光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
光の余韻 ―新郎より先に見た罪―
二次会の受付に立ちながら、及川蒼真は心の中で何度目か分からないため息をついた。
なぜ、自分がここにいるのか。
いや、理由は分かっている。
分かっているからこそ、納得できない。
そもそも、披露宴の時点でだいぶ疲れていた。
及川は医師側の席に座っていた。
周りは当然、藤崎先生の関係者ばかりだ。
外科の先生たち。
大学の先生たち。
名前だけは知っている偉い先生たち。
新郎側の若手枠として座っているだけなのに、妙に背筋が伸びた。
しかも、披露宴の間には何人もの先生方に挨拶をすることになった。
「及川先生だよね。藤崎から聞いているよ」
そう言われるたびに、及川は笑顔を作り、頭を下げた。
藤崎先生から聞いている。
その一言はありがたい。
ありがたいが、重い。
さらに、あの綾瀬教授にも挨拶をした。
自分の大学の教授ではない。
勤務先も違う。
それでも、消化器外科、とくに肝胆膵の世界では、名前を知らない者はいない人だった。
学会場で遠目に見かけるだけでも、自然と背筋が伸びるような人。
その人が今日は、新婦の父親としてそこにいた。
「君が及川先生か」
声をかけられた瞬間、及川は反射的に背筋を伸ばした。
「はい。及川蒼真です」
「肝胆膵班を選んだと、理久くんから聞いているよ」
心臓が変な音を立てた。
理久くん。
藤崎先生をそう呼ぶ人を、及川はまだうまく処理できない。
「はい」
「直属の後輩で、理久くんが随分目をかけているようだね」
「いえ、そんな」
「美月からも話は聞いている」
その一言で、及川はもう一段階緊張した。
綾瀬からも。
藤崎先生からも。
この人に、自分の名前が届いている。
それはたぶん、ものすごくありがたいことなのだ。
肝胆膵を選んだ若手外科医として、これ以上ないくらいの顔繋ぎなのだろう。
分かる。
分かるが、重い。
盤面に置かれた。
そんな気がした。
「今後、学会などで会うこともあるだろう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「頑張りなさい」
短い言葉だった。
けれど、及川には十分すぎた。
深々と頭を下げながら、思った。
疲れる。
ものすごく疲れる。
その後、二次会から合流した中川にその話をすると、中川はあっさり言った。
「最高じゃん」
「何が」
「顔繋ぎになるだろ。偉い先生方にも挨拶できて、綾瀬教授にも覚えてもらえるかもしれない。肝胆膵に行くなら、普通にすごいことだぞ」
「お前、他人事だと思って」
「他人事だからな」
中川は悪びれなかった。
「でも実際、ありがたい席だろ」
「それ、綾瀬にも、うちの奥さんにも言われた」
「お前んとこ、奥さんかなり強いもんな」
「はは……怒られるぞ」
及川は乾いた笑いを漏らした。
その話は、また別の機会にするとして。
とにかく、披露宴の時点で及川は十分に働いた気分になっていた。
それなのに、二次会では幹事である。
新婦側は三浦と柏木。
新郎側は中川と及川。
そこまでは、まだ分かる。
同じ医局の若手として、声がかかること自体は不自然ではない。
問題は、その先だった。
「藤崎先生側も分かるし、美月側も分かるし、病院の空気も分かるじゃん」
三浦はそう言った。
「及川先生が一番ちょうどいいよね」
柏木も、あっさり頷いた。
ちょうどいい。
その言葉ほど、便利に人を働かせるものはない。
中川は中川で、笑いながら肩を叩いてきた。
「まあ、及川がいると助かるのは事実だしな」
「お前も幹事だろ」
「俺は医師側の連絡係。及川は全方位調整係」
「役職を勝手に増やすな」
そう文句を言ったところで、誰も聞いてくれなかった。
結局、及川は受付表を持ち、会費を確認し、遅れてくる参加者に連絡を入れ、景品の置き場まで確認している。
幹事ではある。
それは分かっている。
けれど、どう考えても担当範囲が広い。
受付係なのか、連絡係なのか、荷物係なのか、調整係なのか。
自分でもよく分からなくなってきた。
「及川」
