追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

第十七話 王太子の足に、ぐりぐりしてしまいます

 殿下は執務机で書類を書いていた。
 今日は謁見が長引いたらしく、夕食のあともまだ仕事が続いている。
 ミレイユはソファで丸まりながら、じっと殿下の背中を眺めていた。

(疲れているな……)

 それは、なんとなくではなく、はっきりわかった。
 肩が少し落ちている。
 ペンを走らせる速度が、いつもより遅い。
 時折ぴたりと手が止まり、そのまま窓の外へ目をやることがある。今日の謁見で、何か面倒な話でもあったのだろうか。

(いつもより、ずっと疲れている)

 猫になってから気づいたことがある。
 猫は、人間の『調子』を驚くほど敏感に感じ取る。
 明確な根拠があるわけではない。声なのか、体温のわずかな変化なのか、気配の密度なのか、呼吸の浅さなのか——そのあたりは自分でも説明できない。
 でも、『今日は疲れている』『今日は少し機嫌がいい』くらいのことは、体が勝手にわかってしまうのだ。

 そして今夜の殿下は、かなり疲れている。

(何もできないけど……)

 ミレイユはソファから降り、殿下の足元へ歩み寄った。
 絨毯の上を音もなく進む。殿下が少しだけ視線を落とした。

「ミィか」
「ニャア(少しだけ温もりを分けてあげる、くらいしかできないけれど)」

 ミレイユは殿下の足もとに座った。
 殿下は革の室内靴を履いている。その靴の横へ、そっと体を寄せる。
 ただ近くにいるだけ。それだけでも、少しは違う気がした。

 殿下はまたペンを動かし始めた。
 ミレイユは足元でじっとしている。
 しばらくして、書き進める手の動きが少し戻ってきた。
 さっきまでの重さが、ほんのわずかだが薄れたように見える。

(よかった……少しは楽になったかな)

 それで満足して、もう少しその場にいることにした。
 問題は、そのあとだった。

 殿下の足のそばにいるうちに、体の奥がむずむずした。
 何かが起きた、というより、何かをしたくなった、が正しい。

 ぐり。

 ミレイユの額が、殿下の足に押しつけられていた。

(!な、なに今!?)

 自分でやっていた。
 無意識に、殿下の足へ頭をぐり、と押しつけていたのだ。

(や、やめなさい!やめなさいよ私!)

 そう思うのに、体が止まらない。
 するりと頬を靴の脇へ擦りつけ、もう一度、今度はさっきよりしっかり額を押しつける。
 ぐり、ぐり、と、まるでそこが定位置みたいに。

(なんで!?なんで私は王太子の足にぐりぐりしているの!?令嬢よ、私は!ブランシュフォール公爵家の!公爵令嬢が王太子の足に顔を擦りつけるなんて前代未聞!絶対に前代未聞!)

 でも、猫の体はやめる気がない。
 むしろ本能が『これでいい』『もっと擦りつけろ』と堂々と言ってくる。
 殿下の匂いが自分につくような、自分の匂いを殿下につけているような、そういう妙な満足感まである。

(満足感!?満足してる場合ではない!)

 しかも、ここでようやく気づいた。
 これまで誰彼かまわずこうなったわけではない。
 王妃にも、王様にも、侍女たちにもならなかった。
 こんなふうに、勝手に頭が寄っていくのは——殿下にだけだ。

(なんで殿下にだけ……)

 その瞬間、殿下の手がすっと下りてきて、ミレイユの頭を撫でた。
 指先が耳の後ろをかすめ、首筋へ抜けていく。

「どうした、急に」
「ニャア(どうしたって、私が聞きたい!)」

 声まで少しやさしい。
 それが余計によくない気がした。
 ミレイユはやっとの思いで殿下の足から離れ、逃げるみたいにソファへ戻った。
 しっぽを体に巻きつけ、勢いよく丸まる。

(今のは何……猫の本能というやつ?なんだか無性に、好きな相手に擦りつけたくなって……って、え?好き……?)

 そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振りたくなった。
 危ない。いまのは非常に危ない思考だ。

(……考えない。考えてはいけない。今は猫なのだから、猫として行動するのは仕方がない。あれは本能。猫の習性。令嬢ミレイユ・ド・ブランシュフォールの感情とは無関係。たぶん。できれば、そう)

 ミレイユは一人で懸命に言い聞かせた。
 殿下は不思議そうにミレイユを見ていたが、無理に呼び戻したりはしなかった。
 何も言わず、ただ少しだけ目を細める。

 それがまた——妙に心に刺さった。
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