夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った

始まりの日



アリアドネは、大国トラキアに隣接する領地を治める辺境伯、デンゼル・ポワソンの娘として生を受けた。


国境に面する領地とはいえ、両国の関係―――特にポワソン領と―――は良好で、紛争などここ数十年間一度も起きていない。

それもその筈、先々代ポワソン辺境伯の妹はトラキアの先王の妃だ。
しかも政略結婚ではなく、視察先で偶然に出会って恋に落ちたという逸話つき。


草原で草をはむシマ牛。
畑で鍬を振るう農民。
川で水遊びをする子どもたち。
冬は雪に覆われ、夏は空を白く厚い雲がのんびりと流れていく。


そんな穏やかな空気のもとでアリアドネは生まれ、育った。


ポワソン領が物々しい雰囲気に包まれるのは、領地近くの森から魔獣が溢れ出た時くらいだろう。

領地の北端から北西に向かって大きく広がる森には魔獣が生息していた。

それが時折り森から溢れて国土に侵入する事があるのだ。

森そのものはどこの領地にも属しておらず、討伐はそれぞれの領主の判断で行われた。

魔獣が足を向けた先、その地域を治める領主が都度対応するのだ。

けれど、王国騎士団長を務めるデンゼルは、魔獣侵攻が発生すれば、たとえ自領外だとしても民の為に自主的に討伐に赴いていた。
彼は徳と義に厚い人だった。

そんなデンゼルに対する辺境地の、そして近隣領地からの信頼は厚く、王都での名声も高く。

また彼の王家に対する忠義も強かった。


故に、あの時に彼が下した決定は必然だったのかもしれない。

王国の内乱を防ぐ為に、彼が娘を国に差し出すと決めたのは。





―――それは、デンゼルの娘アリアドネが8歳の時だった。

国王夫妻が地方視察の公務から戻る途中、事故に遭い命を落とすという悲劇が起きた。

残されたのは、城にいた12歳と4歳の王子ふたりのみ。


王座に就くに12歳では若すぎると、一部の貴族たちが騒ぎ始め、幽閉中の王弟を担ぎ出そうとした。
当然それに反発する勢力も現れ、このままでは国内が二分されると危ぶまれた時、デンゼルは自身の娘アリアドネを第一王子の婚約者として差し出し、彼の後ろ盾となる事を宣言した。
それに宰相が支持を表明して、ようやく事態は収束したのだ。


婚約、結婚と言っても、仮初(かりそめ)のもの。

ジョーセフが16になって成人するまで後見の立場を得る為の、期間限定のものだった。


成人後にこの仮初の関係は解消され、地盤を固めた国王は自身の選ぶ妃を娶る、そういう提案だった。


こうして、わずか12歳の少年王、ジョーセフが誕生した。


この時、アリアドネは8歳。

幼く、純粋で。

無垢で、賢く、優しい少女だった。


「私の為にすまぬな。4年後、私が成人した時には、そなたの希望を最大限に叶えると約束する。それまで仮初の夫婦ではあるが、私の王としての治世の支えとなってほしい」


仮初の婚姻証明書にサインをした時―――アリアドネが初めてジョーセフと対面した時―――彼は遠慮がちにそう言うと、寂しげに笑った。


両親を亡くしたばかりだというのに、ジョーセフは涙を流す時すら与えられず、重責の伴う王冠をひと月後に頭上に載せられた。


本当はアリアドネも不安だった。

いきなり両親から離され、王都に連れて来られ、知らない人たちばかりの王城で暮らすのだ。

しかも、今日初めて会ったばかりの新国王の、仮の王妃として。


けれど、アリアドネはジョーセフの無理に作った笑みを見て、彼を助けたいと思って。

彼を守りたいと思って。


そんな気持ちを込めて、彼の手を握った。


そう、この時アリアドネはジョーセフに恋をしたのだ。










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