【完】猶龍(ゆうりゅう)
第七部 晩年


◇第一話


 明治十二年の冬、信三の身体はこれまでの激務の蓄積によって、次第にその限界を静かに、しかし確実に示し始めていた。胸の痛みは、以前よりも頻繁にそして、より鋭く彼を襲うようになっていた。

 この冬の寒さは、信三の身体に以前よりも、はるかに重くこたえるようになっていた。かつては長崎や横浜での任務をこなし、幾度も厳しい旅路や緊迫した状況の中で体力を消耗してきた。しかし、当時はその若さゆえに身体は常に回復力を持ち続けていた。今、三十代半ばを過ぎた信三の身体は、もはやその回復力を、以前のようには保つことができなくなっていた。

 それでも、信三は幼稚園の運営を、休むことなく続けていた。日々増えていく地方からの視察や、幼児教育についての相談に彼は丁寧に一つ一つ応じ続けた。彼のもとには、この頃、既に日本各地……京都、大阪、そして、遠く九州の地からも、幼稚園設立への協力を求める手紙が、絶えず、届くようになっていた。
 信三は、その一つ一つにできる限り、丁寧な返信を書き、時には自らその土地を訪れることも、厭わなかった。

「関さん、少しお休みを取られた方がよろしいのではありませんか」

 クララは、幾度も、そう勧めた。しかし、信三は、その度に、静かに、しかし、はっきりと答えた。

「私が休んでいる間にも、この国のどこかで子どもたちは育っています。彼らのために、私にできることがまだあるのなら私はそれを続けていきたいのです」

 その言葉の奥には、これまでの人生で幾度もの拠り所の喪失、そして、ようやく見出した、この幼稚園という使命への深い、そして静かな覚悟が、込められていた。
 彼は、自らの限られた時間を痛いほど意識していた。しかし、その意識は彼を恐れや絶望へと導くのではなく、むしろ残された時間をいかにこの使命のために有効に使うべきかという切実な問いへと彼を向かわせていたのである。

 家では、はるも信三の身体の変化に次第に気づき始めていた。四十八は既に四歳になっており、まつはまだ一歳になったばかりであった。二人の子どもの世話に、日々忙しく過ごしていたはるであったが、夜、信三が静かに胸を押さえる様子を見せる度に彼女の中には言葉にできない静かな不安が募っていった。

「あなた、近頃お顔の色が優れないようです」

「大丈夫だ。少し疲れているだけだろう」

 信三は、その度にはるを、安心させるようにそう答えた。しかし、彼自身この胸の奥に感じる痛みが、単なる疲労ではないことを次第に薄く自覚し始めていたのである。




◇第二話


 この頃、信三は幼稚園で学んだ最初の年代の子どもたちが次第に成長していく姿を見守る機会にも恵まれた。かつて、船の模型を作った清太はもう小学校に通う年齢になっていた。

 この幼稚園の最初の卒園生たちの成長を見守ることは、信三にとってこれまでの日々の激務の中で最も、純粋な喜びをもたらす経験の一つであった。彼はこれらの子どもたちが幼稚園で過ごした日々の記憶をどのような形でその後の人生に活かしていくのかを深い興味を持って見守っていた。

 ある日、清太が幼稚園を久しぶりに訪れた。かつての癇癪持ちの少年は、以前よりも落ち着いた表情を見せていた。彼の身体つきも、幼稚園に通っていた頃とは大きく変わり少年らしい確かな成長の跡がはっきりと見て取れた。

「先生。僕、学校でも船の絵をたくさん描いています」

 清太がそう報告した時、信三の胸には、深い喜びが広がった。かつて、彼が丁寧に育てた種が確かに清太の中で育ち続けていることの確かな証だった。

 清太は、さらに学校での様々な出来事を信三に語った。彼が、船の絵を描くことに深い興味を持つようになったのは幼稚園での木の枝と石で船の模型を作った経験がきっかけであったという。彼は、学校では他の子と仲良くしているという。

