絵空事の夢

中盤

​あれから、十年近くの歳月が流れた。
今でも、あの九月の日のことは、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏に焼き付いている。
成長するにつれ、海の中で『お兄ちゃんに自分も化粧をしてほしい』という憧れは、年々強くなる一方だった。人生の節目となるような特別な日のメイクを、プロである兄の手で完璧に仕上げてほしい。そう願うのは、妹としてごく自然なことに思えた。
​「ねえ、お兄ちゃん。一回だけでいいから、あのお化粧をしてよ」
どれだけ泣きせがみ、袖を引っ張って頼み込んでも、兄の頑なな拒否が揺らぐことはなかった。普段は海の願いを何でも叶えてくれる優しい兄が、その時だけは一線を越えさせることはなかった。
しょんぼりと肩を落とす海を見て、兄はいつも困ったように眉を下げ、
「仕事でする化粧は、してあげられないけど……」
そう言って、引き出しから普段使いの小さなパレットを取り出し、海の顔にそっと薄化粧を施してくれる。
​もちろん、お兄ちゃんに化粧をしてもらえるのは嬉しかった。けれど、海の心はそれでは満たされない。
薄化粧をされた自分の顔も十分に綺麗だったけれど、どうしてもあの九月の日に見た、祖母の圧倒的な、この世のものとは思えないほどの神聖な美しさが脳裏から離れなかった。
✳✳✳
学校での休み時間、教室の喧騒の中で、海は机に突っ伏したままぼんやりと前を眺めていた。
視線の先では、数人の友達がスマホの画面を覗き込んでいる。画面の中でブラシを忙しく動かすインフルエンサーの動きに合わせて、「うわ、このアイシャドウの発色やばい」「待って、このグラデーションどうやんの?」と、感嘆とも悩みともつかない声を上げて唸っている。
​きらきらとしたパッケージや、みるみるうちに大人びていく顔。それらを眩しそうに追いかける友達の横顔を見つめながら、海はそっと自分の指先に目を落とした。
​「ねえ、海はメイクしないの?」
​不意に友達の一人が振り返り、画面をこちらに向けて悪戯っぽく笑った。
「え?」
「確かお兄さんがメイクする職業の人なんだよね?」
「うん!」
​不意を突かれながらも、海は嬉しそうに頷いた。大好きな兄のことは、今でも海の誇りだった。
​「やっぱり!すごいよね。じゃあ海も、お家でいろいろ教えてもらったりするの?」
「ううん、全然。お兄ちゃん忙しいし、頼んでもダメって言われるから……」
​嘘ではないけれど、半分は言い訳だった。
本当は、仕事部屋に並ぶ色とりどりのパレットや、繊細な筆先を眺めるたびに、胸の奥が小さく疼くのを感じている。
​「えー、もったいない!私だったら毎日フルメイクしてもらうのにな」
友達はそう言って笑い、机の上に並んでいるリップを取って海に見せた。
​「あ、このリップの色、海に似合いそうじゃん」
「そう?」
海は差し出されたリップに視線を落とした。友達の指先につままれたそれは、落ち着いた、でもどこか華やかさのあるクリアなピンクベージュだった。
​「絶対似合うって!ほら、海の唇、もともと形が綺麗だからさ」
友達はそう言いながら、キャップを外してリップの先を少しだけ繰り出す。甘いバニラのような香りが、微かに海の鼻腔をくすぐった。
​「ちょっと塗ってみる?鏡貸すよ」
「えっ、でも……」
​学校でメイクなんてしたことがない。校則が厳しいわけではないけれど、なんだか急に悪いことをしているような、それでいて特別な秘密を共有しているような、そわそわとした高揚感が胸に広がる。
​海は戸惑いながらも、そっと手を伸ばしてそのリップを受け取った。プラスチックの容器は、教室の冷房で少しひんやりとしていた。
​「ほらほら、これ持って〜」
友達が手鏡を目の前にかざしてくれる。鏡の中に映る自分の顔は、緊張のせいで少し強張っていた。
「……あ、チャイム」
​友達がハッとしたように顔を上げ、スマホの画面を消した。遠くの廊下から、予鈴を告げるチャイムの音が響いてくる。
​「あ」
​海は少しだけほっとしたような、同時にひどく名残惜しいような気持ちになりながら、手に持っていたリップを友達に返した。キャップを閉める「カチッ」という小さな音が、妙に鼓膜に残る。
​「ごめんね、次、移動教室じゃん!急いで教科書準備しなきゃ」
「ううん、ううん。貸してくれてありがとう」
​友達が慌ただしくメイク用品をカバンに押し込み、席を立っていく。
教室の中がにわかに騒がしくなり、机を引きずる音や、廊下へ駆けていく足音が響き渡る。
