偽り咲く花神さまの後宮

 栗萌は眉間に皺を寄せ、その可愛らしい顔に似合わない舌打ちを漏らした。

「あなた。あっさり捕まるなんて、役立たずにもほどがありませんか? あなたももう、いりません」

 その瞬間、千夜の姿をした男の輪郭がぐにゃりと揺らぎ、かかっていた術が解けていく。張り付けられていた仮面のような顔が崩れ落ち、代わりに現れたのは、見覚えのない中年の男だった。その姿は醜悪で、腫れた顔は真実を突きつけるかのように生々しい。

「あなたがこそこそと反政府組織に探りを入れていたことは把握しております。何度もわたしの邪魔をしてきましたよね?……まるでわたしの計画を全て知っていたかのように。一体どんな手を使ったんです?」

 栗萌の目は鋭く、獲物を追い詰める獣のようだった。
 対峙する琴は、姿勢を崩さずに凛と立っている。

「わたくしの母は、予知の術を持つ巫女よ。その母が予言したの。今代花神の地位がもうすぐ危うくなるってね。わたくしは、お姉様を滅びゆく神の花嫁にはしたくなかった。後宮入りの話を飲んだのはそのためよ」

 堂々とした声音に、澄珠は思わず琴を見つめた。
 栗萌の顔が憎悪に歪み、唇をひきつらせる。

「これから世が乱れると分かっていて、わざわざ危機の渦中へ赴いたというわけですか。物好きですねえ」

 栗萌の嘲笑に、琴の眼差しが氷のように鋭くなる。

「わたくしは香霞の地に生まれた巫女。花神様の危機とあらば、自己を犠牲にしてでもすぐ傍に仕えてお支えするのが役目。巫女としての責務と、姉様のことを守るためなら、わたくしは何だってするわ。――全ての元凶であろうあなたを殺すことだってね」

 琴の指先がゆっくりと印を結び始める。
 その言葉に澄珠は耳を疑った。
 術者を殺せば、術は解ける。けれど今、花神として扱われているのは栗萌だ。彼女を殺せば、偽りの花が怒り、琴もろとも押し潰されてしまってもおかしくはない。そんなことを琴が分からぬはずがないのに。
 「やめて!」と声を張り上げようとした刹那、栗萌の甲高い笑い声が神殿の天蓋に響き渡った。

「誰を殺すって? わたしは今、花神の力が使えるのですよ」

 栗萌が指を弾くと、何もなかったはずの空間が歪み、琴の頭上に次々と光を反射する刃が出現する。瞬きの間もなく、鋭利な刃物の群れが雨のように琴へと降り注いだ。

「琴様!」

 夕映が叫んだ。すぐさま大剣を振り上げ、落ちてきた刃を次々と弾き飛ばす。
 しかし、刃は留まることを知らない。上空から次々と新たな凶器が生み出され、まるで無限の雨のように降り注いでいく。
 澄珠は恐怖と困惑に目を見開き、隣の朝風に縋るように声を発した。

「あれは……?」
「紛れもなく花神様の能力です。神格を使いこなすことができれば、空間を歪ませ、ないものをあるように見せかけたり、より広範囲で人々の認識をすり替えたりする――と言いましたよね」

 朝風の低い声は焦りを押し隠していた。
 澄珠は必死に理解しようとする。

「じゃあ、あの刃物は幻覚ということですか? であれば、当たっても効力は……」
「いいえ。そこが神力の恐ろしいところです。認識する側がそこにあると信じ続ける限り、幻覚であるはずの物体にも効力が発生する。食べ物は腹を満たせるし、湯に浸かれば体を清められる。澄珠様も、花庵で経験したのではないですか?」

 その言葉に澄珠は息を呑む。
 思い出す。千夜の創り上げた花庵で過ごした日々。温泉の湯に浸かり、縁側で休み、甘味や夕食を口にした。借りた着物を纏い、柔らかな布地の感触を確かに感じた。――あれらは全て幻覚だったのだ。それでも、澄珠自身があると信じ続けたことで、本物と同じ効力を持っていた。

 背筋がぞくりと震える。
 あの刃もまた、信じる限りは本物の刃。触れれば血が流れ、命を奪う。

 息が荒くなる。
 澄珠は咄嗟に両手で手印を結び、「〝雲隠れの術〟!」と声を張り上げた。
 途端、澄珠の術によって白い霧がどこからともなく立ちのぼり、一瞬にしてあたりを覆い隠した。
 家族が危機に瀕したことで焦りが極限まで増幅し、肩の痛みすらも忘れて必死で術を発動させることができた。
 濃密な霧は視界を奪い、そこにいた琴も夕映も、朝風も、その姿を完全に消し去る。澄珠自身もまた白の帳に溶け込み、外から認識されなくなっているだろう。見えない相手に刃を向けることは難しい。少しの目眩ましになればいいと思った。

 澄珠の頭の中で、優先順位が入れ替わる。
 千夜を助け出すことよりも先に、あの女を止めるべきだ。
 栗萌を捕らえなければ、偽りの花の脅威はさらに広がり、誰も助からない。

 歯を食いしばり、澄珠は地面を蹴った。
 走るたびに肩から血が滴り落ち、赤い跡を石畳に散らしていく。それでも足を止めなかった。

「ふふふ。下駄の音を隠せておりませんよ?」

 栗萌の声が嘲弄のように響く。霧に覆われても、澄珠の荒い息遣いと下駄の音が居場所を告げていたのだろう。
 次の瞬間、澄珠の頭上にも刃物がいくつも生み出され、きらめきながら降り注ぐ。

 これは幻覚だと自分に言い聞かせても、視覚に刻み込まれた刃の存在を意図的に否定することはほとんど不可能だった。
 迫る刃を避けるたび、頬や腕、肩を刃が掠め、鮮血が散る。しかし、痛みに体が軋んでも、澄珠は一歩も退かなかった。
 避けきれないなら受ければいいと、ただ前に進むことだけを選び続けた。

 距離を詰めてくる気配に、栗萌がわずかに顔をしかめる。
 無数の刃に晒されながらも、澄珠は少しも怯まず走り続けた。その狂気じみた執念は、栗萌にとっても予想外だったのだろう。

 血まみれの手を突き出し、澄珠はついに栗萌の首を掴んだ。
 力任せに押し倒し、そのまま喉を締め上げる。
 花神へ攻撃をすれば偽りの花が容赦しない。だが、今の自分は霧に紛れ、姿を隠している。偽りの花から姿が見えていなければ、それはきっと攻撃という判定にはならない――澄珠はそう信じて力を込めた。
 栗萌が苦しげに喉を震わせる。

「っ、あな、た、何をしているか、分かっているのですか? わたしを殺せば、術を解いた後にあなたも花にやられますよ」
「殺しはしない。でも、耐え難い苦痛を与え続ければ、術の発動に集中できなくなるでしょう。私の狙いは、そこにあるっ……」

 血で濡れた指先に、栗萌の脈動が伝わる。
 渾身の力を込めて首を締め上げていく。

 大量の血液が己の体から流れ出ていくのが分かる。

 こちらが出血多量で意識を失うのが先か、栗萌が呼吸困難で術を維持できなくなるのが先か。

 賭け、だった。


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