受付横から中川が声をかけてくる。
「外科の先生方、何人か来たぞ」
「分かった」
及川は受付表に視線を落とした。
藤崎先生の外科同期。
今は外病院や関連病院で働いている人が多いらしい。
受付に来た彼らは、穏やかに笑いながら会費を出し、藤崎先生の名前を口にした。
「藤崎、ついに結婚か」
「留学前に全部決めたんだな」
「相変わらず隙がないな」
祝福していないわけではない。
むしろ、ちゃんと祝っている。
けれど、及川には少しだけ分かる。
その声の奥に、単純な親しさだけではないものが混じっていることが。
藤崎先生は、若いうちから名前が出ていた人だ。
大学へ呼び戻され、肝胆膵で頭角を現し、留学まで決まっている。
一目置かれている。
一目置かれている、というのは、ただ尊敬されているという意味だけではない。
比べられる、ということでもある。
先に行った人。
選ばれた人。
追いかける側から見れば、まぶしくて、少し苦い人。
藤崎先生は、そういう目にもきっと慣れている。
あの人は、平気な顔をする。
けれど、何も感じていないわけではない。
それを及川は、少しだけ知っていた。
受付をしながら会場の方へ視線を向けると、別の一角では桐谷先生を中心に会話が弾んでいた。
藤崎先生の大学時代の同期らしい。
診療科はばらばらだった。
内科。
麻酔科。
放射線科。
救急。
同じ大学で同じ時間を過ごして、それぞれ別の場所へ進んだ人たち。
その中で、桐谷先生はやけに自然に中心にいた。
笑って、相手の肩を叩いて、誰かを呼び寄せて、また輪を広げていく。
たぶん、学生時代からそういう人だったのだろう。
人を笑わせて、巻き込んで、距離を詰める。
藤崎先生みたいな人の隣に、当たり前の顔で立っていられる人。
大学時代の藤崎先生は、どんな人だったのだろう。
今ほど完成された王子ではなかったかもしれない。
けれど、きっと目立っていた。
整っていて、頭がよくて、少し尖っていて、簡単には近づけない。
それでも、飲み会に来て、くだらない話をして、たぶん笑っていた。
その輪の中心には、きっと桐谷先生がいたのだと思う。
さらにその近くには、もっと昔からの友人らしい人たちもいた。
桐谷先生とは小さい頃からの付き合いだと、誰かが披露宴で話していた気がする。
その旧友たちは、明らかに育ちが良さそうだった。
私大医学部出身の医師たち。
そんな言葉が浮かぶくらい、身につけているものも、立ち方も、話し方も自然に整っている。
しかも、そこでもやはり桐谷先生が中心にいた。
あの人、いったいどこまで人を巻き込んできたんだ。
及川は少しだけ呆れる。
その一方で、納得もしていた。
藤崎先生が一人で王子として浮かずに、ちゃんと人の輪の中にいたのだとしたら。
そこには、たぶん桐谷先生がいたのだ。
* * *
綾瀬側は、雰囲気が少し違っていた。
10Aから来ている看護師たちは、及川も知っている顔が多い。
普段はナースステーションでてきぱき動いている人たちが、今日は華やかな服で受付を通っていく。
病棟で見る顔とは違う。
けれど、笑い方や距離感は見慣れていた。
三浦と柏木も、受付の内側と会場側を行き来しながら、忙しく動いている。
三浦は場を明るくし、柏木は会計と進行表を確認しながら全体を見ている。
この二人は、本当に強い。
及川はあらためて思った。
大学時代の友人らしき人たちもいた。
綾瀬は他大出身だから、元いた大学や、そこからつながった看護師仲間なのかもしれない。
そして、もう一つ。
幼い頃からの友人らしい女性たちがいた。
言葉遣いがきれいで、笑い方が派手すぎない。
けれど、綾瀬の名前が出た時の表情は遠慮なく近い。
披露宴で初めて知ったが、綾瀬はお嬢様学校を出ているらしい。
なるほど、と思った。
綾瀬教授の一人娘。
大切に育てられてきた人。
そう言われれば、確かにそうなのだろう。
藤崎先生は、育ちのいい医師。
綾瀬は、教授の一人娘で、お嬢様学校出身。
そう並べると、最初から似た者同士だったようにも見える。
お坊ちゃんとお嬢様の結婚。
言葉にしてしまえば、きれいに収まりすぎるくらいだ。
でも、たぶん違う。
