悪女の代行を演じたら氷の御曹司に永久就職⁉〜お見合い破談に大失敗!私は彼に丸め込まれ溺愛されてます~
「懐かしい味がするな」

器の半分ほどを食べたところで彼がぽつりと呟いた。
その声はいつもの仕事中の彼の物ではなくどこか幼く見える。

「え?」

「俺の両親は物心つく前に亡くなってるんだ。だから、母親の味なんて物は記憶のどこを探しても残っていない」

彼はスプーンを持ったまま窓の外の夜景を遠い目で見つめた。

「けど1度だけ熱を出して寝込んだ時に祖父がすり下ろした野菜のスープを作ってくれたことがあった」

彼は微かに唇の端を上げ笑みではなく笑った。

「逢坂の人間は誰も信じるな、常に完璧であれと育てた祖父がその時だけは不器用な手つきでスープを飲ませてくれたんだ」

彼の長い睫毛が震え瞳の奥にあるのは権力者の顔ではなく誰の温もりも信じることが出来ず1人で立ち続けてきた深くて寂しい人。

「子供ながらに思ったよ。この温かさは逢坂の完璧な後継者であるために必要な投資。温かさの裏には必ず相応の現実が待っている。誰かの善意や温もりをそのまま受け入れてはいけないんだと…そうやって生きてきた」

ああ、そうだったんだ。
自分を武装しなければ一瞬で殺されてしまうような世界で傷つくのが怖くて誰も信じられなくてたった一人で戦ってきた。

「近いうちに祖父は俺を次期逢坂のトップに推薦する。推薦では無くてほとんど指名だな、そうなれば親族間の争いはもちろん日和にも被害が及ぶ可能性がある」

傷だらけでなんて寂しいそして優しい人。
だから私を自分の手元に縛り付け彼は守る方法を選んだんだ。

「無理な契約をさせてすまなかった。色々手は考えたけど俺から離れるのが1番、日和を守れるかも知れない」

迷惑極まりないと思っていた共同生活。
私を振り回して。
そして、今度は逃がす…?
そんなの…

「今さらですよ」

何を勝手なことを言ってくれてるの?
お金持ちは自分勝手すぎる。
私の目から涙がこぼれ落ちそうになってる。

「そうだよな、悪かった。それ相応の」

「要りません。それより何で離れる前提のお話になってるんですか」

今、私の心を満たしているのは孤独な彼を自分の手で温めてあげたいという理屈を超えた愛おしさ。

この人の側にいたい。
この人の氷の心を私が全部溶かしてあげたい。
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