追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

第十五話 夜が怖いので、寝所まで連れていかれました

 お猫様生活が始まって、更に日が経った。
 昼間の居場所は、すっかり執務室に定着していた。
 侍女たちとの『お猫様接見時間』も毎日夕方に設けられ、侍女長が名付けて管理している。
 最初は渋い顔をしていた侍女長も、今では接見時間になると侍女たちをきっちり整列させ、花の持ち込み可否や滞在時間まで誰より丁寧に仕切っていた。
 有能な人というのは、猫の面会にまで隙がないらしい。

 王妃陛下も、週に二度ほど執務室へ顔を出すようになった。

「ミィに会いに来たの」

 そう言って、殿下が書類仕事をしているあいだ、ミレイユをひざに乗せてのんびりしたり、猫じゃらしを持ち込んだりする。

「フニャニャニャニャッ!!(猫の本能不思議!!じゃれたくないのにじゃれてしまう!!)」

 王妃が本気で猫じゃらしを振るので、こちらも本気で前足が出てしまう。
 ひげが揺れ、耳がぴんと立ち、獲物を追うみたいに目まで丸くなるのだから、猫の体は本当に正直だった。

「王妃様がお猫様のために時間を作っていらっしゃる」

 という事実は、またたく間に宮廷の話題になった。
 王様は公式には何も言わなかったが、ある朝、執務室前の廊下でミレイユを見かけると、立ち止まり、無言でしばらく撫でていった。

 周囲の侍従たちが石みたいに固まるなか、王様は最後に一度だけ頷き、「よし」と言って去っていく。
 それだけだったのに、侍従たちのあいだでは『陛下もお猫様ご贔屓』という共通認識がしっかり出来上がった。

 明るい時間は、悪くない。
 むしろ、かなり居心地がいい。

 問題は、夜だった。
 正確に言えば、夜の『寝場所』の話だ。

 最初の数日、ミレイユは執務室のソファで眠っていた。
 殿下が就寝のため執務室を出たあと、一人でソファに丸まり、そのまま朝を待つ。
 暖炉の火が落ちると少し冷えるが、毛布が一枚あるし、特段不自由はない。
 ない、はずだった。

 ただ。

「ニャァ……ニャァ……(夜が、少し怖い)」

 王宮の夜は静かだった。
 廊下を見張りの衛兵が歩く足音だけが、ときどき扉越しに響く。
 昼間は侍従も侍女もいて、殿下もいて、賑やかとまではいかなくても、少なくとも一人ではなかった。

 でも夜は違う。

 扉の向こうの足音が遠ざかると、執務室は完全に静まり返る。
 暖炉の火も少しずつ小さくなり、蝋燭の匂いと、本と紙の匂いだけが部屋に残る。
 その静けさの中で、ミレイユはどうしても考えすぎてしまう。

 魔女のこと。
 公爵家のこと。
 元の自分に戻れるのか。
 戻れないとしたら、どうなるのか。

(考えてはいけない。考えても仕方がない。眠ろう)

 そう思って目を閉じても、眠れない夜は暗い方へばかり思考が転がっていく。

 たとえば。
 このまま一生、猫だったとしたら。
 魔女が王太子と結婚して、本物のミレイユのことなど誰も知らないまま年月が過ぎていく。
 公爵家の父も、侍女頭も、侍女たちも、みんな『ミレイユ様』がそこにいると思ったまま、本当の自分のことを忘れてしまう。

(そんなことない、と思いたい)

 でも、『ミレイユ様』が王宮で元気にしていれば、誰も本物のミレイユが行方不明だとは気づかない。
 偽物がうまく振る舞っている限り、本物はいないも同然だ。

 そう考えてしまう夜は、どうしても長い。

 毛布の中で小さく丸まり、尻尾を鼻先に巻きつけても、不安までは温まらなかった。
 目を閉じるたび、暗い未来ばかりが浮かんでくる。

(…………)

 そういう夜は、とても長かった。

 そんなある夜のことだった。
 殿下が執務室を出ようとしたとき、ミレイユは無意識に立ち上がっていた。
 扉へ向かう背中が、いつもより遠く見えた。
 殿下が振り返る。