似ているのは、育ちの良さだけじゃない。
二人とも、ずっと見られてきた人なのだ。
藤崎先生は、藤崎の家の人間として。
優秀な医学生として。
若手有望株の外科医として。
綾瀬は、綾瀬教授の娘として。
失敗してはいけない人として。
誰かの期待や評価の中で、ずっと立ってきた人たち。
だからこそ、あの二人は互いを見る時だけ、少し違う顔をするのかもしれない。
そう思ったところで、及川は受付表に視線を戻した。
まだ、二次会は始まっていない。
新郎新婦が入場するまで、もう少しある。
それなのに、すでに疲れている。
本当に、今日は長い。
* * *
二次会が始まると、会場の空気は一気に華やいだ。
新郎新婦が入場し、乾杯が終わる頃には、受付周りもようやく落ち着いていた。
三浦は新婦側の友人たちと綾瀬の写真を撮り、柏木は進行表を確認しながら全体を見ている。
中川は医師側の参加者に声をかけ、及川は受付横で景品の数を確認していた。
会場の奥で、新郎新婦が並んで座っている。
藤崎先生は完璧な新郎だった。
誰が挨拶に来ても、穏やかに笑い、礼を言い、隙なく場を受け止めている。
けれど、綾瀬が隣で何か言うたびに、表情が少し変わる。
ほんの少しだけ。
周りには分からないくらい。
でも、及川には分かってしまう。
あの顔は、病院では見ない。
少なくとも、あの人が誰にでも見せる顔ではない。
綾瀬も同じだった。
披露宴の時より少し肩の力が抜けていて、藤崎先生の隣でちゃんと笑っている。
ああ。
よかったな。
そう思った。
ようやく少し落ち着いた。
そう思った、その時だった。
「及川」
背後から声をかけられ、嫌な予感しかしなかった。
振り返ると、桐谷先生がいた。
にこにこと笑っている。
つまり、ろくなことではない。
「桐谷先生」
「ちょっと来い」
「無理です。俺、幹事です」
「知ってる」
「じゃあ、なおさら無理です」
隣で、同じ医局の同期である相澤が、すっと手を上げた。
「桐谷先生。俺、幹事代行やります」
及川は相澤を見た。
「相澤。どっちの味方だよ」
相澤はにこっと笑った。
「そりゃ、藤崎先生の味方だろ」
「最悪だ」
「景品確認と残りの受付だろ。俺、できる」
「できるのが余計に腹立つ」
「任せろ」
相澤は軽い調子で受付表を受け取った。
中川も横から笑っている。
「及川、行ってこい」
「中川、お前まで」
「幹事の仕事はこっちで回しとく」
「俺を売るな」
「売ってない。送り出してる」
桐谷先生が満足そうに頷いた。
「相澤、ナイス」
「ありがとうございます」
「ほら、藤崎のところに行くぞ」
「俺、今から何されるんですか」
「事情聴取」
「絶対、面白がってるだけですよね」
「もちろん」
「認めないでください」
及川の抗議は、やはり誰にも聞いてもらえなかった。
新郎新婦の席まで連れて行かれると、藤崎先生は綾瀬の隣で穏やかに笑っていた。
完璧な新郎の顔だった。
ただし、及川を見るまでは。
桐谷先生が楽しそうに言う。
「藤崎、連れてきたぞ」
藤崎先生が及川を見る。
「ありがとう」
「いや、何の引き渡しですか」
「参考人の」
「罪人じゃないんですか」
「まだ事情聴取前だから」
「嫌な制度ですね」
綾瀬が不思議そうに首を傾げた。
「事情聴取?」
藤崎先生は静かに微笑んだ。
「新郎より先に花嫁姿を見た件について」
「だから、不可抗力ですって」
及川は即座に言った。
「三浦と柏木に連れて行かれただけです」
藤崎先生は穏やかに頷く。
「うん。そこは分かってる」
「じゃあ」
「でも、俺より先に見たことは事実だよね」
「……事実確認が厳しい」
桐谷先生が笑う。
「外科医だからな」
「そこ、外科医関係あります?」
藤崎先生は、綺麗に微笑んでいた。
「俺も一緒にドレス選びに行きたかったし」
「先生」
「どのドレスなのかも気になっていたし」
「先生、あの」
「挙式まで楽しみにしていたんだよね」
その笑顔があまりに整っていて、及川は逆に怖くなる。
「先生」
「うん」
「その笑顔で言うと怖いです」
綾瀬が小さく吹き出した。
桐谷先生も楽しそうに笑っている。
「藤崎、相当根に持ってるな」
