光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第65話 扉の向こう
六月の光は、思っていたよりも柔らかかった。
式場の廊下には、白い花と淡い緑が飾られている。
磨かれた床に、窓から入る光が静かに落ちていた。
玲奈と香澄は、案内された控室へ向かっていた。
「美月、もう着替え終わってるかな」
玲奈が少し弾んだ声で言う。
「たぶんね。ドレス姿、絶対綺麗だよ」
香澄の声も、いつもより柔らかい。
「泣くかな」
「美月が?」
「うん」
香澄は少し考えた。
「泣かないようにすると思う」
「だよね」
「でも、泣いてほしい」
「分かる」
そんな話をしながら角を曲がったところで、玲奈がふと足を止めた。
「……あれ」
視線の先に、見慣れた背中があった。
黒い礼服。
式場の案内板の前で、二次会の受付表らしき紙を持っている男。
「及川」
玲奈が声をかけると、及川が振り返った。
「三浦、柏木」
「何してるの」
香澄が聞く。
「普通に参列者として来てるし、二次会の受付表を確認してる」
「迷子?」
「違う」
「迷子だね」
「違うって」
及川は軽く眉を寄せた。
病院では白衣かスクラブ姿ばかり見ていたから、礼服姿は少し新鮮だった。
ただ、本人はどこか所在なさげだった。
「挙式前から働いてる」
香澄が感心したように言った。
「なぜかね」
及川は乾いた声で答えた。
「ちょうどいいじゃん」
玲奈がにこっと笑った。
及川はその笑顔を見て、一歩下がる。
「何その顔」
「一緒に美月のところ行こう」
「は?」
及川は本気で固まった。
「いやいやいや」
「何」
「それ、俺が行っていい場所じゃないだろ」
「美月、喜ぶよ」
玲奈が悪びれずに言う。
「それはそうかもしれないけど、花嫁控室は別問題だろ」
「嫌がったらすぐ出ればいいよ」
「嫌がらなかった場合が一番まずいんだよ」
「何で?」
「藤崎先生に説明がつかないからだよ」
香澄は少し考えてから、さらりと言った。
「私たちが連れてきたことにする」
「それは事実だけど、俺が怒られるやつだろ」
玲奈と香澄は笑っている。
及川だけが笑えない。
「お前ら、俺の扱いが雑すぎる」
「今さら」
そう文句を言ったところで、二人は聞いていなかった。
結局、及川は玲奈と香澄に押し切られる形で、美月の控室の前まで連れて行かれた。
扉の前で、及川はもう一度立ち止まる。
「本当に行くの?」
「行く」
玲奈がスタッフに声をかける。
「新婦の友人です。少しだけ会えますか」
スタッフは丁寧に頷き、中へ確認してくれた。
少しして、扉が開く。
「新婦さまが、皆さまどうぞ、とおっしゃっています」
玲奈と香澄が中へ入る。
及川は、扉の外に片足を残したまま立ち止まった。
入ったら終わりだ。
そう思った。
けれど、見えてしまったものは仕方がない。
最初に目に入ったのは、白だった。
まぶしすぎず、冷たすぎず、光を含んだような白。
美月は、鏡の前に立っていた。
ドレスは、甘すぎない上品なものだった。
細い肩と首筋をきれいに見せる形で、繊細なレースが肌を柔らかく包んでいる。
スカートは大きく広がりすぎず、歩けば静かに揺れるのだろうと分かる。
ベールは薄く、髪には白い花が控えめに添えられていた。
及川は、言葉を失った。
綾瀬は、美しかった。
10Aで患者の状態を確認していた綾瀬でもない。
玲奈や香澄の前で、少しだけ気を抜いて笑う美月でもない。
藤崎先生のもとへ歩いていく、花嫁だった。
玲奈が息を呑む。
香澄も、しばらく何も言わなかった。
美月がこちらに気づく。
「玲奈、香澄」
嬉しそうに笑ったあと、視線が及川に移った。
「及川くん?」
及川は反射的に両手を上げた。
「違う。俺は連れてこられた」
玲奈が笑う。
「何が違うの」
「俺は抵抗した。ものすごく抵抗した」