「それは、良いことだ。お前の中にはまだ、たくさんの育つべき種があるはずだ。それを、大切に育てていくんだよ」

 清太は、大きく頷き明るい笑顔を見せて幼稚園を去っていった。その後ろ姿を見送りながら、信三はこれまでの人生のすべての痛みと、彷徨がこの一瞬の喜びのために必要な過程だったのかもしれないと、静かに感じた。

 この日、信三は清太が去った後も、しばらく園庭に一人で佇んでいた。夕暮れの光が園庭の、あの見慣れた積み木や遊具を静かに、赤く染めている。
 彼は、この光景を自分の目にしっかりと留めておきたいという強い願いを感じていた。




◇第三話


 この頃、信三が家に帰る時間は日に日に遅くなっていった。それでも、彼は寝る前のわずかな時間を、四十八とまつのために割くことを欠かさなかった。

 四十八は、既に簡単な言葉を幾つも話せるようになっていた。信三は時折、彼のために幼稚園から持ち帰った小さな積み木を床に並べて見せた。

「これで、何を作ろうか」

「船!」

 四十八は、そう言って目を輝かせた。信三は、その様子に静かに微笑んだ。
 四十八が船という言葉を真っ先に口にすることには幾つもの理由があった。信三が、家で時折、折り紙で船の形を折って見せていたこと。そして、清太というかつての幼稚園の子どもが船に深い愛着を持っていたという話を信三がはるに、幾度も語っていたことも四十八の幼い記憶のどこかに、静かに残っていたのかもしれなかった。

 まつは、まだ言葉を多くは持たなかったが信三が家に帰ると、いつも小さな両手を彼に向かって伸ばした。信三は、その小さな身体をそっと抱き上げ、しばらくあやすように揺らした。

「まつは、四十八とはまた違う性分を持っているようだ」

 信三が、はるにそう語ったことがあった。

「そうですね。四十八は、何かに興味を持つと、すぐに動き回ります。まつは、じっと周りを見つめていることが多いようです」

 その言葉を聞いた時、信三はふと自分自身の少年時代を思い出した。
 じっと、周りを見つめ何かを静かに問い続けていたあの幼い日の自分自身。まつの静かな眼差しの中に信三は自分自身の幼い頃の性分とどこか似たものを見出していたのかもしれなかった。

「もし、まつが、いつか、俺と同じように、何かに『なぜ』と、問い続けるようになったら俺は、その問いを決して封じることはしない。俺が、少年の頃に父から十分には受け止めてもらえなかったあの問いを俺はこの子には大切に育ててやりたい」

 はるは、その言葉に、静かに頷いた。

「あなたが、幼稚園で多くの子どもたちに為していることをあなたはこの家でも為そうとしているのですね」

 信三は、その言葉に深く頷いた。家庭でのささやかな時間……それらは信三にとって、幼稚園での日々の実践と決して切り離すことのできないもう一つの大切な庭であった。



◇第四話


 明治十三年の初め。信三の病は、さらにその重さを増していった。
 医師の診察によれば、心臓に深刻な負担がかかっているという。医師は信三に絶対の安静を強く勧めた。

 この診断を受けた時、信三は深い衝撃を受けた。彼は、これまで自分の身体の不調を単なる日々の激務による一時的な疲労として捉えようとしてきた。しかし、医師のこの明確な診断はその捉え方がもはや通用しないことを彼にはっきりと示すものであった。

 この診断を、信三ははるにも正直に伝えた。はるは、その知らせを聞いた時しばらく言葉を発することができなかった。

「私はこれまで、あなたの忙しい日々を支えることしか考えていませんでした。あなたの身体の限界にもっと早く気づくべきでした」

「お前のせいではない。俺自身が、この、大切な事業を、休むことを、望まなかったのだ」

 はるは、その言葉に静かに、しかし深い決意を込めて答えた。

「これからは、あなたの養生を私が、しっかりと見守ります。四十八とまつのためにも、あなたには、少しでも長く傍にいてほしいのです」

 この頃、信三はこれまで書き溜めてきた幼児教育についての考察を一冊の書物としてまとめる作業に取り組み始めた。それは、自分がこの世を去った後にもこの幼稚園という事業が確かな理念のもとに続いていくようにという静かな願いから生まれた仕事だった。

