危ないピアスには要注意
「先方から担当変更の申し出があった」
 ――もう何度目だろう。課長に呼び出されてこの宣告をされるのは。

「あちらはもっと販売意欲のあるベテランがいいと言っている。日向、残念だがお前には担当を外れてもらうよ」
「……はい」
「日向の真面目なところは気に入ってるし、俺としては長い目で見たかったが……」
「……すみません」

 具体的に責められもせず、淡々と引継ぎ書類の作成を求められ席に戻るよう指示された。

 新卒から入社二年が経ち、所属も変わらず営業部で三年目に入ったというのに、自分の情けなさに涙が出そう。自分より年下の二年目は、既に契約をいくつか取ったらしい。
 同期の中では私くらいだ。まだ一つも上手く契約を結べていないのは。

 昔から、自分の真面目すぎるところが欠点だと自覚していた。勉強も仕事も一所懸命に学ぶけれど、融通が利かず頭が固いせいで空回ることも多かった。
 ゆえに入社時は経理部を希望していたが、人員の関係か、配属されたのは営業部……。マニュアル人間の私には、営業部での仕事はハッキリ言って向いていなかった。

 先方の担当者と話を弾ませることもできなければ、企画の説明もマニュアル通り。他の営業担当が分け与えてくれた仕事ですら、この日のように無下にしてしまうばかりだった。
 課長は私の性格を評価してくれるのに、いつまでもダメな自分が恥ずかしかった。

 惨めな気持ちになりながらもパソコンと向き合い、引継ぎ書類の作成を終えた頃、週末に入った。

 曇り空が広がる土曜の午後、アパレルショップでセールになった春服を眺めつつ友人に相談してみたら、自信を失ってしまった私とは正反対の意見が返ってきた。

「梨絵が考えすぎなんじゃない? みんな自分の性格まで気にして働いてないでしょ」
「ええっ……!?」
「やれって言われてやるとか、目の前に仕事があってやりたくないけどやるしかないとか、面倒だけどこっちの方が効率的だとか、みんなその程度のことしか考えてないと思うけど」
「そ、そうなの!?」
「知らない。少なくともあたしはそう」

 あまりに大雑把な考え方で私を驚愕させた友人――遥菜ちゃんは、手に取ったトップスを私に充てがい見比べている。
 
「梨絵って高校生の頃から悩みが変わんないよね〜。ボランティア活動の校外実習で子供と触れ合ったときも、わざわざ保育の本を読み込んで勉強してきたのに誰にも懐いてもらえなかったり。委員会の副会長になったときも、会長より熱心に取り組んで浮いちゃったり。やる気はあるけど空回りがちっていうか」
「だ、だって、やるならちゃんとしなきゃ! って思っちゃって……」
「そういうところ、ホント真面目ちゃんだね」

 女の子らしくオシャレで可愛い遥菜ちゃんは、真剣に服を選びながら、片手間に相談に乗ってくれる。前向きな彼女は自分の性格と仕事について悩む私と違い、今年からアパレル店の店長になったと聞いた。
 後ろを振り向かない遥菜ちゃんらしく、順調に社会人生活を満喫しているのだと少し羨ましい。そして、そんな遥菜ちゃんに私は密かに憧れている。

「う〜……私、やっぱり頭が固いのかなぁ……。もっと柔軟に考えられるようになりたいよぉ……」
「責任感が強くて誠実なところが梨絵の良さなんだから、そこを直そうと思う必要はないと思うけどね、あたしは」
「でもぉ……このままじゃ仕事が……」

 強く頭を抱える私に、遥菜ちゃんは気取らない態度で提案してくれる。

「まぁ、どうしても梨絵が変わりたいって思うなら、まずはすぐに変えられることから始めてみれば?」
「すぐに変えられることって?」
「その地味なメガネをコンタクトにして、真っ黒な髪も茶髪に染めて、オシャレをしてみるとか! ほら、これとか似合うんじゃない?」
「そ、そんな露出が多いの着れないよ!」

 春服を見ていたのに、着るにはまだ早い薄手の夏服を勧められ、慌てた私は強く断り店を出た。
 本当は可愛いと思ったけれど、見た目からしてお固い私にはきっと似合わない。無意識にそんなことを考えてしまっていた。