「根に持ってないよ」
「持ってる顔だろ」
「違うよ」
「及川、今のうちに謝っとけ」
「ずっと謝ってます」
及川は必死に言った。
「本当に不可抗力です。俺は入口で止まりました」
藤崎先生は静かに頷いた。
「でも入った」
「入らされました」
「見た」
「見えました」
「つまり見たんだね」
「言い方」
何を言っても勝てない。
及川は思わず綾瀬の方を見た。
「綾瀬」
「及川」
藤崎先生の声が、静かに割り込む。
「俺の奥さんに助けを求めないでくれる?」
会場のざわめきの中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
及川は固まった。
綾瀬も、一瞬だけ固まった。
それから、耳まで赤くなる。
「りく」
「何?」
「人前です」
「知ってる」
「知ってて言ったんですか」
「うん」
その返事があまりに自然で、及川は思わず頭を抱えたくなった。
「先生、王子キャラはどこへ」
桐谷先生が笑う。
「そもそも、王子じゃないって」
「いや、十分王子ですって」
「藤崎が王子なら、相当面倒な王子だな」
綾瀬が小さく笑った。
「面倒な王子です」
藤崎先生は否定しなかった。
ただ、綾瀬を見て、少しだけ目元を和らげた。
それを見て、及川は思った。
ああ、だめだ。
この人、綾瀬の前では本当に王子じゃない。
完璧で、隙がなくて、誰からも一目置かれていて。
それでも、綾瀬の前では少しだけ面倒で、少しだけ子どもみたいになる。
「及川くん」
綾瀬が呼んだ。
「今日はありがとう。幹事、大変だったよね」
その一言で、及川は少しだけ息を止めた。
こういうところだ。
綾瀬は、ちゃんと見ている。
自分がどれだけ慌ただしく動いていたかも。
誰がどこで支えていたかも。
きっと、全部ではないにしても、ちゃんと気づいている。
「まあ」
及川は視線を逸らした。
「大変だったけど」
「うん」
「綾瀬が楽しそうなら、いいんじゃない」
言ってから、少し照れくさくなった。
三浦と柏木が近くにいなくてよかった。
いたら絶対にからかわれていた。
藤崎先生が、少しだけ目元を細める。
「及川」
「はい」
「ありがとう」
その声は、さっきまでの静かな圧とは違っていた。
ちゃんと、礼だった。
及川は背筋を伸ばす。
「いえ」
桐谷先生がにやりと笑った。
「よし。いい話になったところで、処分を決めるか」
「何もよくないです」
「藤崎、どうする?」
藤崎先生は少し考えるような顔をした。
そして、穏やかに言った。
「景品の一番大きい袋、運んでもらおうかな」
「先生、それ地味に重いやつですよね」
「うん」
「分かってて言いましたよね」
「うん」
綾瀬が笑いを堪えきれずにいる。
桐谷先生は満足げに頷いた。
「適正な処分だな」
「適正とは」
「新郎より先に花嫁を見た罪にしては軽い」
「だから不可抗力ですって」
けれど、及川の抗議はやはり届かなかった。
結局、及川は景品の一番大きな袋を運ばされることになった。
二次会の会場には、笑い声が満ちていた。
三浦と柏木が新婦側の友人たちと写真を撮っている。
中川が相澤と受付横で何かを確認している。
外科同期たちは、どこか複雑な視線を抱えながらも笑っている。
大学時代の仲間たちは、桐谷先生を中心に楽しそうに話している。
綾瀬側の友人たちは、花嫁を囲んで嬉しそうに笑っている。
たくさんの人が、二人を見ている。
それでも今の二人は、もう見られることを怖がっているようには見えなかった。
藤崎先生は綾瀬の隣にいる。
綾瀬も、藤崎先生の隣にいる。
ちゃんと、並んで立っている。
及川は大きな景品袋を抱え直し、小さく息を吐いた。
新郎より先に花嫁姿を見た罪。
不可抗力だった。
これは絶対に譲れない。
でも、まあ。
綾瀬があんな顔で笑っているなら。
藤崎先生が、あんなふうに面倒な王子になっているなら。
今日くらいは、その罪を引き受けてもいいかもしれない。
もちろん、不可抗力だったけれど。
及川は会場の笑い声の中へ戻っていく。
その向こうで、綾瀬がまた笑っていた。
藤崎先生が、その隣で静かに目を細めている。
まあ、いいか。