 この書物の執筆は、信三にとってこれまでの数年間にわたる幼稚園での実践それらすべてを、体系的に後の世代に伝えていくための重要な作業であった。
 病床にありながらも信三は、この執筆に深い集中力を注ぎ続けた。時に身体の痛みに耐えながらも、彼は一文一文を丁寧に書き進めていった。



 ある晩、信三は、まだ幼い四十八を病床に静かに呼び寄せた。四十八は、父の顔色が以前とは、大きく異なることに幼いながらも、何かを感じ取っているようであった。

「四十八。父は、お前に一つ伝えておきたいことがある」

 四十八は、まだ五歳になったばかりであり、父の言葉のすべての意味を理解することはできなかった。しかし、信三はそれでもこのまだ幼い息子に、自分の想いを伝えておきたいという強い願いを抑えることができなかった。

「お前の名は、四十八という。これは、遠い昔に父が、まだお前よりも幼かった頃、寺で読んだ、経文の中の大切な言葉からとったものだ。それは、すべての人を一人も取り残さずに、救おうとする大きな大きな願いのことだ」

 四十八は、その言葉をじっと聞いていた。その幼い目にはまだ、その意味を完全には理解できない、しかし何か大切なことが語られているという確かな感覚が浮かんでいるようであった。


「お前は、いつか大きくなった時、父の話す言葉の意味が分かるようになるだろう。その時、父がいなくなっていたとしてもこの名の意味を忘れないでほしい」

 この言葉を、信三は、智源がかつて少年時代の彼に語ったあの最後の「問いを持つ者は、問いに導かれる場所へ行くしかないのだ」という言葉を、静かに思い出しながら口にしていた。彼は自分がかつて、智源から受け取ったあの重く、そして温かい言葉を今度は自分自身の息子に手渡そうとしていたのである。

 四十八は、父の言葉をすべて理解したわけではなかった。しかし彼はこの夜の父の静かな、しかし確かな眼差しを後年、幾度も思い出すことになる。

「父上、お加減が悪いのですか」

 四十八が、そう幼い声で問うた時、信三は静かに微笑んだ。

「少し、疲れているだけだ。心配することはない」

 その言葉が、真実ではないことを信三自身は痛いほど分かっていた。しかし、彼はこのまだ幼い息子に、その重い真実をそのままの形で負わせることを望まなかった。彼は、はるに四十八をそっと、寝室から連れ出すよう目で伝えた。



◇ 第六話


 信三は、病床にありながらも幼稚園の未来について幾度も見舞いによくきていたクララと語り合った。彼らは、この幼稚園を単に、東京女子師範学校の附属施設としてだけでなく日本各地に幼児教育の理念を広げていく拠点としていくべきだという構想を共に、育てていった。

 この構想は、信三がこれまでの数年間、日本各地からの幼稚園設立への協力の依頼に応え続けてきた経験の中から自然に育まれてきたものであった。
 彼は、東京でのこの一つの幼稚園の成功だけでなく、この国全体に幼児教育の理念がより広く、より深く、根付いていくことを常に願っていた。
 しかし、病によってその活動が大きく制限されるようになった今、彼はその願いを自分一人の力だけでなく、クララや他の後進の教育者たちの力を借りて実現していく必要があることを痛感していた。

「私が、この世を去った後も、この構想を続けていってほしい」

 信三は、クララに頼んだ。

「私が、必ず続けます。あなたが見出した種をこれからもこの国の多くの場所に植え続けていきますわ」

 クララのその言葉は、信三にとって大きな安堵をもたらした。彼が見出した使命が彼一人の生涯で終わるものではなく、これからも続いていくのだという確信は彼の最後の日々に、静かな平穏を与えた。