 夕方からさらに雲行きが怪しくなって、予定より早く遥菜ちゃんと分かれた私は最寄り駅まで急いでいた。しかし近道をしようと普段は行かない道に入ったことで、方向感覚を失い途方に暮れてしまう。
 仕方なく大通りへ出ようとスマホで地図を開いたら、なぜか充電切れで画面が消えてしまう。大学時代から酷使してきたせいだろうか。

 どうしよう、と辺りを見回して気がついた。独特な雰囲気の古着屋が、閑静な裏通りに密かに佇んでいることに。

「こんなお店があったんだ……」

 曇り空と地面、スマホばかりを見ていた私は、その異様な雰囲気を醸し出す古着屋に目を奪われた。私みたいな女性は間違っても立ち寄らないような、少し怖さも感じるほどの佇まい。窓から見える店内には、派手な柄シャツやダメージジーンズがいくつもかけられていた。

 普段なら見て見ぬふりをするはずの外観。けれど私の足は自然と古着屋の方へ向いていた。

「……かっこいいなぁ」
 小さく漏れた言葉は、これまで誰にも明かしたことのない私の本心だった。

 ルールやマニュアルに従って堅苦しい生き方をしてきたからか、私は自分と正反対の人への憧れが強かった。派手な容姿で人生を楽しむ人、好きなものに囲まれて幸せそうな人、社会の常識に縛られず自由な人……自分もそんな人間になれたら、といつも羨望の眼差しで見つめていた。

 結局、そういうお店を見かけても勇気がなくて踏み出せず、逃げるように立ち去ることしかできなかったけど。

 しかしこの日はなぜか足を止めてしまった。どんよりとした曇り空に合う外観に心奪われたからか、たまたまスマホの画面が消えたからかは分からない。
 分からないけど、足はしばらく動かなかった。

 ポツン、と肌に雨粒が当たる。

「わっ……!? 降り出してきちゃった!?」

 思わず空を見上げると、同時に無数の雨粒が降ってくる。それらは容赦なく顔に降りかかり、瞬時に私の服を濡らした。
 道は分からず、折りたたみ傘の持ち合わせもなかった私は急いで雨宿りの場所を探し、その場へ急いだ。そうして雨宿りとして立ち寄ったのは、先ほどの古着屋だった。

 重い扉を開けると鈴の音が鳴る。
 たった数秒で強く降り出した雨を逃れた安心と、これまで一度も踏み込めなかった古着屋の店内へ咄嗟に立ち寄ってしまった緊張で、心臓は忙しなく音を立てた。

 外から僅かに見えていた店内が、はっきりと視界に映る。意外にも店内はあたたかい照明で満たされ、BGMでは小さく欧米の歌が流れていた。多少の懐かしさを感じる、インディーロックというものだろうか。

 入口の扉から店の全体を眺める。
 すると、寝起きのようなぼんやりとした低音の声が、引き摺るような足音と共に私の元へ近寄ってきた。

「ん〜……? あんまりにも暇だからもう店仕舞いしようかと思ってたけど、こんな雨の中お客さんが来るなんて珍し〜」
「――キャアッ!?」

 反射的に肩を跳ねさせた私の目に映ったのは、全体的に黒い印象の高身長な男性。ガチャガチャとした柄物の服に、激しく破れたゆったりジーンズ、存在感の強い銀色の指輪やネックレス、そして……

耳たぶを囲うように連なるおびただしいほどのピアス――!!

 一体いくつあるのか、数えても数え切れないピアスの量に、私の心臓は爆音を奏でる。
 何度も挑戦しようとして、その度に恐ろしくて諦めてきた私の最大の憧れ。それは紛れもなくピアスであった。

 高揚する体と興奮で震える唇。男性はそんな私を怯えていると感じたのか、気遣うように気怠げな表情を切り替えた。

「ごめんごめん、そんな怖がらないで〜。俺べつに取って食ったりしないからさぁ」
「あ、い、いえ……えっと……」

 怖いのではなく興奮しているのだとは言えるはずもない。耳元を凝視してしまう目を必死に逸らそうとしながら、私は胸を押さえた。

「君、うちの店は初めてだよね? 系統違うように見えるけど、もしかして興味ある?」
 挙動不審な態度の私に、男性は積極的に声をかけてくる。口振りから、彼がこの古着屋のスタッフであることが察せられた。