及川は諦めて、景品袋を持ち直した。
今日だけは。
本当に、今日だけは。
不可抗力の罪人でいてやってもいい。
完
なぜ、自分がここにいるのか。
いや、理由は分かっている。
分かっているからこそ、納得できない。
そもそも、披露宴の時点でだいぶ疲れていた。
及川は医師側の席に座っていた。
周りは当然、藤崎先生の関係者ばかりだ。
外科の先生たち。
大学の先生たち。
名前だけは知っている偉い先生たち。
新郎側の若手枠として座っているだけなのに、妙に背筋が伸びた。
しかも、披露宴の間には何人もの先生方に挨拶をすることになった。
「及川先生だよね。藤崎から聞いているよ」
そう言われるたびに、及川は笑顔を作り、頭を下げた。
藤崎先生から聞いている。
その一言はありがたい。
ありがたいが、重い。
さらに、あの綾瀬教授にも挨拶をした。
自分の大学の教授ではない。
勤務先も違う。
それでも、消化器外科、とくに肝胆膵の世界では、名前を知らない者はいない人だった。
学会場で遠目に見かけるだけでも、自然と背筋が伸びるような人。
その人が今日は、新婦の父親としてそこにいた。
「君が及川先生か」
声をかけられた瞬間、及川は反射的に背筋を伸ばした。
「はい。及川蒼真です」
「肝胆膵班を選んだと、理久くんから聞いているよ」
心臓が変な音を立てた。
理久くん。
藤崎先生をそう呼ぶ人を、及川はまだうまく処理できない。
「はい」
「直属の後輩で、理久くんが随分目をかけているようだね」
「いえ、そんな」
「美月からも話は聞いている」
その一言で、及川はもう一段階緊張した。
綾瀬からも。
藤崎先生からも。
この人に、自分の名前が届いている。
それはたぶん、ものすごくありがたいことなのだ。
肝胆膵を選んだ若手外科医として、これ以上ないくらいの顔繋ぎなのだろう。
分かる。
分かるが、重い。
盤面に置かれた。
そんな気がした。
「今後、学会などで会うこともあるだろう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「頑張りなさい」
短い言葉だった。
けれど、及川には十分すぎた。
深々と頭を下げながら、思った。
疲れる。
ものすごく疲れる。
その後、二次会から合流した中川にその話をすると、中川はあっさり言った。
「最高じゃん」
「何が」
「顔繋ぎになるだろ。偉い先生方にも挨拶できて、綾瀬教授にも覚えてもらえるかもしれない。肝胆膵に行くなら、普通にすごいことだぞ」
「お前、他人事だと思って」
「他人事だからな」
中川は悪びれなかった。
「でも実際、ありがたい席だろ」
「それ、綾瀬にも、うちの奥さんにも言われた」
「お前んとこ、奥さんかなり強いもんな」
「はは……怒られるぞ」
及川は乾いた笑いを漏らした。
その話は、また別の機会にするとして。
とにかく、披露宴の時点で及川は十分に働いた気分になっていた。
それなのに、二次会では幹事である。
新婦側は三浦と柏木。
新郎側は中川と及川。
そこまでは、まだ分かる。
同じ医局の若手として、声がかかること自体は不自然ではない。
問題は、その先だった。
「藤崎先生側も分かるし、美月側も分かるし、病院の空気も分かるじゃん」
三浦はそう言った。
「及川先生が一番ちょうどいいよね」
柏木も、あっさり頷いた。
ちょうどいい。
その言葉ほど、便利に人を働かせるものはない。
中川は中川で、笑いながら肩を叩いてきた。
「まあ、及川がいると助かるのは事実だしな」
「お前も幹事だろ」
「俺は医師側の連絡係。及川は全方位調整係」
「役職を勝手に増やすな」
そう文句を言ったところで、誰も聞いてくれなかった。
結局、及川は受付表を持ち、会費を確認し、遅れてくる参加者に連絡を入れ、景品の置き場まで確認している。
幹事ではある。
それは分かっている。
けれど、どう考えても担当範囲が広い。
受付係なのか、連絡係なのか、荷物係なのか、調整係なのか。
自分でもよく分からなくなってきた。
「及川」
受付横から中川が声をかけてくる。
「外科の先生方、何人か来たぞ」
「分かった」
及川は受付表に視線を落とした。