「まだ何も言ってないよ」
美月は小さく笑った。
その笑顔は、少し緊張していて、でも幸せそうだった。
「来てくれてありがとう」
玲奈がすぐに近づいた。
「美月、綺麗」
香澄も隣に立つ。
「本当に綺麗」
美月は少し照れたように視線を落とした。
「ありがとう」
「泣きそう」
玲奈が言う。
「まだ早いよ」
「早いけど、もう無理」
香澄は静かに美月を見ていた。
「似合ってる。すごく」
「香澄に言われると安心する」
「美月らしいね」
「そう?」
「うん。綺麗だけど、甘すぎない。ちゃんと美月のままだと思う」
その言葉に、美月の表情が少しだけ柔らかくなった。
「お義母さまと一緒に選んだの」
玲奈が目を丸くする。
「藤崎先生のお母さまと?」
「うん」
美月は、少し照れたように頷いた。
「一緒に選んでもらった」
香澄は、その言葉の意味を少しだけ感じ取ったように頷いた。
「そっか」
及川はまだ入口付近に立っていた。
部屋の中に入り切るのもまずい気がして、半分だけ体を逃がしている。
美月がその様子を見て、少し笑った。
「及川くん、そこに立ってると不審者みたい」
「だろ? だから俺は最初から入るべきじゃないって言ったんだ」
「でも、来てくれて嬉しいよ」
美月はそう言った。
その声があまりに素直で、及川は一瞬だけ黙った。
「……おめでとう、綾瀬」
「ありがとう」
「本当に」
及川は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「綺麗だと思う」
玲奈と香澄がにやにやする。
「及川が素直」
「珍しい」
「うるさい」
美月は笑った。
その笑い方は、いつものようで、いつもとは少し違っていた。
花嫁の格好をしているから、というだけではない。
綾瀬は変わったのだ。
10Aで刺々しかった新人の頃から。
藤崎先生に出会ってから。
そして、自分で選んで、ここまで来た。
「このあと、綾瀬教授と歩くんだよな」
及川がぽつりと言った。
美月は頷く。
「うん」
「綾瀬教授にエスコートされて、綾瀬が藤崎先生のところまで歩いていくんだろ」
及川は少しだけ遠くを見る。
「絵面が強すぎる」
玲奈が吹き出した。
香澄も笑う。
美月も、思わず笑った。
「強すぎるって何」
「いや、綾瀬教授にエスコートされて、藤崎先生が待ってるんだぞ」
「及川くん」
「俺、正気で見られるかな」
「普通に見てください」
玲奈が目元を押さえながら笑った。
「分かる。参列者側も緊張するやつ」
「やめて」
香澄も笑う。
「美月、緊張ほぐれた?」
美月は少しだけ息を吐いた。
「うん。ありがとう」
玲奈が満足げに頷く。
「じゃあ、楽しみにしてるねぇ」
香澄も美月の手にそっと触れた。
「後でね」
「うん」
三人が控室を出る時、及川は最後にもう一度美月を見た。
「綾瀬」
「何?」
「転ぶなよ」
「転びません」
「緊張で早足になるなよ」
「なりません」
「藤崎先生の顔見て固まるなよ」
美月は少しだけ顔を赤くした。
「……それは分からない」
玲奈と香澄がまた笑う。
及川は肩をすくめた。
「そこは分からないのかよ」
美月は、少しだけ照れながら笑った。
「頑張る」
「うん」
及川は軽く手を上げた。
「行ってこい」
その言葉に、美月は小さく頷いた。
* * *
控室を出て、廊下を少し歩いたところで、三人は桐谷と鉢合わせた。
「お」
桐谷が及川を見る。
「及川、こんなところにいたのか」
及川は嫌な予感がした。
「桐谷先生」
「ちょうどいい。藤崎のところに行くぞ」
「え」
玲奈と香澄が顔を見合わせる。
「及川、今度は新郎側?」
「忙しいね」
及川は二人を見た。
「お前らが連れ回したんだろ」
桐谷は笑った。
「何をしてたんだ」
「……三浦と柏木に連行されてました」
「なるほど。綾瀬のところか」