「す、すみません……雨が降り始めて、咄嗟にお店に入ってしまって……」
「あぁ、そういうことか。若い女の子が一人で来てくれるなんて珍しいな〜って思った。雨が落ち着くまでどーぞゆっくりしていってね」

 近寄り難い見た目に反して親しみを感じる接し方の彼は、私が小さくお礼を言うと世間話を始める。

「咄嗟にこの店に入るなんて、君って勇気あるね。自分で言うのもなんだけど、ここ威圧感あるでしょ」
「えっと……ほんのちょっと……あ、いえ、やっぱりそんなことないです……」
「気遣わなくていいよ。常連さんにもよく言われるんだ。俺のこの見た目もイカツいっぽいしね」

 清々しいほど満面の笑みで自嘲する男性。そんな彼と接していると、場違いな雰囲気からくる緊張も段々と落ち着いてくる。

「君、名前は? 俺は虎谷陽祐」
「あ、日向梨絵と申します」
「りえちゃんね。これも運命だし、よかったらお店のSNSとかチェックしてみてよ。オシャレで変な服いっぱい載せてるからさ」
「は、はい、是非っ……」

 さらりと名前で呼ばれて困惑しても、彼はまるで当たり前みたいに態度を崩さない。

「あ、あの……店員さんって……」
「陽祐って呼んで。他人行儀で寂しいからさ」
「ほっ、へっ、はっ……ヨ、ヨウスケ、サン……?」
「あれ? もしかして男の名前呼ぶの慣れてない? あはっ、かわいーね」
「ぐぅっ……!」

 巷でよく言う『メロい』という言葉の意味が、彼――陽祐さんのような人物をイメージされるのであろうことが、私はこのとき初めて理解できた。

「ヨ、ヨヨ、ヨウスケサンは、今お店にお一人なんですか? 他に店長さんとかいらっしゃるんでしょうか?」
「一人だよ。そもそもこの店、初めから俺しかいないしね」
「もしかして開業されたってことですか? すごいですね、お若いのに……」
「いやいや、俺もう二十七だから。こんなナリしてるけど、立派な大人だよ〜」
「に、にじゅうなな!?」

 予想外の返答に驚いて声が大きくなる。若々しい雰囲気から、勝手に年下であると想像していた。

「二十歳から知り合いの古着屋で働いて段々と興味が湧いてきて、二年前にノリでここ開店したんだよね」
「ノ、ノリで……」
「ほら、こういうのは勢いが大事って言うでしょ? 最初はまったくお客さんが来なくてすげー苦戦したけど、SNSとかWEBサイトとか使って地道にやってたら、今までなんとか生き残れてるんだよね。正直いつ潰れるかも分かんないけど、毎週遊びに来てくれる常連さんもいて楽しくやれてるし、結構楽しいんだよ」

 店の未来を不安視するわりにあまり悲観する様子のない陽祐さんの笑顔を見て、すごいですね……と呟いてから自分と比べてしまう。

 傍からは自由に見える人でも、その人なりの苦労を経験し努力しているのだと気づき、ウジウジとしているばかりの自分が恥ずかしくなった。私も彼のように、悩むより先に踏み出せるほどの行動力がほしい。
 たとえただの勢いであったとしても、自分の中にあるマニュアルを打ち消せるくらいの主体性が私にあれば……。

「……どうしたら、私もあなたのようになれますか?」
 突発的に聞いたからか、陽祐さんは目を丸くしている。

「りえちゃん、やっぱりこういう店好きなの? それとも古着屋開業に興味ある感じ?」
「あ、えっと……確かにこういったファッションに憧れはあるんですが、そういうことではなく……」

 耳元のピアスを揺らし、不思議そうに首を傾げながらも言葉を待ってくれる彼に、私は意を決して悩みを伝えてみた。
 真面目すぎる性格のせいで仕事が上手くいかないこと、他者と比べてしまい焦りがあることを素直に打ち明けると、真剣に耳を傾けてくれた陽祐さんは考える素振りをする。

