桜雨

第十一話 昼休み

 六月の風は、窓を開けた教室をゆっくりと通り抜けていく。

 黒板には今日の日付。

 時計の針が昼を告げると同時に、教室は一気に賑やかになった。

 弁当箱を広げる音。

 椅子を引く音。

 あちこちから笑い声が聞こえてくる。

「千春、お昼食べよ。」

 萌恵が当たり前のように隣の席へやって来た。

「うん。」

 千春も鞄から弁当箱を取り出す。

 こうして誰かと昼食を囲むことにも、もう少しずつ慣れてきていた。

「もう六月やもんなぁ。」

 萌恵は窓の外を眺めながら卵焼きを口へ運ぶ。

「あと一か月もしたら夏休みやで。」

「早いね。」

 転校してきたばかりだと思っていたのに、時間は思っていたより早く流れていた。

「千春は夏休み、予定ある?」

「うーん……。」

 少し考えて首を横に振る。

「つむぎのお手伝いかな。」

「真面目やなぁ。」

 萌恵は笑う。

「一日くらい遊ぼうよ。花火とか、お祭りとか。」

 その言葉に、千春は少しだけ目を丸くした。

 誰かと夏休みの約束をするなんて、いつ以来だろう。

「……うん。」

 自然と笑みがこぼれる。

「楽しみ。」

「よっしゃ、決まり!」

 萌恵が嬉しそうに手を叩いた、その時だった。

「藤岡、ちょっと職員室まで来て。」

 廊下から先生の声が聞こえる。

「えぇー、今?」

「すぐ終わるから。」

「はーい。」

 萌恵は慌てて立ち上がり、

「千春、先食べといて!」

 そう言い残して教室を飛び出していった。

 急に静かになる。

 周りは賑やかなのに、自分の席だけ少しだけ時間がゆっくり流れているようだった。

「佐藤さん。」

 聞き慣れた声がして顔を上げる。

 和が弁当箱を片手に立っていた。

「ここ、ええ?」

「うん。」

 向かいの席へ腰を下ろす。

 二人だけで話すのは、まだ少しだけ照れくさい。

 けれど、不思議と気まずさはなかった。

 窓の外では、白い雲がゆっくり流れている。

「夏、好き?」

 和がぽつりと聞いた。

 千春は少し考える。

「……暑いのは苦手。」

「一緒や。」

 和が笑う。

 つられて千春も笑ってしまう。

「でも。」

 和は窓の外へ目を向けた。

「夕方は好きやな。」

「夕方?」

「淀川の土手。」

「風が吹いて気持ちええねん。」

「夕焼けもきれいやし。」

 その景色を思い浮かべるように話す横顔は、どこか楽しそうだった。

 千春も京阪電車の窓から見える夕暮れを思い出す。

「……私も好き。」

 小さく答える。

「電車から見る夕焼け。」

「なんか、一日が終わるって感じがして。」

 和は少し驚いたように千春を見た。

「分かる。」

 短い一言。

 それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 同じ景色を好きだと言ってくれる人がいる。

 それだけで、その景色が少し特別に思えた。

「そうや。」

 和がふと思い出したように言う。

「夏休み、写真いっぱい撮りたいねん。」

「海とか?」

「海もやし、ひまわりとか花火とか。」

「夏しか撮れへん景色ってあるやん。」

「だから毎年楽しみ。」

 好きなものを話している時の和は、いつもより少しだけ子どものような表情になる。

 千春はそんな表情を見て、小さく微笑んだ。

「桜井くん、本当に写真が好きなんだね。」

「うん。」

 照れくさそうに笑って頷く。

「たぶん、一番好き。」

 その言葉には迷いがなかった。

 その時だった。

「ただいまー!」

 萌恵が元気よく教室へ戻ってきた。

 二人を見て、にやりと笑う。

「あれ? 二人で何しゃべってたん?」

「別に。」

「なんでもない。」

 二人の声が重なる。

 一瞬だけ教室が静かになり、三人とも顔を見合わせた。

 萌恵が吹き出す。

「なにそれ。息ぴったりやん。」

 千春と和は同時に目をそらした。

 照れくさそうに笑う二人を見て、萌恵はますます楽しそうに笑う。

 窓の外では、初夏の風が校庭の木々を優しく揺らしていた。

 もうすぐ夏が来る。

 そんな予感だけが、教室いっぱいに静かに広がっていた。
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