「もう一つ、あなたにお願いしたいことがあります」

 信三は、そう続けた。

「私の子どもたち――四十八と、まつ――もし、彼らが、いつか幼稚園という場所に興味を持つようなことがあればその時は……あなたが、彼らを見守ってやってほしい」

 クララは、その言葉に深く頷いた。

「もちろんです。あなたのお子さんたちのことは、私にとっても、この事業の大切な続きのようなものです」

 この頃、了念からも幾度か見舞いの手紙が届いた。かつての決別から深い和解に至った二人の関係は、この最後の時期においてさらに、深く、静かなものへと変わっていった。
 了念は、信三の病状を宗門の連絡網を通じて時折、知らされていたようであった。彼の手紙には僧としての静かな祈りの言葉と共に少年時代からの深い友情の言葉が、丁寧に綴られていた。




 明治十三年三月、信三の病状はさらに重くなっていった。彼は、もはや幼稚園に足を運ぶことも難しくなっていた。
 それでも、彼の心は常にあの園舎で子どもたちが遊ぶ姿へと向けられていた。

 この頃、信三の身体は日に日にその力を失っていった。彼は、もはや長い時間起き上がっていることさえ、困難になっていた。しかし、その一方では彼の精神はこれまでのどの時期よりも明晰で、そして、静かな落ち着きを保っていた。それは、彼がこれまでの人生の中で、幾度も深い葛藤や苦しみと向き合いながらも最終的に自らの使命を見出し、それに深く納得しているという確かな内的な平安から生まれるものであった。

 ある日、クララが幼稚園の子どもたちが描いた絵を、幾枚か信三の病床に持ってきた。それは、子どもたちが信三の快復を願って描いた絵だった。それぞれの絵の中に、子どもたちの率直で温かい思いが込められていた。


「あなたが少年の頃に抱いていた『なぜ』という問いは、今、この子どもたちの絵の中に確生き続けていると思います」


 信三の最後の日々、彼の脳裏には幾度も少年時代の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。三河の松の木の下、了念との対話。母が、庭先の野草を指して語った言葉。老僧・智源の最後の言葉。

 これらの記憶は信三の意識の中でもはや、単なる、過去の出来事の記録としてではなく、彼のこれまでの生涯のすべての意味を静かにしかし確実に束ねる一つの大きな物語として、姿を現していた。
 彼は病床の中で幾度も目を閉じ、これらの記憶を丁寧に一つ一つ辿り直していった。


 この日、はるは四十八と、まだ幼いまつを信三の枕元にそっと、座らせていた。四十八は、父の様子にこれまでにない、深刻な何かを感じ取っていた。まつは、まだ状況を完全には、理解できないながらも母の手をしっかりと握っていた。

 信三は、その二人の子どもたちの顔を、しばらく見つめていた。彼の口からはもはや、多くの言葉を発する力は残されていなかった。しかし、その静かな眼差しの中には、これまでの人生のすべての想いが込められていた。

「はる。四十八とまつを頼む」

 その短い言葉を、信三は最後の力を振り絞るように、口にした。
 はるは、涙をこらえながらしっかりと頷いた。

「はい……必ず」

 明治十三年三月、関信三は東京の自宅で、はると四十八、まつ、そしてクララに見守られながら静かに、息を引き取った。享年三十七であった。
 その死は、あまりに早いものだった。

◇第七話


 信三の葬儀は東京女子師範学校の関係者、幼稚園の保母たち、そして彼が教えを受けた恩師である中村も含めて多くの人々が参列する静かで深い哀悼に満ちたものとなった。

 葬儀の中心には喪主として、はるが静かに、しかし、しっかりとした姿で立っていた。
 その傍らには、まだ状況を完全には理解できていない、四十八とまつの姿があった。
 葬儀の会場には、信三が生前に深く関わった、様々な時代の人々が、集った。東京女子師範学校の教師や、生徒たち。幼稚園の保母たち、そして、かつて、幼稚園に通った、幾人もの子どもたちの姿も、その親たちに連れられて、見られた。清太の姿も、その中にあった。彼は、これまでのどの時よりも、深刻な、しかし、しっかりとした表情で、信三の霊前に、丁寧な礼を捧げた。