及川は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、桐谷はだいたい察したらしい。
「まあ、いい。来い」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「大丈夫だ。たぶん面白いだけだ」
「俺にとっては大丈夫じゃないです」
玲奈と香澄が笑いながら手を振る。
「及川、頑張って」
「健闘を祈る」
「お前ら、ほんと覚えてろよ」
及川の抗議を背中に受けながら、桐谷は楽しそうに歩き出した。
及川は深く息を吐く。
振り回されてる。
完全に。
しかも、今度はたぶん新郎側で。
廊下の向こうから、中川がこちらを見つけて軽く手を上げた。
「及川、二次会の受付表、あとで確認な」
「今それ言う?」
「お前、全方位調整係だろ」
「その役職、誰が決めたんだよ」
中川は笑って去っていった。
及川はもう一度、深く息を吐いた。
本当に、誰も助けてくれない。
新郎控室の扉が開く。
そこにいた藤崎先生を見て、及川は思わず言葉を失った。
深い黒のタキシード。
細身のラインが、姿勢の良さを際立たせている。
白いシャツ。
控えめな光沢のあるタイ。
胸元には、小さな白い花。
病院で見る白衣姿とも、手術室で見る無駄のない姿とも違う。
それでも、藤崎先生らしかった。
静かで、品があって、隙がない。
だけど、今日はどこか柔らかい。
挙式前の緊張なのか、幸せなのか。
たぶん、その両方だ。
藤崎先生は窓際に立っていた。
外からの光が、横顔を淡く照らしている。
桐谷が笑った。
「相変わらず絵になるな」
及川は心の中で同意した。
本当に絵になる。
悔しいくらいに。
藤崎先生が振り返る。
「桐谷」
そして、及川を見る。
「及川も」
「おめでとうございます、先生」
及川は少しだけ背筋を伸ばした。
藤崎先生は穏やかに頷く。
「ありがとう」
その声も、いつもより少し柔らかかった。
桐谷が藤崎先生の肩を軽く叩いた。
「緊張してるか」
「少し」
「少しか」
「かなり、とは言わないことにしてる」
桐谷は笑った。
「そういうところが藤崎らしい」
及川は黙ってそのやり取りを聞いていた。
藤崎先生は落ち着いている。
いつものように見える。
けれど、ほんの少しだけ違う。
指先が、わずかにカフスに触れている。
視線が時計に一瞬だけ向く。
綾瀬を待っているのだと分かった。
桐谷が、ふいに思い出したように言った。
「そういえば藤崎」
「何?」
「及川、さっき綾瀬の控室の方から来たぞ」
空気が止まった。
及川は、ゆっくり桐谷を見た。
今、言った。
完全に言った。
藤崎先生の視線が、静かに及川へ向いた。
声は穏やかなままなのに、目だけが少し冷たい。
「及川」
「不可抗力です、先生!」
及川は即座に言った。
「俺は抵抗しました。本当に抵抗しました。三浦と柏木に連れて行かれただけです」
桐谷が楽しそうに笑う。
「抵抗したんだよな?」
「もちろんです!」
「結果は?」
「負けました」
「なら仕方ないな」
「仕方なくないです。先生に言わないでほしかったです」
藤崎先生は静かに言った。
「美月のドレス、見たんだ」
「……見ました」
「俺はまだ見てない」
及川は言葉に詰まった。
この式では、挙式まで藤崎先生にドレス姿を見せないことになっていた。
怜子が「その方が絶対に面白いでしょう」と言い、佳乃も微笑んで賛成したらしい。
つまり、今日が初めてのお披露目だった。
その初めてを、及川が先に見てしまった。
最悪だ。
「先生」
「うん」
「本当に不可抗力です」
「分かってるよ」
藤崎先生はそう言った。
けれど、目がまだ少しだけ怖い。
桐谷が声を出して笑った。
「よし、これは二次会案件だな」
「桐谷先生」
及川が絶望した声を出す。
「勘弁してください」
「新郎より先に花嫁を見た罪は重い」
「だから不可抗力ですって」
