桜雨

第一話 新しい街

 朝の光が、京阪電車の窓をやわらかく照らしていた。

 昨夜まで降っていた雨は上がり、淡い青空がゆっくりと広がっている。

 窓の外を流れる景色は、少しずつ知らない街へ変わっていった。

 桜が咲いている。

 川沿いを歩く人。

 自転車で駅へ向かう学生。

 開店準備をする商店街。

 どれも、今日も変わらない朝なのだろう。

 でも、私だけは違った。

 服のポケットへ手を入れる。

 指先がお守りに触れた。

 小さく息を吸う。

 それだけで、不思議と心が落ち着いた。

『まもなく、枚方公園前。枚方公園前です』

 車内アナウンスが静かに響く。

 私は窓の外へ目を向けた。

 ゆっくりとホームが近づいてくる。

 春の陽射しを受けた駅が、穏やかにそこにあった。

 電車が止まり、扉が開く。

 ふわりと風が吹き込む。

 どこからか桜の香りがした。

「……ここが、枚方」

 小さく呟き、ホームへ降り立つ。

 キャリーバッグの車輪が、コロコロと音を立てた。

 改札を抜けると、駅前には人の流れがあった。

 スーツ姿の会社員。

 制服姿の高校生。

 買い物袋を提げた年配の夫婦。

 誰もが当たり前のように歩いている。

 その中を、私は少しだけゆっくり歩いた。

 久しぶりの枚方市。

 だけど、不思議と息苦しさはなかった。

 駅前のロータリーを抜けると、迎えに来ていた女性がこちらへ軽く手を振った。

「千春ちゃん?」

 柔らかな笑顔だった。

「は、はい」

「おばあちゃんのお葬式ぶりやなあ。とおかったやろ?今日からよろしくな」

 少しだけ関西弁の混じる優しい声だった。

 私は頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「そんな固くならんでええよ。荷物、持とうか?」

「大丈夫です」

「そっか。ほな、一緒に帰ろか」

 "帰ろか"

 その言葉が少しだけ耳に残った。

 まだ来たばかりなのに。

 帰る場所なんて、まだないと思っていたから。

 駅から十分ほど歩くと、一軒の古い建物が見えてきた。

 木の看板には、

*──つむぎ*

 と書かれている。

 格子戸の向こうから、出汁の香りがふわりと漂ってきた。

「ここが、つむぎ」

 珠代さんが暖簾をくぐる。

「ただいまー」

 店の奥へ向かって声をかける。

 その一言が、とても自然だった。

 私は少し戸惑いながら後に続く。

 木の床は歩くたびに小さく軋み、窓からは柔らかな春の光が差し込んでいた。

「荷物は二階に運ぼか」

 珠代さんは階段を上りながら振り返る。

 二階には小さな廊下があり、その奥の部屋の襖を開けた。

「ここが千春ちゃんの部屋やで」

 六畳ほどの和室だった。

 窓際には机がひとつ。

 小さな本棚。

 押し入れ。

 決して広くはない。

 でも、きれいに掃除されていた。

 窓を開けると、春の風が静かに部屋を通り抜ける。

 その先には、大きな桜の木が見えた。

「気に入ってくれた?」

 珠代さんが少し照れくさそうに笑う。

「……はい」

 自然と、その言葉が出た。

「今日からここが、千春ちゃんの家や」

 その言葉に、私は返事ができなかった。

 "家"

 その響きが、少しだけ遠く感じたから。

「まあ、ゆっくり慣れていったらええ。お昼できたら呼ぶな?」

 そう言って部屋を出ていく。

 襖が静かに閉まる音がした。

 私はキャリーバッグを開け、制服や本を少しだけ棚へ並べる。

 知らない部屋なのに、不思議と静かだった。

 作業を終え、窓際へ腰を下ろす。

 風が吹くたび、桜の花びらがゆっくりと舞っていた。

 その景色を見つめながら、私はそっとお守りを握る。

 明日から、この街で暮らす。

 明日から、この街で笑えるだろうか。

 答えはまだ分からない。

 それでも窓の外では、桜が何も言わず春風に揺れていた。
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