「どうした、ミィ」
「ニャァ……ニャァ……(どうした、って……私にもわからない)」

 自分でもわからない。
 ただ、殿下がこの部屋を出ていくのを見ていたら、胸の奥がざわついた。
 行かないで、とでも言いたげな、ひどく子供っぽい感情だった。

「ニャア(情けない。猫になったからって、こんなに……)」

 意味もなく鳴く。
 殿下はミレイユをじっと見たあと、窓の外へ目をやった。
 夜の庭を少し眺め、それからまたこちらへ戻ってくる。

「……眠れないのか」
「ニャア(そんなことはない、と言いたいけれど)」

 嘘だ。
 眠れない夜はある。
 一人きりの静かな執務室で、考えなくていいことばかり考えてしまう夜が。

(あなたは、偽物の私を好きになりましたか。偽物の私と、恋をしてますか)

 そんな気持ちが、ふいに胸いっぱいにあふれてしまった。
 殿下が小さく息をついたかと思うと、次の瞬間、ひょいと抱き上げられた。

(え?)
「寝所まで連れていってやる」
「ニャア(で、でも、殿下の寝所に猫が入るのは——)」
「ミィ」

 殿下が静かに名前を呼ぶ。
 それだけで、妙に逆らえなくなる。

 殿下の寝所は、執務室の隣の棟にあった。
 執務室より広く、天蓋付きの大きなベッドがある。
 窓は東向きで、朝の光が差し込みやすい位置にあるらしい。
 部屋の隅には小さな暖炉があり、夜番の侍従が火を入れておいてくれたのか、穏やかに燃えていた。

 執務室より、断然暖かい。
 厚手のカーテンが夜の冷気を遮り、白いシーツはきちんと整えられている。
 部屋全体が静かで、でも冷たくない。人が眠るための場所の空気だった。

(広い……)
「ここでいいか?」

 殿下がベッドの端を指した。
 そこには、小さなクッションが置かれていた。
 ミレイユのためにわざわざ用意したのだろうか、それとも元からあったのか。
 どちらにしても、猫一匹が丸まるにはちょうどいい大きさだった。

 ミレイユはそろそろとクッションの上に乗る。
 柔らかい。
 ソファより少しふかふかしていて、爪先が沈む感じまで気持ちよかった。

 思わず前足が交互に動く。
 ふみ、ふみ、とクッションを踏んでしまってから、はっとした。

(これも猫の本能……?)

 止めようとしても、気持ちよくて少しだけ止まらない。
 殿下がその様子を見て、口元をわずかにゆるめた気がした。

(ここに置いておく、って……つまり、一緒に寝るということ?)

 まあ、猫とその飼い主が同じ部屋で眠るのは、ごく普通のことだ。
 王太子と猫、という組み合わせが普通かどうかはさておき。

 殿下が寝支度をして、ベッドに入った。
 明かりが消える。
 部屋が暗くなる。

 それでも暖炉の火が、やわらかな橙色を室内に投げていた。
 完全な闇ではない。
 殿下の寝息が、しだいにゆっくりと規則正しくなっていく。

「ウニャ……(……眠いな)」

 ミレイユはクッションの上で丸くなった。
 暖炉のぬくもりが、じんわりと体に広がる。
 それに、殿下の気配が近い。

(怖くない。なぜかわからないけど、この人のそばだと、怖くない)

 猫になってからの不安も、夜の孤独も、今夜は不思議と薄かった。
 真夜中に一人で眠れない夜とは違う何かが、この部屋には満ちている。
 温もりだけではない。人の気配。誰かがちゃんとそこにいる、という安心感。

(ずるいな……)

 何がずるいのか、自分でもよくわからない。
 でも、そう思った。
 こういうふうに、何も言わずに不安を連れ去ってしまうところが、たぶんずるい。

 ミレイユはそのまま、ほどなく眠りに落ちた。

 それ以来、ミレイユは毎夜、殿下の寝所のクッションで眠るようになった。
 最初に気づいた侍従が、「お猫様が殿下のご寝所で……!」と大げさに感動し、その話が侍女たちにも伝わって、また一段階『お猫様ブーム』の熱が上がった。

「殿下とお猫様が一緒においでになるとは……」
「なんと麗しい……」
「ご寝所まで……!」
(大げさよ、みんな)

 ミレイユは思ったが、何も言えなかった。
 猫なので。

 ただ、正直に言えば——殿下の寝所で眠るようになってから、夜中に考えすぎることが減った。
 目を閉じるたびに魔女のことを考えてしまう夜も、未来の暗さに胸が冷える夜も、少しだけ遠のいた。

 それだけは、たしかにありがたかった。
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