伯父の命により、高潔すぎて『聖人』と噂の男の元へ行く事になりました。〜火は燃え滾り金は煌めきを秘める【上】〜

1.赤き翼

 南方、槭羽渓谷(せきばけいこく)──。
 天から差し込む強く眩い陽の光が、青葉生い茂る渓谷を明るく照らす。
 五方の中でも一際暑さを感じるこの南方の、高い大空を飛び回る男がいた。
 歳は二十ぐらいか、纏う赤衣の片側の袖をだらしなく垂らし、むき出しにした腕は筋骨隆々としている。精悍な顔立ちと相まって逞しい印象だ。
 彼の一族は天を舞う霊獣血筋の祓氏の中でも唯一羽を与えられた存在で、背中に生えた立派な褐色のそれが力強く羽をうつ。
 着崩した赤い衣と美しい赤い大翼は、緑の渓谷によく映えて、捥いだ真っ赤な山桃を齧りながら飛び回る姿は何よりも強い存在感を放っている。
 自由自在に飛ぶ様はまるで自分が渓谷の主だと主張しているかのようだ。
 ふとどこからか不愉快な水音が聞こえてきて、男は真下へと目を向ける。

「あ゛?なんだあれ」

 渓谷の運河は南方の中心部へと緩やかに流れている。しかし奇妙な事に川の真ん中で激しく水飛沫をあげているのが見えた。
 騒がしさに一気に興が削がれ、眉間には深く皺が刻まれる。元々周囲を恐々とさせる鋭い双眸はますます鋭くなった。
 男は食べかけの山桃を投げ捨てると、水面近くまで飛行の高度を下げる。そこで見えたのは人の手だ、人の手が水面の間を行ったり来たりしていた。

「何だ間抜けが溺れているだけか」

 成る程と腑に落ちた後、青い袖が見えた。
 思い当たる『青』といえば一つしかなく、今度はどんな馬鹿が溺れているのか興味が湧いた。

「はっ、お澄ました蒼家の奴が溺れるなんざ滑稽だな。酒の肴は決まりだ。まずは間抜け面を見てやろう」

 そして散々馬鹿にしてやろう。
 男は口元が歪ませて、水面に浮かんでは沈む手を掴んだ。
 たとえ落してしまっても一向に構わなかったものの、強く、強く握り締める。
 掴んだ手は冷え切っていて、思いの外小さくて、柔かった。
 翼を大きくはためかせて空へと上がると、思ったよりも小さく軽い、間抜けを目の前まで引き上げる。掴んでいた者は女で、道理で、と納得しながら水が滴る青衣の女を見つめた。
 濡れた髪が張り付く頬は青白く、瞼を固く閉ざしている。一瞬事切れているのかと思ったが、か細い息の根が聞こえていた。

 ──見たことのない奴だ。

 魔物狩りで時折龍東万雷の連中を見かけるが、しかし女の顔に覚えはなかった。

──顔はそこそこだが、俺の好みじゃない。それに顔の良い奴ならもっと他にもいる。おまけにこいつは川に落ちる間抜けだ。

 女を値踏みしていると、自分のものではない羽音が聞こえて目線を移す。同じく赤い衣を着崩した男がこちらへ向かって来た。

我焰(がえん)坊っちゃん、やっと追いつきやしたぜ」
「お前が遅いんだろ、赤尾(せきび)

 現れた男はやれやれとため息吐いた。
 彼もまた背中に大翼が生えていた。羽の色は鮮やかな赤で、どこか派手さを感じさせるのはその男をそのものを表しているように見えた。
 我焰と呼ばれた男は主で、赤尾と呼ばれた男は従者。二人は十数年も前に主従の契りを交わした間なのだが、赤尾は口が過ぎる男だった。
 なので我焰は相手する事が面倒になって途中で巻いてきたのだ。
 追いつかれた事に我焰は舌を鳴らした。
 短気な主に慣れている赤尾は今更気にする事もなく、既にずぶ濡れの青衣の女へと興味が向いていた。

「おっ、その女はどこから攫ってきたんですかい?しかも龍東万雷の女なんて上玉を──もしかして許嫁の天女様に振られたから?」
「は?」
「あぁ、あの南方の天女様が許嫁になったかと思えば、突如姿を消して、自暴自棄になった坊っちゃんが女を攫うなんて……」

 赤尾がわざとらしく痛ましげな声を上げる。その姿に我焰の怒りが爆発した。
 
「はぁ?自暴自棄になってねぇよ!川で溺れてたのを拾ったんだ!それに誰が振られただと?そもそも許嫁ですらねぇ!」
「まぁ正式なものじゃなかったですが、話は結構進んでたじゃねぇですかい。ある日突然祓氏の修行の旅に出ましたって家の者に告げられて間接的に振られやしたが……あれ?もしかしてだから龍東万雷の女を──?」
「だから振られてねぇよ!あぁっ面倒だ!こいつやるから黙ってろ!」

 憤慨した我焰は掴んでいた女を乱暴に赤尾へ向けて放り投げた。
 赤尾は慌てる様子もなく、主の態度に酷いと笑いながらもしっかりと受け止め、優しく抱きしめる。そして女に顔を寄せてまじまじと見つめた。

「へぇ、中々の別嬪」

 女は未だ眠ったまま、寝顔にはあどけなさがまだ残る。

「じゃあ少し味見を……」
 
 冷たい顔を上へと向かせ、冷えて青白くなった唇へとゆっくりと近付いていく。
 この隙にうまく巻いてやろうと考えていた我焰は、こちらに向かってくる羽音に真っ先に気付いて顔を顰めた。
 赤尾が唇に触れる直前、ようやくそれに気づいて既のところで身を翻す。間一髪、赤尾の頭があった所に何かか勢い良く通り過ぎていった。

「あっぶねぇ──姐さん、頭に蹴りはないでしょ頭に。姐さんの蹴りは軽く頭が吹っ飛んじまう!」

 女を抱きかかえたまま赤尾が文句を垂れた。
 目線の先には羽を生やした女の背中がある。色は二人に比べると少し淡くも、艶と手触りの良さそうな赤羽だ。
 女は翼ごと肩をふるふると震わせて、くるりと振り向く。目尻が上がった大きな目が印象的だった。

「眠ってる女に何をやってんだいアンタらはー!」

 女の怒鳴り声が渓谷に響き渡った。
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