藤崎先生の外科同期。
今は外病院や関連病院で働いている人が多いらしい。
受付に来た彼らは、穏やかに笑いながら会費を出し、藤崎先生の名前を口にした。
「藤崎、ついに結婚か」
「留学前に全部決めたんだな」
「相変わらず隙がないな」
祝福していないわけではない。
むしろ、ちゃんと祝っている。
けれど、及川には少しだけ分かる。
その声の奥に、単純な親しさだけではないものが混じっていることが。
藤崎先生は、若いうちから名前が出ていた人だ。
大学へ呼び戻され、肝胆膵で頭角を現し、留学まで決まっている。
一目置かれている。
一目置かれている、というのは、ただ尊敬されているという意味だけではない。
比べられる、ということでもある。
先に行った人。
選ばれた人。
追いかける側から見れば、まぶしくて、少し苦い人。
藤崎先生は、そういう目にもきっと慣れている。
あの人は、平気な顔をする。
けれど、何も感じていないわけではない。
それを及川は、少しだけ知っていた。
受付をしながら会場の方へ視線を向けると、別の一角では桐谷先生を中心に会話が弾んでいた。
藤崎先生の大学時代の同期らしい。
診療科はばらばらだった。
内科。
麻酔科。
放射線科。
救急。
同じ大学で同じ時間を過ごして、それぞれ別の場所へ進んだ人たち。
その中で、桐谷先生はやけに自然に中心にいた。
笑って、相手の肩を叩いて、誰かを呼び寄せて、また輪を広げていく。
たぶん、学生時代からそういう人だったのだろう。
人を笑わせて、巻き込んで、距離を詰める。
藤崎先生みたいな人の隣に、当たり前の顔で立っていられる人。
大学時代の藤崎先生は、どんな人だったのだろう。
今ほど完成された王子ではなかったかもしれない。
けれど、きっと目立っていた。
整っていて、頭がよくて、少し尖っていて、簡単には近づけない。
それでも、飲み会に来て、くだらない話をして、たぶん笑っていた。
その輪の中心には、きっと桐谷先生がいたのだと思う。
さらにその近くには、もっと昔からの友人らしい人たちもいた。
桐谷先生とは小さい頃からの付き合いだと、誰かが披露宴で話していた気がする。
その旧友たちは、明らかに育ちが良さそうだった。
私大医学部出身の医師たち。
そんな言葉が浮かぶくらい、身につけているものも、立ち方も、話し方も自然に整っている。
しかも、そこでもやはり桐谷先生が中心にいた。
あの人、いったいどこまで人を巻き込んできたんだ。
及川は少しだけ呆れる。
その一方で、納得もしていた。
藤崎先生が一人で王子として浮かずに、ちゃんと人の輪の中にいたのだとしたら。
そこには、たぶん桐谷先生がいたのだ。
* * *
綾瀬側は、雰囲気が少し違っていた。
10Aから来ている看護師たちは、及川も知っている顔が多い。
普段はナースステーションでてきぱき動いている人たちが、今日は華やかな服で受付を通っていく。
病棟で見る顔とは違う。
けれど、笑い方や距離感は見慣れていた。
三浦と柏木も、受付の内側と会場側を行き来しながら、忙しく動いている。
三浦は場を明るくし、柏木は会計と進行表を確認しながら全体を見ている。
この二人は、本当に強い。
及川はあらためて思った。
大学時代の友人らしき人たちもいた。
綾瀬は他大出身だから、元いた大学や、そこからつながった看護師仲間なのかもしれない。
そして、もう一つ。
幼い頃からの友人らしい女性たちがいた。
言葉遣いがきれいで、笑い方が派手すぎない。
けれど、綾瀬の名前が出た時の表情は遠慮なく近い。
披露宴で初めて知ったが、綾瀬はお嬢様学校を出ているらしい。
なるほど、と思った。
綾瀬教授の一人娘。
大切に育てられてきた人。
そう言われれば、確かにそうなのだろう。
藤崎先生は、育ちのいい医師。
綾瀬は、教授の一人娘で、お嬢様学校出身。
そう並べると、最初から似た者同士だったようにも見える。
お坊ちゃんとお嬢様の結婚。
言葉にしてしまえば、きれいに収まりすぎるくらいだ。
でも、たぶん違う。
似ているのは、育ちの良さだけじゃない。
二人とも、ずっと見られてきた人なのだ。
藤崎先生は、藤崎の家の人間として。