藤崎先生は少しだけ笑った。
その笑いが、逆に及川には怖かった。
「二次会、楽しみだね」
「先生まで」
勘弁してくれ。
及川は心の中で本気で思った。
それでも、控室の空気は温かかった。
桐谷がいて、藤崎先生がいて、及川がいて。
病院とは違う場所で、それでもどこか病院の延長のような関係性がそこにあった。
やがて、スタッフが扉をノックした。
「そろそろお時間です」
藤崎先生の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
けれど、及川には分かった。
今まで見せていた余裕の奥に、緊張がある。
綾瀬を待つ人の顔。
藤崎先生は静かに頷いた。
「分かりました」
桐谷が藤崎先生の背中を軽く叩く。
「行ってこい」
「うん」
及川も、少しだけ真面目な声で言った。
「先生」
藤崎先生が見る。
「おめでとうございます」
藤崎先生は、少しだけ目元を和らげた。
「ありがとう」
その一言を残して、藤崎先生は控室を出ていった。
* * *
挙式が始まる。
チャペルには、すでに参列者が集まっていた。
白い花。
高い天井。
正面に伸びるバージンロード。
その先に、藤崎先生が立つ。
黒のタキシード姿の藤崎先生は、静かな光の中でまっすぐ前を見ていた。
やがて、扉の向こうに気配が生まれる。
綾瀬がいる。
綾瀬教授と並んで。
父の隣に立ち、これから藤崎先生のもとへ歩いていく。
及川は席からその扉を見つめた。
綾瀬がここまで来た道を、少しだけ知っている。
10Aで刺々しかった新人の頃。
缶コーヒーを受け取らなかった日。
藤崎先生の前でだけ、少し違う顔をしたこと。
退職を決めたこと。
噂の中でも、藤崎先生が揺らがなかったこと。
その全部が、今、この扉の向こうにつながっている。
音楽が始まった。
参列者の視線が、扉へ向かう。
藤崎先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうに、白い光をまとった綾瀬がいた。
式場の廊下には、白い花と淡い緑が飾られている。
磨かれた床に、窓から入る光が静かに落ちていた。
玲奈と香澄は、案内された控室へ向かっていた。
「美月、もう着替え終わってるかな」
玲奈が少し弾んだ声で言う。
「たぶんね。ドレス姿、絶対綺麗だよ」
香澄の声も、いつもより柔らかい。
「泣くかな」
「美月が?」
「うん」
香澄は少し考えた。
「泣かないようにすると思う」
「だよね」
「でも、泣いてほしい」
「分かる」
そんな話をしながら角を曲がったところで、玲奈がふと足を止めた。
「……あれ」
視線の先に、見慣れた背中があった。
黒い礼服。
式場の案内板の前で、二次会の受付表らしき紙を持っている男。
「及川」
玲奈が声をかけると、及川が振り返った。
「三浦、柏木」
「何してるの」
香澄が聞く。
「普通に参列者として来てるし、二次会の受付表を確認してる」
「迷子?」
「違う」
「迷子だね」
「違うって」
及川は軽く眉を寄せた。
病院では白衣かスクラブ姿ばかり見ていたから、礼服姿は少し新鮮だった。
ただ、本人はどこか所在なさげだった。
「挙式前から働いてる」
香澄が感心したように言った。
「なぜかね」
及川は乾いた声で答えた。
「ちょうどいいじゃん」
玲奈がにこっと笑った。
及川はその笑顔を見て、一歩下がる。
「何その顔」
「一緒に美月のところ行こう」
「は?」
及川は本気で固まった。
「いやいやいや」
「何」
「それ、俺が行っていい場所じゃないだろ」
「美月、喜ぶよ」
玲奈が悪びれずに言う。
「それはそうかもしれないけど、花嫁控室は別問題だろ」
「嫌がったらすぐ出ればいいよ」
「嫌がらなかった場合が一番まずいんだよ」
「何で?」
「藤崎先生に説明がつかないからだよ」
香澄は少し考えてから、さらりと言った。
