先生はまだ読み終わっていないようだ。
仕方なく、先生の向かいに座って待つことにした。
「うん、なかなか良くできているね」
ようやく顔を上げた先生の言葉に、まずはホッと胸を撫で下ろす。ダメだった時の先生の言葉は、「なるほど、今回はこういう感じなんだね」だ。
それでも、山程指摘が来るのだろうなと覚悟して姿勢を正す。
先生は、その細い指によく馴染む華奢な万年筆をとって、一つ一つ丁寧に解説してくれた。
その低く柔らかい声音。気遣うように時折こちらを伺う眼差し。
全てが私の体温を少しずつ上げていって。
せっかく先生が時間を割いて助言してくれているのだから、集中しなければと思うほどに、鼓動は早まる。
先生は私の浮足立った様子を見て、責めるでもなく話題を変えた。
「君は、文章とはなんだと思う?」
先生は私が集中を切らすと、一方的な指摘ではなく、対話による導きをしてくれる。
そうすれば、否応なく意識が現実に向くから。
「文章、ですか……。そう、ですね、伝えたいこと、人の思い。とかでしょうか」
「うん。なかなかいい考えだね。僕はね、文章は人の心の形だと思うんだ」
耳に心地良いリズムで、先生は語る。
「書かれている文には、伝えたい思いが込められているけれど、書かれていない余白には、伝えたくないこと、秘めた思いが滲む。人の心そのものが、そこには出るんだよ」
「余白……」
「そう、だから作家は、自分に素直じゃなくてはいけない。文章を通じて赤裸々に全てを暴かれる覚悟がなくては、小説なんて人目に晒せないからね」
全てを見抜かれているのかと、一瞬背筋が凍った。
先生はそんな素振りを見せたことはなかったし、私を「夢を追う後輩」として、異性を滲ませない振る舞いをしてくれているから、自意識過剰なのはわかっている。
それでも、自分に素直でなくてはいけない、その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
最初私は、恋愛小説を書いては先生に添削してもらっていた。でも、最近は、めっきり恋愛小説を書いていない。
それは、私の恋愛観を先生に知られることが恥ずかしいから。
この想いを隠していたいから。
しかしそれは、物書きとしての自分に、あまりに不実ではないのか。
私が先生の元に通うようになったのは、先生の描く、あまりに儚く暖かい愛の形に魅せられたからだ。
こんな恋愛を、私も書いてみたい。そう思ったのがきっかけだった。
もしも彼に、私の赤裸々な恋物語を読まれたら。それはなんと羞しく、心地良いことだろうか。
それを思い浮かべるだけで、私の心は甘く軋んだ。
もう一度、恋愛小説を書いてみよう。
先生に一番伝えたい恋物語を、余白も含めた心の形を、全て筆に込めよう。
そう思って私は、先生と過ごす時間に感じる、暖かく切ない想いを書き出した。
かさりと音を立てて、紙の束をテーブルに置く。
仕事用デスクに向かっていた先生は、椅子ごと振り向いて、困ったように眉を下げた。
「ああ、すまない。ここ最近ずっと籠りきりだったから」
「それなら、しばらくは来ない方がよかったですか?」
仕事の邪魔をしてしまったかと、不安がよぎる。それが顔に出てしまったらしく、先生は慌てたように答えた。
「いや、そんなことはないよ。だが、私のような胡散臭い作家の家に通うなど、親御さんがいい顔をしないんじゃないかい?」
「私だって今年で二十歳ですよ。自分のことくらい自分で決めます」
友人の伝手を頼って押し掛けている作家志望の私を、こんな風に受け入れて、挙句家族関係の心配までする。先生のその優しさに、甘えている自覚はあった。
それでも私は、先生の元で学びたい。この人の見ている、そして描く美しい世界に、少しでも近づきたい。
その思いに邪念が混ざり始めたのは、いつからだろう。
先生に持参した原稿を渡して、読んでもらっている間、溜まった家事を片付ける。
添削をしてもらうお礼の意味もあるけれど、何よりこの時間をじっとして過ごすことは、緊張でとてもできない。
最初は、自分の作品がどう評価されるか、気になって仕方がなかったから。
今はそれに加えて、先生の真剣な横顔に、胸が高鳴って止まらなくなるから。
必死に気を紛らわせようとするけれど、これは先生の使った食器だとか、先生の部屋着だとか一々考えてしまう。まるで妻のようだ、と脳裏に浮かんだ考えに、慌てて頭を振った。
これ以上は、いけない。
努めて無心を意識して働き、おかげで綺麗になった室内にぽつんと佇む。
先生はまだ読み終わっていないようだ。
仕方なく、先生の向かいに座って待つことにした。
「うん、なかなか良くできているね」
ようやく顔を上げた先生の言葉に、まずはホッと胸を撫で下ろす。ダメだった時の先生の言葉は、「なるほど、今回はこういう感じなんだね」だ。
それでも、山程指摘が来るのだろうなと覚悟して姿勢を正す。
先生は、その細い指によく馴染む華奢な万年筆をとって、一つ一つ丁寧に解説してくれた。
その低く柔らかい声音。気遣うように時折こちらを伺う眼差し。
全てが私の体温を少しずつ上げていって。
せっかく先生が時間を割いて助言してくれているのだから、集中しなければと思うほどに、鼓動は早まる。
先生は私の浮足立った様子を見て、責めるでもなく話題を変えた。
「君は、文章とはなんだと思う?」
先生は私が集中を切らすと、一方的な指摘ではなく、対話による導きをしてくれる。
そうすれば、否応なく意識が現実に向くから。
「文章、ですか……。そう、ですね、伝えたいこと、人の思い。とかでしょうか」
「うん。なかなかいい考えだね。僕はね、文章は人の心の形だと思うんだ」
耳に心地良いリズムで、先生は語る。
「書かれている文には、伝えたい思いが込められているけれど、書かれていない余白には、伝えたくないこと、秘めた思いが滲む。人の心そのものが、そこには出るんだよ」
「余白……」
「そう、だから作家は、自分に素直じゃなくてはいけない。文章を通じて赤裸々に全てを暴かれる覚悟がなくては、小説なんて人目に晒せないからね」
全てを見抜かれているのかと、一瞬背筋が凍った。
先生はそんな素振りを見せたことはなかったし、私を「夢を追う後輩」として、異性を滲ませない振る舞いをしてくれているから、自意識過剰なのはわかっている。
それでも、自分に素直でなくてはいけない、その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
最初私は、恋愛小説を書いては先生に添削してもらっていた。でも、最近は、めっきり恋愛小説を書いていない。
それは、私の恋愛観を先生に知られることが恥ずかしいから。
この想いを隠していたいから。
しかしそれは、物書きとしての自分に、あまりに不実ではないのか。
私が先生の元に通うようになったのは、先生の描く、あまりに儚く暖かい愛の形に魅せられたからだ。
こんな恋愛を、私も書いてみたい。そう思ったのがきっかけだった。
もしも彼に、私の赤裸々な恋物語を読まれたら。それはなんと羞しく、心地良いことだろうか。
それを思い浮かべるだけで、私の心は甘く軋んだ。
もう一度、恋愛小説を書いてみよう。
先生に一番伝えたい恋物語を、余白も含めた心の形を、全て筆に込めよう。
そう思って私は、先生と過ごす時間に感じる、暖かく切ない想いを書き出した。