優秀な医学生として。
若手有望株の外科医として。
綾瀬は、綾瀬教授の娘として。
失敗してはいけない人として。
誰かの期待や評価の中で、ずっと立ってきた人たち。
だからこそ、あの二人は互いを見る時だけ、少し違う顔をするのかもしれない。
そう思ったところで、及川は受付表に視線を戻した。
まだ、二次会は始まっていない。
新郎新婦が入場するまで、もう少しある。
それなのに、すでに疲れている。
本当に、今日は長い。
* * *
二次会が始まると、会場の空気は一気に華やいだ。
新郎新婦が入場し、乾杯が終わる頃には、受付周りもようやく落ち着いていた。
三浦は新婦側の友人たちと綾瀬の写真を撮り、柏木は進行表を確認しながら全体を見ている。
中川は医師側の参加者に声をかけ、及川は受付横で景品の数を確認していた。
会場の奥で、新郎新婦が並んで座っている。
藤崎先生は完璧な新郎だった。
誰が挨拶に来ても、穏やかに笑い、礼を言い、隙なく場を受け止めている。
けれど、綾瀬が隣で何か言うたびに、表情が少し変わる。
ほんの少しだけ。
周りには分からないくらい。
でも、及川には分かってしまう。
あの顔は、病院では見ない。
少なくとも、あの人が誰にでも見せる顔ではない。
綾瀬も同じだった。
披露宴の時より少し肩の力が抜けていて、藤崎先生の隣でちゃんと笑っている。
ああ。
よかったな。
そう思った。
ようやく少し落ち着いた。
そう思った、その時だった。
「及川」
背後から声をかけられ、嫌な予感しかしなかった。
振り返ると、桐谷先生がいた。
にこにこと笑っている。
つまり、ろくなことではない。
「桐谷先生」
「ちょっと来い」
「無理です。俺、幹事です」
「知ってる」
「じゃあ、なおさら無理です」
隣で、同じ医局の同期である相澤が、すっと手を上げた。
「桐谷先生。俺、幹事代行やります」
及川は相澤を見た。
「相澤。どっちの味方だよ」
相澤はにこっと笑った。
「そりゃ、藤崎先生の味方だろ」
「最悪だ」
「景品確認と残りの受付だろ。俺、できる」
「できるのが余計に腹立つ」
「任せろ」
相澤は軽い調子で受付表を受け取った。
中川も横から笑っている。
「及川、行ってこい」
「中川、お前まで」
「幹事の仕事はこっちで回しとく」
「俺を売るな」
「売ってない。送り出してる」
桐谷先生が満足そうに頷いた。
「相澤、ナイス」
「ありがとうございます」
「ほら、藤崎のところに行くぞ」
「俺、今から何されるんですか」
「事情聴取」
「絶対、面白がってるだけですよね」
「もちろん」
「認めないでください」
及川の抗議は、やはり誰にも聞いてもらえなかった。
新郎新婦の席まで連れて行かれると、藤崎先生は綾瀬の隣で穏やかに笑っていた。
完璧な新郎の顔だった。
ただし、及川を見るまでは。
桐谷先生が楽しそうに言う。
「藤崎、連れてきたぞ」
藤崎先生が及川を見る。
「ありがとう」
「いや、何の引き渡しですか」
「参考人の」
「罪人じゃないんですか」
「まだ事情聴取前だから」
「嫌な制度ですね」
綾瀬が不思議そうに首を傾げた。
「事情聴取?」
藤崎先生は静かに微笑んだ。
「新郎より先に花嫁姿を見た件について」
「だから、不可抗力ですって」
及川は即座に言った。
「三浦と柏木に連れて行かれただけです」
藤崎先生は穏やかに頷く。
「うん。そこは分かってる」
「じゃあ」
「でも、俺より先に見たことは事実だよね」
「……事実確認が厳しい」
桐谷先生が笑う。
「外科医だからな」
「そこ、外科医関係あります?」
藤崎先生は、綺麗に微笑んでいた。
「俺も一緒にドレス選びに行きたかったし」
「先生」
「どのドレスなのかも気になっていたし」
「先生、あの」
「挙式まで楽しみにしていたんだよね」
その笑顔があまりに整っていて、及川は逆に怖くなる。
「先生」
「うん」
「その笑顔で言うと怖いです」
綾瀬が小さく吹き出した。
桐谷先生も楽しそうに笑っている。
「藤崎、相当根に持ってるな」
「根に持ってないよ」
「持ってる顔だろ」
「違うよ」
「及川、今のうちに謝っとけ」
「ずっと謝ってます」
