追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

第十九話 笑わない王太子の、初めての笑顔

 翌朝、殿下が目を覚ましたとき、いつもより機嫌がよかった。

「よく眠れた」

 そう言って、殿下は珍しくゆっくりと起き上がった。
 いつもなら、目を開けてすぐに意識を切り替えるような人なのに、今朝は少しだけ寝起きの余韻が残っている。
 すがすがしい顔で窓の外を見ている横顔まで、どこか穏やかだった。

 ミレイユはベッドの端から、その様子をじっと眺める。

(昨夜より顔色がいい……)
(まさか、私が舐めたから?)
(そんなわけない。ただよく眠れただけ)
(でも、もしかして……)
(考えすぎ!)
「ミィ、どうした。じっとして」

 殿下がこちらを見た。
 ミレイユは慌てて平静を装う。猫の平静など、しっぽを止めて目をそらさないくらいしかできないのだが、それでも必死だった。

「ニャア(なんでもないです!)」
「そうか」

 いつもの会話だ。
 でも今朝は、殿下の声がいつもより少しやわらかい気がした。
 昨夜のことを知っているのは自分だけなのに、まるで何かを共有してしまったみたいで、ミレイユは落ち着かなかった。

 それから、それは毎夜の習慣になってしまった。

 殿下が疲れているとき——いや、正確に言えば、気づくとミレイユは殿下の頭のそばへ近づいていた。
 最初は「今夜だけ」「たまたま」と言い訳していたのに、三日も続けばもう偶然ではない。

(今日もやりそうな気がする……やめて、私!)

 そう思うのに、猫の本能には抗えなかった。

「ぺろ(やった!また!)」
「ぺろぺろぺろ(三回!!回数が増えた!!!)」
「ゴロゴロゴロ(なんで喉まで鳴らしているの!全部本能のせいだけど、本能に乗っかっている私もいるし……!)」

 毎晩、こんな調子だった。
 舐めたあとで我に返り、ベッドの端へ逃げ帰り、毛づくろいのふりをしながら一人で混乱する。
 けれど翌夜になると、また同じことを繰り返す。

 三日、四日と経つうちに、ぺろぺろは『殿下が疲れているとき限定』から、『夜に殿下のそばにいるとき一般』へ変わっていった。
 それはつまり、ほぼ毎夜やっているということだ。

(どうしよう。習慣になってしまった……)

 習慣、という言葉で自分をごまかしていた。
 本当は、習慣なんてぼんやりしたものではない。
『したい』という、かなりはっきりした気持ちがあると薄々わかっている。
 でもそれを認めてしまうと、別の問題が生じる。

(殿下にしかしたくない。認めない。猫の本能。以上)

 そこだけは、頑として認めたくなかった。

 ある夜、殿下が目を閉じたまま言った。

「ミィ」
「ミャッ!?(え、起きてた!?)」
「毎晩、頭を舐めていたな」
「ミャミャッ!?(知ってた!!!!)」

 ミレイユは石になった。
 全身がぴしっと固まる。耳まで止まった気がした。

 いつから気づいていたのか。
 最初の夜から?
 最近?
 どのくらいの頻度で?
 まさか全部?

(全部見られていたの……!?いや、見られていたというか、気づかれていた……!)

 恥ずかしさで、体の内側が一気に熱くなる。
 白猫の毛並みの下で真っ赤になっていても、たぶん外からはわからない。それだけが救いだった。

「猫が相手の頭を舐めるのは、親しみの表現だと聞いたことがある」
(そうです。そうなんです。猫の習性なんです。決してそれ以上のことではないんです!)

 殿下が目を閉じたまま、淡々と言う。
 ミレイユは心の中で必死にうなずいた。
 どうかそこで話を終えてほしい。深掘りしないでほしい。
 頼むから、それ以上は聞かないでほしい。

「……悪い気はしない」
(悪い気はしない……)

 殿下が静かに言った。
 ミレイユはその言葉を頭の中で繰り返す。

 悪い気はしない。
 それは、怒っていないということ。
 許容しているということ。
 むしろ——

(むしろ、喜んでいる……?)
「ニャア(い、いや!そんなことは!ただ怒っていないだけで!)」

 そう鳴いたら、殿下の口元が少し動いた。
 笑った。

 初めて見た、殿下の笑顔だった。
 人前では決して見せないような、作り物ではない、ほんの小さな笑み。
 目尻にわずかに皺が寄って、口の端がやわらかく上がる。
 笑うと、こんな顔をするのだと、そのとき初めて知った。

 ミレイユは固まったまま、その顔を見ていた。

(……笑う顔、こういう顔をするんだ……)

 知らなかった。
 ここ二十日あまり、同じ部屋にいて、一緒に眠って、それでも見たことがなかった顔が、今そこにある。

 胸の奥が、きゅうと変なふうに縮む。
 猫の本能とは別のところが、勝手に騒いでいた。

(困った)

 ミレイユは思った。

(これは……困ったかもしれない)

 何が、とは言えなかった。
 ただ、何か取り返しのつかないことが、静かに起き始めているような予感がした。

(人間に戻ったら……会うことができるのかな、この人に)

 婚約者として会えるかどうかはわからない。
 魔女のことがどうなるかもわからない。
 元の関係に戻れるかどうかも、何ひとつわからない。

 でも——ただ一度、人間として、この人と話してみたい。
 猫の鳴き声ではなく、自分の声で。
 名前を呼ばれたら、ちゃんと返事をして。
 本の話でも、庭の話でも、なんでもいいから。

 その気持ちだけは、もうごまかしようもなく、はっきりしていた。
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