​海も急いで教科書を抱え、立ち上がった。
学校から帰ると、兄がリビングのソファから立ち上がり、驚いた顔をしながら海の顔をまじまじと見つめてきた。
「海……それ自分でやったのか?」
「友達にやってもらった」
「そうか……!」
「似合ってるぞ〜」と、兄はまるで自分のことのように破顔して、海の肩をぽんぽんと叩く。
​「良かったなぁ。海もそういうのに興味持つ年頃かぁ」
​嬉しそうにはしゃぐ兄の姿は、妹の成長を喜ぶ優しい家族そのものだった。
けれど、その温かい言葉を投げかけられればられるほど、海の胸の奥には冷たい(おり)のようなものが沈んでいく。なんだかひどくむず痒く、居心地が悪かった。
​海は「うん……」とだけ曖昧に返事をして、自室へと逃げるように階段を駆け上がる。
​部屋のドアを閉め、鏡の前に立つ。
鏡の中に映る自分の唇は、ほんのりとピンクベージュに彩られている。友達の手鏡越しに見たときよりも、自室の蛍光灯の下で見るそれは、ずっと鮮明に自己主張していた。
​(やっぱり、これじゃない……)
​海はそっと自分の唇を指先でなぞった。指先に、わずかにねっとりとした質感が残る。
​友達がくれたリップは、確かに可愛い。似合っていると言ってくれた兄の言葉にも嘘はないのだろう。
モヤモヤした気持ちを隠すように、海は窓辺に歩み寄り、ふと庭の隅に目を留めた。
西日に照らされて、アザミに似た黄赤色の頭花が、いくつかの棘を携えて咲いている。
「あ……紅花」
兄が仕事で使う、混じり気のない特別な紅を抽出するために、大切に育てている花だと思い出した。人工的なものとは違う、吸い込まれるような本物の赤は、この花から生まれる。
​あの日、おばあちゃんの唇にそっと引かれていた、あのどこまでも深い、神聖な赤。
それは友達から借りたバニラの香りのするピンクベージュなんかとは違う、本物の色彩だった。
​その日の夜。海の心の中で、何かがぷつりと弾けた。
深夜、家族が寝静まったのを見計らい、息を殺して兄の作業部屋へと忍び込む。
暗闇の中、微かに漂う白粉の香りを頼りに棚を探り、白い陶器に入った白粉と、深い赤を湛えた紅、そしてそれを塗るための、持ち手の滑らかな筆を持ち出した。
(お兄ちゃんがやってくれないなら、自分でやれば良いんだ)
自分の部屋に戻り、胸の鼓動を弾ませながら机に向かう。楽しみすぎて、指先が小さく震える。
​――その時だった。
​「あっ」
暗がりの部屋で、弾むように動いた足先が、床に置いてあった通学鞄のストラップに引っかかった。
バランスを崩し、派手な音を立てて転倒する。
その拍子に、抱えていた白粉箱が手から滑り落ち、畳の上に真っ白な粉が派手に飛び散ってしまった。追いかけるようにして紅の器も床に落ち、最悪なことに、暗闇の中で手探りした拍子に、大切に扱わなければならないはずの筆を、自らの足で思い切り踏みつけてしまう。
バキッ、と嫌な鈍い音が足元から聞こえた。
​「海!?どうしたんだ!」
物音に気づき、血相を変えて駆けつけてきた兄が扉を開けて目を見開く。
明かりが灯された部屋の中には、畳に広がった真っ白な粉と、転がった紅の器。そして、無残に折れた筆を前に、呆然と座り込んでいる海の姿。
​普段はめったに怒ることのない、おおらかで優しい兄。
しかしこの夜ばかりは、兄の顔から完全に温度が消えていた。
「……自分が何をしたか、分かっているのか?これは、安易に触れていい道具じゃないんだよ」
そこから一時間、海は正座をさせられたまま、兄の説教を受ける羽目になった。当然、持ち出そうとした仕事道具はすべてその場で没収されてしまった。
自分でやる計画は、無残な失敗に終わった。
すっかり不貞腐れた海は、説教の余韻でじんじんと痛む膝を抱え、布団の中に潜り込んだ。
(一回だけで良かったのに……たった一回だけ)
あーでもない、こーでもないと、暗闇の中で頭を捻る。お兄ちゃんに、どうしてもあの特別な化粧をさせる方法。自分から頼んでもダメ、自分でやるのもダメ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
重苦しい思考の渦の中で、ぽつりと、ひとつの光が浮かび上がった。
​(……あぁ。そうか。自分が化粧の対象になれば良いんだ)
​それはあまりにも単純で、あまりにも確実な方法だった。
どうしてもっと早く、この簡単な答えに気づかなかったのだろう。
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