夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った

兄上がお命じになりました


アーロンは馬に乗り、森の中を進んでいた。

隣に並ぶのは兄ジョーセフだ。
執務や公務は頭の中だけで、実際には部屋に篭りきりだったジョーセフにとって、実に1年ぶりの外出である。


ジョーセフの妄言動が人目につかない様に、彼が寝ている間に密かに馬車の中へと運び、夜明けすぐに森の入り口へと出発した。


今はジョーセフも起きて馬に乗っているが、どうやら彼はアリアドネと2人乗りをしているつもりらしい。
先ほどから自分の胸元辺りに視線を向けては何事かを話しかけ、ひとり相槌を打っていた。


1年経った今もジョーセフは夢の住人だ。


25歳の弟アーロンは、ジョーセフにとって今もまだ4、5歳のままで。

どう聞いても大人としているとしか思えない会話の内容も、幼子である筈のアーロンが馬にひとりで乗っている現状も、そもそも見た目からしてあり得ないのに、それはジョーセフにとっては気にならない事実の様だった。

これまでも見えない人が見えていたり、いる人をいないものとして扱ったり、側から見れば色んな矛盾点はあるものの、ジョーセフの頭の中ではどうにかして整合させているのだろう。







1年前、カレンデュラの侍女たちを含む城内の使用人たちを一部粛清した時、王城は一時的に人手不足に陥ったが、それも徐々に解消された。


今アーロンが課題としているのが隣国との関係改善だ。

クロイセフ王国の隣に位置する大国トラキア。アリアドネの死をきっかけに、関係が冷え込んだ国だ。

そしてもう一国、昨年トラキアとクロイセフ王国の間にできた小さな独立国であるポワソン公国。そう、アリアドネの父デンゼルが独立を宣言して興した国だ。


経済復興や治安回復の為にも、この2国との国交を正常化しなければいけない。

アーロンはいよいよ重い腰を上げた。

クロイセフ王国が変化したことを対外的に示す為、アーロンは遂に国王として即位することを決意したのだ。


国王ジョーセフが表に現れなくなり、王弟アーロンが国王代理として務め始めてから約1年。
ようやくの譲位となる。


実は、この3日前がアリアドネの命日だった。

今年は闇も雪もなかったことに全国民は密かに安堵し、その日1日静かに喪に服した。


そうして真実あの時の精霊王の裁きが終わったことを改めて実感したアーロンは、譲位の儀式を2週間後に控えた今日、朝早くに兄を連れて森へと出発したのだ。


―――精霊の泉がある森へと。









「王領の森に入るのは初めてだよ」

「僕もです。でもこの森だけは何故か魔獣が棲みつかないので、比較的安全に出入りできるそうですよ」

「そうなのか。だから護衛がこの人数で済むのだな。アリアドネは仰々しいのを好まないから有り難いよ」


先頭を並んで進むジョーセフとアーロンは、そんな会話を交わしながら森の中を進む。


体力が衰えているジョーセフはかなり疲れやすく、途中で何度も休憩を取らねばならなかった。

その為、明け方近くに出発したにも関わらず、普通なら半日で着く筈の道のりが、泉に到着したのは昼を一刻ほど過ぎていた。


「やあ、こんなところに泉があるぞ。なんと美しい」


ジョーセフは馬を降りると、馬上へと手を伸ばす。空想上のアリアドネが馬から降りるのを補助しているのだ。


「兄上」


背後からアーロンが声をかけた。彼は今、泉を背にして立っている。

泉の水面はどこまでも静かで、波紋ひとつ立っていない。

魔獣がいないとは聞いていたが、もしや動物や鳥もいないのだろうか。鳴き声ひとつも聞こえないのは何故だろう。


「なんだ、アーロン。ちょっと待ってくれ。今アリアドネを・・・」

「そこには誰もいませんよ。だって義姉上は・・・」


アーロンは、ここで言葉を切り、深く息を吸った。


「・・・義姉上は、この泉の底深くに沈まれたのですから」


静寂の中に響くアーロンの固い声に、ジョーセフの手が止まる。


「泉の、底・・・?」


ジョーセフはゆっくりと弟の方へ、精霊の泉の方へ振り向いた。


「はい。こちらは精霊の泉。2年前、義姉上は精霊王の裁きを求めてこの泉に身を投げたのです」


覚悟して口にした筈なのに、情けないとアーロンは唇を噛んだ。


「―――そう兄上がお命じになりました」


驚きで目を見開く兄の姿が涙でぼやけた。







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