追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

第十話 ピンクのリボンは、王太子のご寵愛

「ミィ」

 殿下がミレイユを呼ぶ声は、執務室に入ってくるたび、少しずつ柔らかくなっていった。
 お猫様生活が始まって、数日が経つ。

 今やミレイユは、すっかり執務室の主だった。
 日中は書棚の前か窓辺で日向ぼっこをし、殿下が戻れば気づいて出迎えに行き、夜は暖炉のそばで丸くなって眠る。
 どこに何があるかも、どの時間に日が差すかも、だいぶ把握した。
 猫というのは環境に慣れるのが早いらしい。少なくとも、この体はそうだった。

 侍従の青年は毎朝食事を運んできて、「お猫様、今朝もご機嫌麗しゅうございます」と恭しくお辞儀をする。
 最初は戸惑っていた彼も、今では完全に『お猫様担当』として板についていた。
 扉を開ける手つきまで、ほんのり丁寧になっている気がする。

(『お猫様』……まだ慣れない)

 ミルクを舐めながら、ミレイユは思う。
『様』をつけて呼ばれること自体への違和感は、令嬢だった頃もそれほどなかった。
 ただ、『猫』に『様』がついている状況をどう受け止めればいいのか、いまだによくわからない。

 まあ、悪い扱いではないのだから文句は言えない。
 問題があるとすれば——

「今日も可愛いな、ミィ」

 殿下が執務室に入ってきながら、当然みたいに言った。
 ミレイユはソファから飛び降り、殿下の足元へ近づく。
 この数日ですっかり習慣になってしまった動きだった。
 出迎えると、殿下が少しだけやわらかい顔をする。それをもう知っている。

「ミャー(問題があるとすれば……この人が、思っていた以上に、猫が好きすぎる、ということだ)」
「ミィ、こちらへ」

 その日の午後、殿下は執務の合間に小さな包みを取り出した。
 呼ばれてそばへ寄ると、殿下が包みを開ける。
 中に入っていたのは、薄いピンク色のリボンだった。
 幅は二センチほど。絹のような光沢があり、やわらかそうで、見るからに上等な品だ。

「ミャ?(……これは?)」
「つけてもいいか」

 殿下が訊く。
 訊く、というより、確認するような言い方だった。
 強制ではない。嫌ならやめるつもりで、本当にこちらの反応を待っている。

 ミレイユは首を傾げた。
 猫の首を傾ける動作は人間よりずっと大げさに見えるらしく、殿下がわずかに目を細める。

「嫌なら嫌と言っていい。ただ、せっかく毛並みが綺麗なのだから、何か飾ってやりたかった」
(……この人は、本当に猫が好きなんだな)

 ミレイユはじっと考えた。
 リボンをつけることに実害はない。
 むしろ喜ばせておいた方が居心地はいい。
 それに——

(正直に言えば、嫌な感じが全然しない)

 差し出されたリボンは、それほど派手ではなく、むしろ上品な色合いだった。
 女の子の猫につけるにしては少しおとなしい色で、それがまた、選び方に品があると思えた。
 可愛らしさを押しつけるのではなく、ちゃんと似合うものを選んだ感じがする。

 ミレイユはそっと首を伸ばした。
 許可と受け取ったのか、殿下が静かに首の後ろでリボンを結ぶ。
 大きな手なのに、その動作は驚くほど丁寧だった。
 毛を巻き込まないように指先で整え、きつくも緩くもない、ちょうどいい加減に結んでいく。

「……よく似合う」

 殿下がミレイユを見て、ぽつりと言った。
 その声は、いつもより少しだけ低かった。
 何か、感情の温度がわずかに上がったような響きだった。

「ミャァ(似合う、か……)」

 ミレイユは前足を上げて、首のリボンに触れてみた。
 指がないので確認のしようはないけれど、感触はある。
 やわらかくて、なめらかで、首元にふわりと乗っている感じだ。

「触るな、ほどける」

 殿下が素早く手を伸ばし、ミレイユの前足をそっと下ろした。
 乱暴ではないが、止めるのは早い。
 ミレイユは目をぱちくりさせた。尻尾の先が一度だけ揺れる。

「ミャー(ほどけたら結び直せばいいのでは……)」
「せっかく結んだんだ」

 それはそうかもしれない。
 そう思ってしまうあたり、自分も少し馴染んでいる。
 殿下はそのままミレイユを抱き上げた。

「鏡で見てみるか」
(みるか、ではなく、殿下が見たいだけでは……?)

 ミレイユを抱いたまま、殿下は部屋の隅の姿見の前に立つ。
 そこに映っているのは、真剣な顔の殿下と、薄いピンクのリボンをつけた白猫だ。

 ミレイユは自分の姿を見た。
 白い毛に、薄いピンクのリボン。
 碧い目。
 たしかに、全体の色合いとしてはかなりまとまっている。

「ミャァ(……まあ、可愛いかな)」

 猫として、という意味で。
 客観的に見れば、これは可愛い見た目だと思う。
 少なくとも、殿下が満足そうなのは理解できた。

「うん、よく似合っている」

 殿下が、心底満足したように目を細める。
 その顔を見ていると、否定する気も失せた。
 ミレイユは殿下の腕の中で、ゆっくりまばたきをする。

「ニャア(ありがとうございます、とは言えないけれど)」
「礼を言っているのか?」
(そういうことにしておきます)

 その夜、侍従が夕食を持ってきたとき、ピンクのリボンを見て目を丸くした。

「お猫様……!なんとお可愛らしい……!」

 普段は感情を顔に出さないのに、今は完全に崩れている。
 視線がリボンとミレイユとを行ったり来たりして、落ち着かない。

「殿下がおつけになったのですか!」
「そうだ」
「……では、お猫様は殿下のご寵愛を……!」
「大げさなことを言うな」

 殿下は落ち着いた声でそう言ったが、否定しきるほど強くもなかった。
 侍従はますます何かを確信したような顔になり、トレイを置くと、ミレイユの前で深々と頭を下げる。

「お猫様、これからもよろしくお願いいたします」
「ニャア(どうぞよろしく)」

 ミレイユはゆっくりとまばたきをした。
 侍従がまた、なぜか感極まったみたいに声を震わせる。
 たかが猫のまばたきで、そんなに何か伝わるものなのだろうか。

 けれど、悪い気はしなかった。
 首元のリボンが、動くたびにかすかに揺れる。
 その感触を感じながら、ミレイユは少しだけ胸を張る。

 お猫様生活は、思っていたよりずっと手厚かった。
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