消して、奪って、きみだけを
『昔はふつうだった。お父さんがいた頃は……。でも、りこんしてふたりで暮らすようになってから、お母さんはだんだん厳しくなって……変になった』
離婚後の彼のお父さんの消息は不明だけれど、もともと素行不良で、一緒に暮らしていた頃から両親の喧嘩が絶えなかったというようなことを彼は言っていた。
あんな男みたいにならないように、とお母さんが嫌悪や失望を滲ませていた相手は、お父さんのことだったのだといまなら分かる。
『だけど、しかたないんだ。僕がお母さんの言うことを聞かないから……』
無理やり笑おうとした彼の表情はぎこちなく、むしろ泣いているように見えた。
握った手から、震えているのが伝わってくる。
きっと、あんなことが毎日続いているんだ。
門限を破る前から。下手をしたら、出会った頃には既に。
ずっと誰にも言えないまま、ひとりで痛みを抱えながら耐え忍んできたのだろうか。
『……しかたなくない。こんなのおかしいよ』
やっぱり、服の下の見えないところには無数の痣や傷が隠れているのだと思う。
それだけじゃない。
心にも、さらには目に見える傷が残らない形でも、彼は苦しんでいるかもしれない。
『先生に言おう。大人なら何とかしてくれる』
『言わないで』
慌てたように叶人くんが制した。
『誰にも言わないで』
ゆらゆら透き通った水面みたいな瞳は不安そうなのに、その意思だけは固く感じられて戸惑った。
『どうして……』
『……僕がいい子になったら、きっと優しいお母さんに戻ってくれるはずだから』
────それは半分以上、賭けにも似た願望だったのだと思う。
そんな灯火みたいな希望に縋らなければ生きていけないほど無力で幼かった。
それでも、優しいお母さんを信じたいという本音が混ざっていることも分かっていた。
お母さんを失ったら、彼はどうなってしまうのか。
うまく想像することすらできないほど重たい現実に向き合うことが恐ろしく、その恐怖すら持て余してしまう。
だから、わたしは彼の言葉を信じるしかなかった。
『あら』
叶人くんの家の前にさしかかると、庭に出ていたお母さんが声を上げた。
『おかえり、叶人。羽衣ちゃんも』
ホースの水を止め、わたしたちに笑いかけてくる。
咲き乱れる花たちは雫をまとい、風に揺れていた。
『ただいま、お母さん……』
叶人くんは小さく答え、窺うように見上げる。
ぎゅ、とランドセルを握り締める手から臆するような不安が滲み出ていた。
そのことに気づくと、わたしはたまらずお母さんを睨めつける。
表情も声色も華やかで優しく、内側であんな氷の刃を研いでいるなんて未だに信じがたい。


