喪失の夜に、あなたがいた
その瞬間、
胸の奥で何かが揺れた。

焦りでもない。
怒りでもない。

ただ──
“守りたい”という感情が、
静かに形を持ち始めた。

それはまだ言葉にならない。
行動にもならない。

ただ、楓の中で確かに芽生えた。

シャワーの音が止まり、
明莉が戻ってきた。

髪をタオルで押さえながら、
少しだけ視線を上げる。

「……今日は、早く寝ますね」

「はい。ゆっくり休んでください」

楓はいつもの距離を保ったまま、
静かに言った。

触れない。
踏み込まない。
でも、寄り添う。

それが今の楓にできる、
精一杯の形だった。

明莉が寝室に入ったあと、
楓はリビングの灯りを落とした。

暗い部屋の中で、
自分の呼吸だけが静かに響く。

(……必ず、何か方法はある)

その言葉を、
もう一度胸の奥で繰り返した。

ゆっくりと名刺ケースを開く。
薄い革の中に、
昔の知り合いの名刺が一枚だけ残っていた。

インターネットに詳しい男。
かつて仕事で助けてもらったことがある人物。

楓はその名刺を指先で軽く押さえ、
短く息を吸った。

(……頼るしかない)

静かにスマホを取り出し、
番号を入力する。

呼び出し音が、
暗い部屋に淡く響いた。

影はまだ形を持たない。
でも、確実に近づいている。

楓はその気配を、
昨日よりもはっきりと感じていた。
< 72 / 133 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop