追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

第二話 婚約式の朝に、知らない侍女がやってきた

 翌朝は、よく晴れていた。
 五月のやわらかな日差しが窓から差し込むなか、ミレイユの寝室は早朝から落ち着かない。
 侍女頭を筆頭に侍女たちが四人がかりで支度を整え、薄いプラチナブロンドの髪は複雑なアップスタイルに結い上げられ、真珠のピンが何本も差し込まれていく。

「少しだけ、頬紅を足しましょう」

 侍女頭がそっとブラシを当てる。
 ミレイユはされるがままになりながら、窓の外へ目を向けていた。
 青い空がまぶしい。こんなにも穏やかな朝なのに、部屋の中だけが妙にせわしない。

「失礼いたします」

 居室の扉が開いた。
 入ってきたのは、見知らぬ侍女だった。

 黒い髪に、榛色の目。二十代半ばほどだろうか。
 顔立ちは整っているのに、どこか掴みどころがない。
 口元は笑っているのに、その笑みが顔に貼りついているように見えた。

「あら、あなたは?」

 侍女頭が眉を顰める。

「侯爵家よりご挨拶のお花をお届けに参りました。本日より、婚約式の式典補佐侍女として仰せつかっております、ミランダと申します」

 ミランダと名乗った侍女は、深々と礼をした。

(式典補佐侍女?)

 ミレイユは小さく首を傾げる。
 そういう役職があることは知っていたが、自分のもとへ配置されるとは聞いていなかった。

「お父様からは何も聞いてないけど」
「昨夜、急遽決まったとのことでございます。ブランシュフォール公爵閣下よりのご命令で、式典中のミレイユ様のお世話を担当するよう言いつかっております」

 よどみのない返答だった。
 整いすぎていて、かえって引っかかる。

 侍女頭はすぐに別の使用人へ確認を取りに向かった。
 そのあいだも、ミランダはにこやかに立っていた。
 姿勢も、礼の角度も、声の調子も申し分ない。けれど、見れば見るほど落ち着かない。

 ミレイユはその笑顔を見ながら、何となく居心地の悪さを覚えた。
 目が笑っていない。
 笑顔はあるのに、目の奥には何もない。

(まあ、今日と明日だけのことだし)

 そう自分に言い聞かせて、ミレイユはひとまず、それ以上気にしないことにした。

 婚約式は、昼過ぎから行われる予定だった。
 ブランシュフォール公爵家を出るのは正午。
 王宮までは馬車で一時間ほどの距離がある。

 午前中は、最後の準備にみっちり費やされた。
 ミレイユの支度が整い、あとは出発の刻を待つばかりとなった頃、不意にミランダが口を開いた。

「ミレイユ様、式典でお使いになる香水を準備してまいりました。お部屋でつけてまいりましょうか」
「香水は普段使わないから、いらないかな」
「でも本日は特別な日でございます。王太子殿下との初めてのお目見えですもの。少しだけ、品のよい香りをまとわれては」

 ミレイユは少し迷ってから、こくりと頷いた。
 今日は特別な日だ。せめてそれくらいは気を遣ってもいいのかもしれない。
 花も、髪も、衣装も完璧なのだから、香りだけ何もないのも少し味気ない気がした。

 侍女頭は一足先に玄関ホールの確認へ向かっている。
 いま居室にいるのは、ミレイユとミランダの二人だけだった。
 扉の向こうからは、使用人たちが忙しく行き来する気配がかすかに聞こえる。
 その音だけが、やけに遠かった。

 ミランダが小さな瓶を取り出す。
 澄んだ水色の液体が、硝子の向こうで静かに揺れた。
 花の香りかと思ったが、近づいてみると少し甘くて、どこか不思議な香りがする。
 華やかなのに、胸の奥がざわつくような匂いだった。

「これは?」
「南方から取り寄せた珍しい香水でございます。どうぞ、お試しくださいませ」

 ミランダが、ミレイユの手首へ瓶の口を近づける。

(あまり強い匂いじゃないといいけど)」

 そう思った、その瞬間だった。
 ぱっと、瓶の口から青白い光が弾けた。

「え——」

 光がミレイユの全身を包み込む。
 まるで電撃を流し込まれたみたいに、びりっと痺れが走った。
 息が詰まる。足元が揺れる。何かがおかしい。何かが、一気に変わっていく。

 体が縮んでいく。
 逆に、世界がどんどん大きくなっていく。

 視界が何かで覆われ、バタバタと手足を動かす。
 指先から感覚が遠のいたかと思えば、次の瞬間には、爪先とも指とも違うものが床を掻いていた。
 やっとの思いで視界が開けたかと思ったら、高かったはずの天井が、ひどく遠い。
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