未完成のティラミス
打ち合わせが終わると、ディナー営業に向けてスタッフたちは手際よく準備を進めていた。野菜を切る音や、洋風だしの香りが漂って、午後の休憩で静まり返った店内に少しずつ厨房内にも活気が戻ってくる。

智香は、自分もテレビ局に戻って軽く仕事をしたら、今日は早めに帰ろうと思った。コン・ブリオほどのものでなくても、ちょっとだけ自分でもおいしいものを作って、そして食べたい気持ちになったのだ。

鶏肉でも買って焼こうかな、イタリア風にトマトとルッコラを添えたらどうだろう。なんて思いながら、お邪魔しましたーと声をかけて店を出ようとしたときだった。

「智香さん、これ!」

圭太の声に引き留められて、智香は足を止める。
やや急ぎ足で近づいてきた圭太は、半透明のお弁当箱より少し大きいサイズのタッパーを智香に差し出した。
先ほどと逆のパターンに、智香は何事かと目を丸くする。

「あの、これを持って行ってください。今日智香さんが来ると思って、朝、厨房をお借りして作ったティラミスなんです。あ、シェフ監修なので味はいいと思います!前に智香さんお腹いっぱい食べたいって言っていたので、たくさん作ってみたんですけど…口に合わなかったら残していいです!でも、智香さんに食べて欲しくて」

恥ずかしさをごまかすためなのか、圭太が「じゃーん!」と言い、にこやかな笑顔をみせて蓋を開ける。
そこには、クリーム色の塊がややいびつな形をしながらも四角い容器いっぱいに敷き詰められ、ココアパウダーを振りかけられていた。容器を横から見ると、ちゃんと何層かに分かれていて、丁寧に作られたのだとわかった。

朝早くから慣れない厨房に入り、シェフに教えてもらいながら、目の前の男の子が一生懸命作ったのだろうと、すぐに想像できた。
智香は差し出されたその容器にゆっくりと手を差し出して受け取る。それは見た目以上に甘い香りを漂わせて、ずしりと手に重さを伝える。同時に、目に見えない何かを感じる。

「こんなんでも大きいスプーンですくってお皿に盛って、いちごとか添えてちょっと工夫するだけでも洒落た感じになるって石崎シェフが教えてくれて。」

圭太が嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに料理の説明をする。素敵な盛り付けを想像しながら、今、自分の手の中にあるものが未完成のティラミスだと知る。
イタリア語で、私を元気づけて、という意味を持つティラミス。

そのとき、智香の中に何かが溢れ出したことに気づいた。甘いとも苦いともいえない。もしかしたらしょっぱいかもしれないし、激辛かもしれない。食べてみなければわからないけど、きっとどんな味でも最高の味で、もっと前向きにしてくれるだろう。それは確かに私を押し上げる、私だけのティラミス。

「ねえ、私この後会社に戻んだけど、職場の冷蔵庫にスペースがあるかわからないの。だから、あとでそのティラミスを持ってうちに来てよ。それで、ちゃんと完成させること!いちごは私が買っておくから。」

智香は、言いながら無性に照れくさい気持ちになった。男友達が自宅にやってくることなんて大したことでないのに、自分から招待することだってどうってことないのに、意味のある誘いをしてしまったのだと自覚してしまう。

圭太は一瞬驚いたような顔をみせたものの、しだいにその表情を緩める。にやけているのがわからないように、やわらかな笑みを浮かべて、清々しい声で、ハイ、とだけ返事をするとまるで抱きしめるようにティラミスの容器を持って、またホール裏へ走って行った。

年下の男の子。ただの知り合い。それぞれの仕事のときに顔を合わせる程度の、なんてことはない関係。それでも顔を合わせれば、お互い前向きになれる。

自分たちはいわば未完成のティラミスのような、出来上がっていない二人。
それでも、今夜少しだけ完成に近づくかもしれない。丁寧に盛り付けられたティラミスを前に、二人だけの会話をしたら、一緒に笑い合ったら。

そんなことを思ったら、この胸は騒がしくなる。生放送前と違うドキドキ。もしかしたらそれよりももっと激しく心臓は脈を打っているかもしれない。

何かが変わる予感を胸に、智香はなるべく甘酸っぱいイチゴを買っておこうと思った。
ただ甘いだけのイチゴよりも、たぶんあのティラミスに合うだろう。そんな想像をしながら、軽い足取りで店を出た。

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