及川は必死に言った。
「本当に不可抗力です。俺は入口で止まりました」
藤崎先生は静かに頷いた。
「でも入った」
「入らされました」
「見た」
「見えました」
「つまり見たんだね」
「言い方」
何を言っても勝てない。
及川は思わず綾瀬の方を見た。
「綾瀬」
「及川」
藤崎先生の声が、静かに割り込む。
「俺の奥さんに助けを求めないでくれる?」
会場のざわめきの中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
及川は固まった。
綾瀬も、一瞬だけ固まった。
それから、耳まで赤くなる。
「りく」
「何?」
「人前です」
「知ってる」
「知ってて言ったんですか」
「うん」
その返事があまりに自然で、及川は思わず頭を抱えたくなった。
「先生、王子キャラはどこへ」
桐谷先生が笑う。
「そもそも、王子じゃないって」
「いや、十分王子ですって」
「藤崎が王子なら、相当面倒な王子だな」
綾瀬が小さく笑った。
「面倒な王子です」
藤崎先生は否定しなかった。
ただ、綾瀬を見て、少しだけ目元を和らげた。
それを見て、及川は思った。
ああ、だめだ。
この人、綾瀬の前では本当に王子じゃない。
完璧で、隙がなくて、誰からも一目置かれていて。
それでも、綾瀬の前では少しだけ面倒で、少しだけ子どもみたいになる。
「及川くん」
綾瀬が呼んだ。
「今日はありがとう。幹事、大変だったよね」
その一言で、及川は少しだけ息を止めた。
こういうところだ。
綾瀬は、ちゃんと見ている。
自分がどれだけ慌ただしく動いていたかも。
誰がどこで支えていたかも。
きっと、全部ではないにしても、ちゃんと気づいている。
「まあ」
及川は視線を逸らした。
「大変だったけど」
「うん」
「綾瀬が楽しそうなら、いいんじゃない」
言ってから、少し照れくさくなった。
三浦と柏木が近くにいなくてよかった。
いたら絶対にからかわれていた。
藤崎先生が、少しだけ目元を細める。
「及川」
「はい」
「ありがとう」
その声は、さっきまでの静かな圧とは違っていた。
ちゃんと、礼だった。
及川は背筋を伸ばす。
「いえ」
桐谷先生がにやりと笑った。
「よし。いい話になったところで、処分を決めるか」
「何もよくないです」
「藤崎、どうする?」
藤崎先生は少し考えるような顔をした。
そして、穏やかに言った。
「景品の一番大きい袋、運んでもらおうかな」
「先生、それ地味に重いやつですよね」
「うん」
「分かってて言いましたよね」
「うん」
綾瀬が笑いを堪えきれずにいる。
桐谷先生は満足げに頷いた。
「適正な処分だな」
「適正とは」
「新郎より先に花嫁を見た罪にしては軽い」
「だから不可抗力ですって」
けれど、及川の抗議はやはり届かなかった。
結局、及川は景品の一番大きな袋を運ばされることになった。
二次会の会場には、笑い声が満ちていた。
三浦と柏木が新婦側の友人たちと写真を撮っている。
中川が相澤と受付横で何かを確認している。
外科同期たちは、どこか複雑な視線を抱えながらも笑っている。
大学時代の仲間たちは、桐谷先生を中心に楽しそうに話している。
綾瀬側の友人たちは、花嫁を囲んで嬉しそうに笑っている。
たくさんの人が、二人を見ている。
それでも今の二人は、もう見られることを怖がっているようには見えなかった。
藤崎先生は綾瀬の隣にいる。
綾瀬も、藤崎先生の隣にいる。
ちゃんと、並んで立っている。
及川は大きな景品袋を抱え直し、小さく息を吐いた。
新郎より先に花嫁姿を見た罪。
不可抗力だった。
これは絶対に譲れない。
でも、まあ。
綾瀬があんな顔で笑っているなら。
藤崎先生が、あんなふうに面倒な王子になっているなら。
今日くらいは、その罪を引き受けてもいいかもしれない。
もちろん、不可抗力だったけれど。
及川は会場の笑い声の中へ戻っていく。
その向こうで、綾瀬がまた笑っていた。
藤崎先生が、その隣で静かに目を細めている。
まあ、いいか。
及川は諦めて、景品袋を持ち直した。
今日だけは。
本当に、今日だけは。
不可抗力の罪人でいてやってもいい。
完