「私たちが連れてきたことにする」
「それは事実だけど、俺が怒られるやつだろ」
玲奈と香澄は笑っている。
及川だけが笑えない。
「お前ら、俺の扱いが雑すぎる」
「今さら」
そう文句を言ったところで、二人は聞いていなかった。
結局、及川は玲奈と香澄に押し切られる形で、美月の控室の前まで連れて行かれた。
扉の前で、及川はもう一度立ち止まる。
「本当に行くの?」
「行く」
玲奈がスタッフに声をかける。
「新婦の友人です。少しだけ会えますか」
スタッフは丁寧に頷き、中へ確認してくれた。
少しして、扉が開く。
「新婦さまが、皆さまどうぞ、とおっしゃっています」
玲奈と香澄が中へ入る。
及川は、扉の外に片足を残したまま立ち止まった。
入ったら終わりだ。
そう思った。
けれど、見えてしまったものは仕方がない。
最初に目に入ったのは、白だった。
まぶしすぎず、冷たすぎず、光を含んだような白。
美月は、鏡の前に立っていた。
ドレスは、甘すぎない上品なものだった。
細い肩と首筋をきれいに見せる形で、繊細なレースが肌を柔らかく包んでいる。
スカートは大きく広がりすぎず、歩けば静かに揺れるのだろうと分かる。
ベールは薄く、髪には白い花が控えめに添えられていた。
及川は、言葉を失った。
綾瀬は、美しかった。
10Aで患者の状態を確認していた綾瀬でもない。
玲奈や香澄の前で、少しだけ気を抜いて笑う美月でもない。
藤崎先生のもとへ歩いていく、花嫁だった。
玲奈が息を呑む。
香澄も、しばらく何も言わなかった。
美月がこちらに気づく。
「玲奈、香澄」
嬉しそうに笑ったあと、視線が及川に移った。
「及川くん?」
及川は反射的に両手を上げた。
「違う。俺は連れてこられた」
玲奈が笑う。
「何が違うの」
「俺は抵抗した。ものすごく抵抗した」
「まだ何も言ってないよ」
美月は小さく笑った。
その笑顔は、少し緊張していて、でも幸せそうだった。
「来てくれてありがとう」
玲奈がすぐに近づいた。
「美月、綺麗」
香澄も隣に立つ。
「本当に綺麗」
美月は少し照れたように視線を落とした。
「ありがとう」
「泣きそう」
玲奈が言う。
「まだ早いよ」
「早いけど、もう無理」
香澄は静かに美月を見ていた。
「似合ってる。すごく」
「香澄に言われると安心する」
「美月らしいね」
「そう?」
「うん。綺麗だけど、甘すぎない。ちゃんと美月のままだと思う」
その言葉に、美月の表情が少しだけ柔らかくなった。
「お義母さまと一緒に選んだの」
玲奈が目を丸くする。
「藤崎先生のお母さまと?」
「うん」
美月は、少し照れたように頷いた。
「一緒に選んでもらった」
香澄は、その言葉の意味を少しだけ感じ取ったように頷いた。
「そっか」
及川はまだ入口付近に立っていた。
部屋の中に入り切るのもまずい気がして、半分だけ体を逃がしている。
美月がその様子を見て、少し笑った。
「及川くん、そこに立ってると不審者みたい」
「だろ? だから俺は最初から入るべきじゃないって言ったんだ」
「でも、来てくれて嬉しいよ」
美月はそう言った。
その声があまりに素直で、及川は一瞬だけ黙った。
「……おめでとう、綾瀬」
「ありがとう」
「本当に」
及川は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「綺麗だと思う」
玲奈と香澄がにやにやする。
「及川が素直」
「珍しい」
「うるさい」
美月は笑った。
その笑い方は、いつものようで、いつもとは少し違っていた。
花嫁の格好をしているから、というだけではない。
綾瀬は変わったのだ。
10Aで刺々しかった新人の頃から。
藤崎先生に出会ってから。
そして、自分で選んで、ここまで来た。
「このあと、綾瀬教授と歩くんだよな」
及川がぽつりと言った。
美月は頷く。
「うん」