「つまり、自分の殻を脱したいってこと?」
「はい……。融通が利かなくて臨機応変にできないところとか、考えてばかりでなかなか行動に移せないところとか、どうにかしたいんです……」
「うーん」

 陽祐さんは腕を組んで宙を見上げたかと思うと、困ったような顔をしてまたこちらを見る。

「でも俺、まともに会社勤めしたことないしなぁ。りえちゃんよりちょっと社会人経験が長いだけのチャランポランだし」
「そんなことないです! ヨ、ヨウスケさんはお店の困難にも果敢に挑んでらっしゃるように見えますし、今だって雨宿りの私なんかのお相手もしてくださって……。私、仕事中に私語を慎むどころか、取引相手の方と世間話を嗜むことすら躊躇してしまうんです。そういうお話もお相手と心の距離を縮めるために必要だって教えられたのに、会話を上手く広げられなくて……。だから、ヨウスケさんみたいに柔軟な考えになるにはどうしたらいいのか、って……」
「俺の場合は〝柔軟〟ってより〝テキトー〟の方が合ってるような気がするけど」

 話しながらどんどん俯きがちになる私に、どうしたものかと考えあぐねていた陽祐さんが、じゃあ、と明るい声色で提案してくれる。

「普段の自分とはまったく違うことをしてみるとか?」
「……え?」
「真面目すぎる性格を矯正したいなら、わざと真面目とかけ離れたことをして価値観を塗り替えるとか。それなら俺も協力できるし」
「協力、してくれるんですか?」
「もちろん。悩みを聞いちゃったからには協力するよ」

 頭一つ分くらい高い位置にある彼の瞳に目を合わせると、その瞳はにっこりと細くなる。
「――りえちゃん、俺と一緒に悪いことしよっか?」



 次の金曜、仕事終わりの私がまだ知り合ったばかりの陽祐さんと待ち合わせたのは、クラブの店前だった。

「ヨヨヨヨウスケさんっ! こ、ここって……!」
「行きつけのクラブ~。会員制だから治安も悪くないし、俺がいるからりえちゃんも入れるよ」
「悪いことってこれですか!?」
「そだよ。朝まで踊り明かすなんてヤンチャな学生みたいだよね」

 普通のことだと言わんばかりに微笑みを絶やさない陽祐さんに、私は堅苦しいスーツ姿で駆け寄る。どう見ても、仕事終わりの地味な私はこの場所に不釣り合いだ。

「りえちゃんクラブなんて来たことないでしょ? 初めての悪い子活動にはちょうどいいと思うよ」
「でも、いきなりクラブなんてっ……絶対に浮いちゃいますよ……!」
「浮かない浮かない。普通のサラリーマンだって息抜きで来てるし」

 煌びやかなネオン街すら訪れたことはないというのに、こんな虹色に光る看板を掲げた店なんて、足を踏み入れようと思ったことがない。タイプの違う自分には到底縁のない場所だと決めつけていたからだ。

 陽祐さんは不安と緊張で圧し潰されそうな私の手をさりげなく握ると、有無を言わさず入店した。

 華の金曜日、仕事を終えた人々や、時間というしがらみから解放された若者たちが、暗くも賑やかな店内で肩を寄せ合っていた。どこかレトロに感じるEDMに合わせ、ノリよく腰を振る人と、会話を楽しみながらお酒を煽る人で分かれている。
 賑やかな中で思い思いに楽しむ男女の姿に見惚れた私は、混雑した店内を迷いなく進む陽祐さんに腕を引かれ、フロアの中心まで連れられた。

「さぁ、りえちゃんも踊ろっか」
「え!? わ、私もですか!?」
「クラブなんだし、せっかく来たなら踊らないとつまんないよ。俺が教えてあげるね」

 何が何だか分からないまま握られた両腕を宙へ高くあげられ、驚いた拍子に陽祐さんとぴったり目が合う。そして彼は誘導するみたいに分かりやすくステップを踏み始めた。

「よく見て、こんな感じ」
「えっ、えっと!?」
「下は見ないで、俺を見てて。細かく考えず、音楽にノッて楽しむんだよ」

 耳元で囁かれる声に、足は自然と未熟なステップを踏んでいた。それを見た陽祐さんの腕が、流れるように私の腰へ回される。ぴくりと体を跳ねさせて彼の瞳を覗くと、その瞳は魅惑的なまでに色気を含んでいた。

