溺れるほど、きみが好き~国民的アイドルと初恋の幼馴染に奪い合われて、困ってます~

第66話 旅立つ……そのとき

 守兄と別れ、ひとりになる。
 ふと浮かんでくるのは、やっぱり彼の姿だった。

 ――あきら。

 どんなに振り払おうとしても、頭の中は彼でいっぱい。
 考えないようにすればするほど、心の深いところまで支配されていくようだった。

 まだ、こんなにも好きなんだ。

 忘れるって決めたばかりなのに。
 情けなくて、ため息がこぼれる。

 本当にこの想いを手放せる日が来るのかな。

 でも、もう決めた。
 守兄と生きるって。
 あの人を信じるって。

 そう、心の中で何度も言い聞かせた。



 それからの日々は、アメリカへ行くための準備で慌ただしく過ぎていった。

 手続きも段取りも、わからないことばかりで、
 ほとんど守兄が進めてくれたようなものだ。

 ある日、彼が爽やかな笑顔で言った。

「そうだ、君の親戚のおばさんには了承取ってきたから」

 あまりにもあっさりと言われ、思わずぽかんとしてしまう。

 親戚のおばさんとはほとんど会っていなかったし、正直、会うのも気まずいと思っていたのに――守兄はそんな私の気持ちまでお見通しだったらしい。

 っていうか、どうやっておばさんのこと知ったんだろう?

 必要な書類もすべて彼が揃えてくれて、私はほとんど何もしていない。
 ちょっと過保護かも……と思って遠慮がちにそう言ったときも、

「俺がやりたいからだよ」

 と、照れくさそうに笑った。

 胸がくすぐったくなる。
 そんなに優しくされることになれていないから。

 本当に愛されているんだなあと、改めて感じる。

 すべての準備が整い、あとは出発の日を待つだけになった。



 ――なのに、胸の奥深く。ざわつくこの感情はなんだろう。
 不安、後悔。それとも、まだ迷っているだけ?

 本当にこれでよかったのかな。

 ふと脳裏に浮かぶのは、やっぱりあきらの顔。

 私、ただ彼から逃げるために、守兄にしがみついているだけなんじゃない?
 そんな嫌な考えが、頭をよぎる。

 守兄は「それでもいい」って言ってくれる。
 それがどれほど救いになっているか。でも、それと同時に胸が痛む。

 私は間違っているの?

 深く息を吐き出した、そのとき。

「姉ちゃん、大丈夫? 疲れてる?」

 太陽が心配そうに顔を覗き込んできた。

 その表情も、どこか不安そうだ。
 私のことを案じているのか、それとも、知らない国へ行くことに思いを馳せているのか。

「ごめんね、太陽。お姉ちゃんのせいで、こんなことになっちゃって」

 お腹がずんと重くなった。
 弟にまで、心配や負担をかけている。

「なに言ってるんだよ。言ったでしょ? 僕は姉ちゃんと一緒にいたいんだって」

 太陽が気丈に笑う。
 その笑顔に、何度救われただろう。

「……ありがとう」

 微笑むと、太陽も嬉しそうに笑い返す。
 けれどすぐに、その瞳に影が落ちた。

「でも、本当にいいの? これで」

 まっすぐな眼差しが私をじっと見つめる。

 ――あきらのことだ。

 太陽は気づいている。私の気持ちに。
 また心配をかけている……そう思うと胸が疼いた。

 私はゆっくりと目を閉じ、深呼吸をひとつ。
 そして、もう一度弟を見据える。

「もう、決めたから」

 その言葉は、自分の心にもずしりと響いた。

 そうだ、もう迷わない。
 あきらのためにも、守兄のためにも。


 ***


 そして――とうとう、その日がやってきた。

 空港のロビーに立ち、キャリーバッグの取っ手をぎゅっと握りしめたまま、立ち尽くす。

 空港に来るのは、生まれて初めてだ。
 せわしなく行き交う人々、響き渡るアナウンス、キャリーケースが床を滑る音。
 どこを見ても、人の流れが途切れない。

 す、すごい……。
 息を呑んだ私の耳元で、守兄が穏やかな声を落とした。

「ちょっと待ってて。手続きしてくるから」

 いつもの柔らかな笑顔を残して、彼は迷いのない足取りでカウンターへ向かっていく。

 その背中を、じっと見つめた。
 ――この人と一緒に、これから生きていくんだ。
 私が選んだ道。

 これでいいんだよね。あきらのことは忘れなきゃ。

 心の中で、呪文のように繰り返す。
 何度も、何度も。これからも、きっとずっと。

「……姉ちゃん」

 不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。
 振り向くと、太陽が眉を寄せて私をじっと見ていた。

 少し拗ねたような表情。
 しまった、また気持ちを読まれたかも。

 私は慌てて笑顔を作った。

「さ、守兄を待とう」

 できるだけ明るい声で言い、歩き出す。
 受付近くの椅子に腰を下ろすと、太陽も少し間を置いてから静かに隣に座った。



 守兄を待つ間、私は行き交う人々をぼんやりと眺めた。

 けれど、頭の中では彼の姿が浮かんでは消え、
 そのたびに小さく首を振って振り払う。その繰り返しだった。

 やがて、守兄がこちらへ戻ってきた。
 私の前に立ち、いつもの優しい笑顔を向ける。

「お待たせ。もうすぐ搭乗時間だから、そろそろ行こうか」

 差し出された手。
 ちょうどそのとき、搭乗アナウンスが流れる。

「ふふっ、ほんとだ」

 ふたりで目を合わせて微笑み合い、私はその手を取って立ち上がる。

 その瞬間。
 耳の奥で、なにかがかすかに響いた。
 とても小さく、不確かな声。

 はっとして振り返る。

 けれど、人の波ばかりで、見覚えのある姿はどこにもない。

 ……まさか、そんなわけない。
 ついに幻聴まで聞こえるようになったかと、自嘲気味に笑った――そのとき。

「星ーーー!」

 ロビーに響き渡る、大きな声。

 え……?

 息が止まり、心臓が跳ねる。

 ありえない。そんなはず、ない。

 ゆっくりと振り返る。
 人混みの向こうから、こちらへ駆けてくる姿が目に飛び込んできた。
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