 葬儀の場には、かつて信三の教育を批判した、あの新聞の記者も姿を見せていた。記者は葬儀の後、クララに語った。

「私は、かつて、この幼稚園の事業を、無駄なものだと、批判する記事を書きました。しかし、今、こうして、多くの人々が、関さんの死を悼む姿を見て、私は、自分の書いた記事が、いかに、浅い理解に基づくものであったかを、思い知らされました」

 クララは、その言葉に答える。

「関さんは、そうした批判にも、決して怒りをぶつけることはありませんでした。彼は、ただ日々の実践を丁寧に積み重ねることで答えていこうとしていたのです」

 記者は、その言葉に、深く、頭を下げた。その後、彼は、幼稚園の意義を、より丁寧に紹介する記事を改めて書き上げることになる。それは、信三が生前直接見ることのなかった、彼の死後にもたらされた一つの小さなしかし確かな変化だった。

 中村正直も、葬儀の場で、静かに、これまでの、信三との日々を、振り返っていた。中村にとって、信三との出会いは、藤田の紹介によって、偶然、もたらされたものであった。しかし、その偶然の出会いから、信三が、これほどまでに、深く、幼児教育という分野に、その生涯を捧げることになるとは、中村自身も、当初は、想像していなかった。

「あの者は、多くのものを失いながらも、決して、問い続けることを、やめなかった。その姿は、これからの日本にとって、大きな指針となるだろう」

 中村はそう語った後、はると幼い四十八とまつの前に静かに歩み寄った。

「関くんが遺したものは、この幼稚園だけではありません。あなた方、ご家族も彼がこの世に遺した確かな大切なものです」

 その言葉に、はるは静かに深く、頭を下げた。中村の、この言葉はその後、幾人かの教育関係者たちの間でも、静かに、語り継がれていくことになった。




 信三の死から十年余りの時が過ぎた頃、松野クララはすでに日本各地に広がった幾つもの幼稚園を、視察する立場にあった。
 この十年余りの間、クララは信三との病床での約束を、忠実に実践し続けてきた。彼女は、信三の遺した書物を多くの若い教育者たちに丁寧に紹介し続け、また地方に新設される幼稚園への、実践的な助言を惜しみなく与え続けてきたのである。
 この間、日本各地に幼稚園という制度は次第に確かな広がりを見せていった。当初、信三たちが東京女子師範学校で開いたこの一つの幼稚園は今、この国の様々な地域にその理念の種を、静かにしかし確実に根付かせていたのである。

 クララはこの十年余りの間、はると、四十八、まつの、その後の暮らしにも変わらぬ関心を、寄せ続けていた。
 彼女は、時折、はるの家を訪れ、子どもたちの成長を見守り続けていたのである。

 そんな中、ある地方の幼稚園を訪れた時にそこで一人の若い保母と出会った。


「私は、関信三先生の書物を読んでこの道を志すようになりました」

 その若い保母は、そうクララに語った。信三が、病床で書き溜めた幼児教育についての考察は、彼の死後、一冊の書物としてまとめられ後進の教育者たちに確実に、読み継がれていたのである。

「先生は、もうこの世にはおられませんがその考えはこうして、今も多くの人々の中に、生き続けているのですね」


 クララは、その若い保母の言葉に、静かに頷いた。

「関さんは、いつも、子どもたちの中にある種を、大切に育てることを、説いておられました。今、あなたのような、新しい世代の保母が、その種を、さらに、多くの子どもたちに、広げていってくれていること……それこそが、関さんが、本当に願っていたことなのだと、私は、思います」

 それは、彼という一人の人間の生涯を超えてこの国の多くの場所に彼が遺したものが根を張り続けていることを実感していた。


◇第八話


 了念は、信三の死後も長く三河の寺で経を読み続けた。彼は、時折、寺を訪れる村人たちに、かつての幼馴染の信三の生涯について、静かに語ることがあった。

 了念にとって、信三の死という知らせは深く複雑な悲しみをもたらすものであった。彼は、あの茶屋での決別の後に幾年もの時を経て、ようやく信三との深い理解と和解に至ることができた。しかし、その和解からそう長くない時を経て、信三がこの世を去ってしまったという事実は、了念にとって大きな避けることのできない人生の無常を、改めて実感させるものであった。

