春のはざま
春はまだ遠いはずなのに、その庭だけは季節を忘れたように花が咲いていた。
紅い椿と、淡い桜。
本来なら同じ時に満開になることのない二つの花が、一つの庭で静かに揺れている。
その庭へ続く道を知る者は少ない。
月が白く霞む夜、迷った人だけがたどり着ける場所だからだ。
初めてその庭を訪れた夜、私は一人の少女に出会った。
椿の木の下で、本を読んでいた。
長い黒髪は夜に溶け、白い着物だけが月明かりを映している。
「ようこそ。」
彼女は顔を上げると、まるでずっと待っていたかのように微笑んだ。
「ここは……どこ?」
「名前はありません。でも、みんな"春のはざま"って呼んでいます。」
風が吹く。
桜の花びらが舞い上がる。
その中に混じって、一輪の椿が音もなく地面へ落ちた。
ぽとり。
静かな音だった。
「椿は、思い出を抱えたまま落ちる花なんです。」
彼女は落ちた花をそっと拾い上げた。
「だから悲しみも、約束も、そのまま地面へ届ける。」
「じゃあ、桜は?」
私が尋ねると、彼女は空を見上げた。
花びらが月明かりを受けて、雪のように輝いている。
「桜は記憶を空へ返す花。」
「人が忘れてしまった幸せな時間を、風に乗せて運んでいくんです。」
その言葉は、まるで昔から知っていた物語を思い出させるようだった。
私は何度もその庭を訪れた。
昼には決して見つからない道を、夜になるたび歩いた。
少女はいつも同じ場所で本を読み、私はその隣で花を眺めた。
季節の話。
星の話。
夢の話。
時には何も話さず、風の音だけを聞いていた。
不思議なことに、その庭では時間の流れが曖昧だった。
一夜しか過ごしていない気もすれば、何年もそこにいたような気もする。
ある夜、少女はぽつりとつぶやいた。
「もうすぐ、桜が全部散ります。」
「散ったらどうなるの?」
「私はいなくなります。」
その声は穏やかで、春の終わりを知っている人の響きだった。
私は笑って首を振る。
「また来れば会えるよ。」
けれど彼女は、小さく首を横に振った。
「私は、この庭そのものだから。」
その意味を聞き返そうとした瞬間、風が強く吹いた。
桜が夜空いっぱいへ舞い上がる。
椿が次々と地面へ落ちていく。
紅と薄紅が、月明かりの中で交わった。
翌日。
私はもう一度庭を探した。
森を歩き、昨日と同じ道をたどった。
けれど、そこには何もなかった。
あるのは古い椿の木が一本と、その隣に若い桜が一本。
花は咲いていない。
庭も、少女も、本も消えていた。
夢だったのだろうか。
そう思って立ち去ろうとしたとき、小さな音がした。
ぽとり。
足元に、一輪の椿が落ちる。
見上げると、風もないのに桜の花びらが一枚だけ空から舞い降りてきた。
紅い椿の上へ、そっと重なる。
その瞬間だけ、どこからか聞き覚えのある声がした。
「思い出は、落ちるものじゃない。」
「また咲くために、眠るだけ。」
私は空を見上げる。
月は静かに微笑み、夜風は何も答えなかった。
それでも春になるたび、私はあの森を訪れる。
椿が落ちる音と、桜が舞う光を探して。
きっと今もどこかで、季節のはざまの庭は、迷い人を待っているのだから。
紅い椿と、淡い桜。
本来なら同じ時に満開になることのない二つの花が、一つの庭で静かに揺れている。
その庭へ続く道を知る者は少ない。
月が白く霞む夜、迷った人だけがたどり着ける場所だからだ。
初めてその庭を訪れた夜、私は一人の少女に出会った。
椿の木の下で、本を読んでいた。
長い黒髪は夜に溶け、白い着物だけが月明かりを映している。
「ようこそ。」
彼女は顔を上げると、まるでずっと待っていたかのように微笑んだ。
「ここは……どこ?」
「名前はありません。でも、みんな"春のはざま"って呼んでいます。」
風が吹く。
桜の花びらが舞い上がる。
その中に混じって、一輪の椿が音もなく地面へ落ちた。
ぽとり。
静かな音だった。
「椿は、思い出を抱えたまま落ちる花なんです。」
彼女は落ちた花をそっと拾い上げた。
「だから悲しみも、約束も、そのまま地面へ届ける。」
「じゃあ、桜は?」
私が尋ねると、彼女は空を見上げた。
花びらが月明かりを受けて、雪のように輝いている。
「桜は記憶を空へ返す花。」
「人が忘れてしまった幸せな時間を、風に乗せて運んでいくんです。」
その言葉は、まるで昔から知っていた物語を思い出させるようだった。
私は何度もその庭を訪れた。
昼には決して見つからない道を、夜になるたび歩いた。
少女はいつも同じ場所で本を読み、私はその隣で花を眺めた。
季節の話。
星の話。
夢の話。
時には何も話さず、風の音だけを聞いていた。
不思議なことに、その庭では時間の流れが曖昧だった。
一夜しか過ごしていない気もすれば、何年もそこにいたような気もする。
ある夜、少女はぽつりとつぶやいた。
「もうすぐ、桜が全部散ります。」
「散ったらどうなるの?」
「私はいなくなります。」
その声は穏やかで、春の終わりを知っている人の響きだった。
私は笑って首を振る。
「また来れば会えるよ。」
けれど彼女は、小さく首を横に振った。
「私は、この庭そのものだから。」
その意味を聞き返そうとした瞬間、風が強く吹いた。
桜が夜空いっぱいへ舞い上がる。
椿が次々と地面へ落ちていく。
紅と薄紅が、月明かりの中で交わった。
翌日。
私はもう一度庭を探した。
森を歩き、昨日と同じ道をたどった。
けれど、そこには何もなかった。
あるのは古い椿の木が一本と、その隣に若い桜が一本。
花は咲いていない。
庭も、少女も、本も消えていた。
夢だったのだろうか。
そう思って立ち去ろうとしたとき、小さな音がした。
ぽとり。
足元に、一輪の椿が落ちる。
見上げると、風もないのに桜の花びらが一枚だけ空から舞い降りてきた。
紅い椿の上へ、そっと重なる。
その瞬間だけ、どこからか聞き覚えのある声がした。
「思い出は、落ちるものじゃない。」
「また咲くために、眠るだけ。」
私は空を見上げる。
月は静かに微笑み、夜風は何も答えなかった。
それでも春になるたび、私はあの森を訪れる。
椿が落ちる音と、桜が舞う光を探して。
きっと今もどこかで、季節のはざまの庭は、迷い人を待っているのだから。