 心地のいい重低音、甘く痺れるような微笑み、動きに合わせて大きく揺れる無数のピアス。優しい毒のような刺激が、これまで真面目に生きてきた私の中を激しくかき乱す。私はまるで熱に浮かされたみたいに体を火照らせ、不器用な踊りを続けた。

 払いのけてもいいはずの腕を、腰に添えられたままにして。

 結局朝まで陽祐さんとクラブで過ごし、帰宅したのは八時だった。朝日が差し込む一人暮らしの玄関を開けた瞬間、激しい眠気と疲労感に襲われる。
 ワンルームの奥にあるベッドへ服を着たままダイブして、生まれて初めての朝帰りに思いを馳せた。堅苦しい自分が今更こんな非行少女のような夜を明かしたなんて、信じられなくてなんだか面白い。

 あきらかに睡眠が不足しているのに不思議と気分はよく、すっきりとした解放感に包まれ、シャワーも浴びずに瞼を閉じた。汗をかいた体は不快だったけれど、いつになく熟睡できた朝だった。

 それ以降、私と陽祐さんは毎週末ふたりで過ごした。深夜もやっているアミューズメント施設や、流行りのシーシャバー、愉快なママが評判のスナックまで、彼の行きつけだという幅広いお店で夜を明かす。
 彼と深夜から朝まで過ごすせいか、いつも土曜日の午後は体調が優れなかった。それでも私は彼との時間に幸福感を抱き、次第に溺れていった。

 しかし、陽祐さんとの名前もない関係が続いて季節が切り替わろうとしていたとき、私は見てしまった。いつも私と歩いていたネオン街を、彼がべつの女性と腕を組んで歩く姿を。
 二人は仲睦まじく人混みの中へ消えていき、放心する私の姿には気づかなかった。
 木曜日の夜、仕事の飲み会に参加して、同僚たちと帰りの電車へ向かっている途中だった。

 帰宅後には翌日の約束を断り、私はもう彼と会わないことを決めた。夢のような気分が解け、一気に現実が見えたからだ。

 私は彼にとって、週末に会うだけの何者でもない人なのだ、と。



 陽祐さんと会うのをやめてからひと月が経った。最初の頃は様子を窺う連絡もきていたが、今はもうほとんどない。たまに『お仕事は上手くいってる?』と当初の悩みを気にかけた連絡がくる程度。当然だ、そもそも彼は私の悩みを解決するために普段の私がしないことを経験させてくれていたのだから。勝手に沼にハマったのは私、女性に慣れている彼が悪いことはない。

 毎週末崩れていた生活習慣が元に戻り、徹夜明けで夕方まで眠ることもあった土曜日は朝日と共に目覚め、体のいたるところの不調が治った日々。快適なはずだったのに、なぜだかつまらなかった。
 心のどこかでは、まだあの自由を求めている気がしたのだ。

 そんなとき仕事で転機が訪れた。

「最近、夜は羽目を外したくなるときがあるんだよ」
 いい歳して恥ずかしい、と世間話を振ってきたのは取引先の中年男性だった。契約に持ち込むことはまだできていないけれど、私の企画に興味を持ってくれた人だ。

「羽目を外す、とは……」
「妻に黙って飲みに行ったり、クラブに行ったりするようになってね。昔は本ばかり読んでて、そんなのとは無縁だったのに」
「わ、分かります。私も少し前にそういった場所を出入りしていましたから」
「えぇ、日向さんも? 人は見かけによらないねぇ」
「この歳になって初めて徹夜をしてしまって」
「ははっ、日向さんはまだ若いんだからいいじゃない。僕なんて妻も子供もいる中年オヤジだから、徹夜したら次の日に影響が出ちゃうよ」
「ふふっ、私も同じですよ」

 身に覚えがある話題だったからか、お相手との会話を自然に進められた。今までならなんと返せばいいか分からなかった、仕事とは関係のない当たり障りない話。それでも不思議と会話は弾み、お相手が私に関心を寄せていくのがよく分かった。