「綾瀬教授にエスコートされて、綾瀬が藤崎先生のところまで歩いていくんだろ」
及川は少しだけ遠くを見る。
「絵面が強すぎる」
玲奈が吹き出した。
香澄も笑う。
美月も、思わず笑った。
「強すぎるって何」
「いや、綾瀬教授にエスコートされて、藤崎先生が待ってるんだぞ」
「及川くん」
「俺、正気で見られるかな」
「普通に見てください」
玲奈が目元を押さえながら笑った。
「分かる。参列者側も緊張するやつ」
「やめて」
香澄も笑う。
「美月、緊張ほぐれた?」
美月は少しだけ息を吐いた。
「うん。ありがとう」
玲奈が満足げに頷く。
「じゃあ、楽しみにしてるねぇ」
香澄も美月の手にそっと触れた。
「後でね」
「うん」
三人が控室を出る時、及川は最後にもう一度美月を見た。
「綾瀬」
「何?」
「転ぶなよ」
「転びません」
「緊張で早足になるなよ」
「なりません」
「藤崎先生の顔見て固まるなよ」
美月は少しだけ顔を赤くした。
「……それは分からない」
玲奈と香澄がまた笑う。
及川は肩をすくめた。
「そこは分からないのかよ」
美月は、少しだけ照れながら笑った。
「頑張る」
「うん」
及川は軽く手を上げた。
「行ってこい」
その言葉に、美月は小さく頷いた。
* * *
控室を出て、廊下を少し歩いたところで、三人は桐谷と鉢合わせた。
「お」
桐谷が及川を見る。
「及川、こんなところにいたのか」
及川は嫌な予感がした。
「桐谷先生」
「ちょうどいい。藤崎のところに行くぞ」
「え」
玲奈と香澄が顔を見合わせる。
「及川、今度は新郎側?」
「忙しいね」
及川は二人を見た。
「お前らが連れ回したんだろ」
桐谷は笑った。
「何をしてたんだ」
「……三浦と柏木に連行されてました」
「なるほど。綾瀬のところか」
及川は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、桐谷はだいたい察したらしい。
「まあ、いい。来い」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「大丈夫だ。たぶん面白いだけだ」
「俺にとっては大丈夫じゃないです」
玲奈と香澄が笑いながら手を振る。
「及川、頑張って」
「健闘を祈る」
「お前ら、ほんと覚えてろよ」
及川の抗議を背中に受けながら、桐谷は楽しそうに歩き出した。
及川は深く息を吐く。
振り回されてる。
完全に。
しかも、今度はたぶん新郎側で。
廊下の向こうから、中川がこちらを見つけて軽く手を上げた。
「及川、二次会の受付表、あとで確認な」
「今それ言う?」
「お前、全方位調整係だろ」
「その役職、誰が決めたんだよ」
中川は笑って去っていった。
及川はもう一度、深く息を吐いた。
本当に、誰も助けてくれない。
新郎控室の扉が開く。
そこにいた藤崎先生を見て、及川は思わず言葉を失った。
深い黒のタキシード。
細身のラインが、姿勢の良さを際立たせている。
白いシャツ。
控えめな光沢のあるタイ。
胸元には、小さな白い花。
病院で見る白衣姿とも、手術室で見る無駄のない姿とも違う。
それでも、藤崎先生らしかった。
静かで、品があって、隙がない。
だけど、今日はどこか柔らかい。
挙式前の緊張なのか、幸せなのか。
たぶん、その両方だ。
藤崎先生は窓際に立っていた。
外からの光が、横顔を淡く照らしている。
桐谷が笑った。
「相変わらず絵になるな」
及川は心の中で同意した。
本当に絵になる。
悔しいくらいに。
藤崎先生が振り返る。
「桐谷」
そして、及川を見る。
「及川も」
「おめでとうございます、先生」
及川は少しだけ背筋を伸ばした。
藤崎先生は穏やかに頷く。
「ありがとう」
その声も、いつもより少し柔らかかった。
桐谷が藤崎先生の肩を軽く叩いた。
「緊張してるか」
「少し」
「少しか」
「かなり、とは言わないことにしてる」