「あの者は、少年の頃から、いつも、何かを、問い続けていた。その問いが、あの者を、遠い場所へ、幾度も、連れて行った。しかし、最後に、あの者が見出したものは、この国の、多くの子どもたちのための、確かな場所だった」

 了念は、そう語る度に松の木の下で、共に過ごした日々を、静かに思い出していた。了念の中で、今も鮮明な記憶として生き続けている。


 ある年、信三の息子である四十八が父の故郷を一度、訪れたいと願って了念のもとを、訪ねてきたことがあった。
 既に、少年から青年へと成長していた四十八は了念の前に丁寧な礼を尽くした。

「私は、関四十八と申します。父・信三の幼馴染であられた、了念様のことは父から幾度も、聞いておりました」

 了念は、その青年の顔立ちの中にかつての、猶龍の面影を静かに見出していた。

「お前が、四十八か。お前の名の由来を、俺は、よく、知っている。お前の父は、俺との友情と、そして、あの、遠い、少年時代の教えとを、お前の名の中に、共に、込めたのだ」

 了念は、その後幾日か四十八を、寺に留まらせた。そして、松の木の下で少年時代の信三との様々な思い出を、丁寧に語って聞かせたのである。

 寺の裏のあの松の木は、その後も幾十年もの間、その場所に立ち続けた。村の子どもたちは、その木の下で遊び、笑い、そして時に静かに、何かを、問い続けた。
 その光景を、了念は老いた目で、幾度も静かに見守り続けたのである。





◇第九話


 四十八は成長するにつれ、父・信三が生涯をかけて築き上げた幼児教育という分野への深い関心を、自らの中に育んでいくようになった。

 彼は、父の遺した書物を幾度も読み返した。そこに記されたフレーベルの思想、そして、父自身の幼稚園での実践の記録を読む度に四十八は、自分がまだ、幼い頃に父の枕元で聞いた、あの四十八願の話の意味を、少しずつより深く理解するようになっていった。



「あなたの父は、この国に、初めて、子どもたちのための、新しい場所を、作りました。あなたが、その意志を、これからの人生で、どのように、受け継いでいくのか、私は、深い関心を持って、見守っています」


 クララがそう四十八に語った時、四十八は、静かに、しかし、確かな決意を込めて、答えた

「父が、少年時代に抱いた『なぜ』という問いを、私もこれから、自分自身の人生の中で、大切に、育てていきたいと思います。父のように、幾度も、名前を変えるような、激しい人生を、私が、そのまま、繰り返すことはないでしょう。しかし、父が、最後に見出した、あの、子どもたちのための庭を、これからも、大切に、守り、そして、広げていきたいと、私は、思っています」


 信三が生きた三十七年という歳月は、決して長いものではなかった。
 幾度もの名前の変化を、改めて振り返る時、それぞれの名前が、彼の人生の、異なる段階における、異なる種類の探求を、象徴していたことが、見えてくる。

 猶龍という名は、少年時代のまだ答えの見えない純粋な問いを、象徴していた。
 安藤劉太郎という名は、任務という外部から与えられた枠組みの中で自分自身の心と向き合い続けた青年期の葛藤を象徴していた。
 そして、関信三という名はこれまでのすべての経験を自らの意志で、一つの確かな使命へと、統合していった成熟した人間の姿を象徴していたのである。

 破邪僧としてキリスト教という目に見えぬ異国の神を排斥すべきものとして探るよう命じられた青年が最終的に、その思想の土壌から育った幼児教育の理念をこの国に根付かせる立役者となった――この生涯の逆説は単なる偶然の巡り合わせではなかった。
 それは、彼が、常に与えられた答えに安住することなく自らの経験と自らの心に忠実であり続けたことの必然の結果だったのである。
 そして、彼の遺した静かな願いの記憶をそっと、今でもこの世界に語り継いでいるのかもしれない。


                完





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