 夜の息抜きなどの雑談を交えながら企画についても話し、商談を終えた数日後には契約成立の旨を電話で伝えられた。
『企画もよかったけど、先日の会話がとても楽しかったから一緒に仕事をしてみたいと思った』
 電話越しにそう言われて、感極まり涙が流れそうになった。

 初の契約成立の報告に課長や同僚たちも喜んでくれて、この上ない充実感に満たされたと同時に思う。この喜びを陽祐さんに伝えたい。
 金曜の仕事終わり、約束もしていない夜の街を、私は彼を探して歩いた。連絡すればいいだけなのに、少し歩いたら見つかるような気がしたのだ。しかし混雑した人通りで簡単に見つけられるはずもなく、潔く連絡することにしたとき、見知らぬ男性たちに声をかけられる。

「あれぇ、随分と真面目そうな子がいる」
「ホントだ。お姉さん一人なの〜?」

 無遠慮な手で腰に触れられ身構えるが、お酒の匂いを漂わせた二人の男性は容易に私を囲い込む。

「あ、あの、離し……」
「お姉さん仕事帰り? スーツの女の人なんて久々に見た~」
「危ないから俺らと一緒に飲も。近くにいい店があるんだぁ」
「や、やめて――」

 強引に連れられそうになり、必死に拒む体が腕を引かれた方向へ傾きかけると、途端に背後から強い力で体を包まれる。
 不快感のない、覚えのある腕だった。

「ごめんね、お兄さんたち。この子、俺の大事な子だから勘弁してくれる?」
「よ、陽祐さん……!」

 どこからともなく現れた陽祐さんは、無害な笑みは絶やさず、がっしりと私の体を引き寄せる。
 二人の男性は「あ、ごめんなさ~い」と軽い謝罪をしてすんなりその場を去り、私は久しぶりに会った陽祐さんにお礼を言った。

「りえちゃんったら、来るなら言ってくれたらいいのに。ここは女の子一人でうろつくには危ないよ」
「す、すみません……」

 優しい拳で小さく頭を小突かれる。怒りを感じないその拳に胸を苦しくさせながら、私は堪えていた喜びを溢れさせた。

「陽祐さん……! 私、ついに自力で契約が取れました! 共通の話題を見つけて、お相手が私との会話を楽しかったと言ってくれたんです!」
「へぇ! そっかぁ、よかったね」
「真面目すぎる自分を脱するために、陽祐さんと時間を気にせず過ごしたことが役に立ちました! 本当にありがとうございます!」
「うーん、それ本当に役に立てたのかなぁ? 俺は楽しかったけど、ただ一緒に遊んだだけだし」
「私にとってはすごく役立ちました!」

 私の圧に、陽祐さんが困った笑みを浮かべている。それでも私は粘り強く続けた。

「陽祐さんには初めてのことをたくさん教えてもらって、変わりたいという気持ちだけで行動に移せない私の手を強く引いてもらいました。悩みばかりが膨らんでどうしようもなかった心を陽祐さんが解放させてくれたおかげで、マニュアル人間だった自分の価値観を少しでも変えられたと思うんです。お相手との話題だって、以前の私なら広げることはできませんでしたし……。だから、陽祐さんには感謝してもしきれません」

 あなたは私の恩人です、と素直な気持ちを告げて顔を上げると、彼の目が穏やかに細くなる。風で揺れる大小さまざまなピアスは、音楽を奏でるように触れ合い音を鳴らしている。
 魔性のような雰囲気に鼓動が高鳴り、体はさらに熱くなる。

「わ、私、今度は陽祐さんのお店で服も新調してみます! 今まで憧れるだけでしたけど、これまでの自分とは全く違う新しいファッションにも挑戦して、それで……!」

 素敵なあなたの隣に立ちたい――そう言いかけたところで、唇が熱い何かにふさがれた。

「――え?」
 誰にも触れられたことのない場所へ柔らかく触れたのは、彼の唇だった。

「あはっ、あんまり可愛いからキスしちゃった」

 悪びれる様子なく舌を出す陽祐さん。その舌先には、銀色に輝く一つのピアス。
 その存在感ある色気の象徴に心奪われ、以前見た女性との関係や、このキスの意味を問いただすことも忘れ、ただ思うのだった。

 あぁ、私は恋人でもない男性と唇を重ねるような悪い子になってしまった――と。
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