桐谷は笑った。
「そういうところが藤崎らしい」
及川は黙ってそのやり取りを聞いていた。
藤崎先生は落ち着いている。
いつものように見える。
けれど、ほんの少しだけ違う。
指先が、わずかにカフスに触れている。
視線が時計に一瞬だけ向く。
綾瀬を待っているのだと分かった。
桐谷が、ふいに思い出したように言った。
「そういえば藤崎」
「何?」
「及川、さっき綾瀬の控室の方から来たぞ」
空気が止まった。
及川は、ゆっくり桐谷を見た。
今、言った。
完全に言った。
藤崎先生の視線が、静かに及川へ向いた。
声は穏やかなままなのに、目だけが少し冷たい。
「及川」
「不可抗力です、先生!」
及川は即座に言った。
「俺は抵抗しました。本当に抵抗しました。三浦と柏木に連れて行かれただけです」
桐谷が楽しそうに笑う。
「抵抗したんだよな?」
「もちろんです!」
「結果は?」
「負けました」
「なら仕方ないな」
「仕方なくないです。先生に言わないでほしかったです」
藤崎先生は静かに言った。
「美月のドレス、見たんだ」
「……見ました」
「俺はまだ見てない」
及川は言葉に詰まった。
この式では、挙式まで藤崎先生にドレス姿を見せないことになっていた。
怜子が「その方が絶対に面白いでしょう」と言い、佳乃も微笑んで賛成したらしい。
つまり、今日が初めてのお披露目だった。
その初めてを、及川が先に見てしまった。
最悪だ。
「先生」
「うん」
「本当に不可抗力です」
「分かってるよ」
藤崎先生はそう言った。
けれど、目がまだ少しだけ怖い。
桐谷が声を出して笑った。
「よし、これは二次会案件だな」
「桐谷先生」
及川が絶望した声を出す。
「勘弁してください」
「新郎より先に花嫁を見た罪は重い」
「だから不可抗力ですって」
藤崎先生は少しだけ笑った。
その笑いが、逆に及川には怖かった。
「二次会、楽しみだね」
「先生まで」
勘弁してくれ。
及川は心の中で本気で思った。
それでも、控室の空気は温かかった。
桐谷がいて、藤崎先生がいて、及川がいて。
病院とは違う場所で、それでもどこか病院の延長のような関係性がそこにあった。
やがて、スタッフが扉をノックした。
「そろそろお時間です」
藤崎先生の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
けれど、及川には分かった。
今まで見せていた余裕の奥に、緊張がある。
綾瀬を待つ人の顔。
藤崎先生は静かに頷いた。
「分かりました」
桐谷が藤崎先生の背中を軽く叩く。
「行ってこい」
「うん」
及川も、少しだけ真面目な声で言った。
「先生」
藤崎先生が見る。
「おめでとうございます」
藤崎先生は、少しだけ目元を和らげた。
「ありがとう」
その一言を残して、藤崎先生は控室を出ていった。
* * *
挙式が始まる。
チャペルには、すでに参列者が集まっていた。
白い花。
高い天井。
正面に伸びるバージンロード。
その先に、藤崎先生が立つ。
黒のタキシード姿の藤崎先生は、静かな光の中でまっすぐ前を見ていた。
やがて、扉の向こうに気配が生まれる。
綾瀬がいる。
綾瀬教授と並んで。
父の隣に立ち、これから藤崎先生のもとへ歩いていく。
及川は席からその扉を見つめた。
綾瀬がここまで来た道を、少しだけ知っている。
10Aで刺々しかった新人の頃。
缶コーヒーを受け取らなかった日。
藤崎先生の前でだけ、少し違う顔をしたこと。
退職を決めたこと。
噂の中でも、藤崎先生が揺らがなかったこと。
その全部が、今、この扉の向こうにつながっている。
音楽が始まった。
参列者の視線が、扉へ向かう。
藤崎先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうに、白い光をまとった綾瀬がいた。