別にあなたに愛されなくても。〜死に戻った侯爵夫人は、二度と夫を愛さない〜
氷の令嬢
この国には、『氷の令嬢』と呼ばれている伯爵令嬢がいる。
名前はシャーリン・エルフィナード。
誰が話しかけてきても冷たい態度であしらい、常に人を寄せ付けないオーラを纏っている。どんな男も女も相手にしない、それがシャーリン・エルフィナードという美女だった。
____社交界では、そんな風に噂されているみたいだけれど……。
本当の私はそんな人間じゃない。ただ人よりも口下手で、かなりの人見知りなだけ。明るく笑顔で接しようとしても、顔が強張ってうまく動かないだけなのよ……。
当然こんな態度で生きてきたものだから、友人と呼べるような存在はいないし、そもそも私の年齢の令嬢は婚約か結婚をしてしまっているので、話が合うわけもない。だって私は、もう二十歳なんだもの。同い年の令嬢はとっくに結婚して、なんなら跡継ぎを産んでいる方だっていらっしゃるわ。
……行き遅れの私を両親が酷く心配しているのはわかっている。けれど、両親が紹介してくれた男性とお見合いをしても、後から絶対に相手から断りの連絡が来るのよ。
当然よね、こちらから話を振ることもなければ、受け答えだって単調。おまけにニコリとも笑わない可愛げのない女を、誰が妻にしたいと思うのかしら。
だから、私に幸せな結婚をしてほしいと願っている両親には悪いけれど……正直もう、諦めているの。それでも最低限の貴族としての役目は果たさないといけないから、どこかの高齢の貴族に頼み込んで、後妻になったりしようかしら、なんて思っている。
……いいえ、思っていたのだけれど……。
「シャーリン・エルフィナード伯爵令嬢。私と結婚してくれないだろうか」
____今日の私も、いつも通り舞踏会に参加をさせられて……いつも通り壁の花になっているだけだった。
変わらない日常。それで終わるはずだったのに。一体私の身に、何が起こっているのかしら。
「私の名はヴィクトル・クラウゼン。クラウゼン侯爵家の当主だ。美しいご令嬢、あなたに結婚を申し込みたい」
「……私の呼び名を、知らないわけではないでしょう? 『氷の令嬢』ですわよ。侯爵様なら、もっと素晴らしいお相手がいるはずですわ」
「そんなことはない、私は君に一目惚れしたんだ。それに君は氷なんかじゃない、花のように美しい」
……これは、夢かしら。
生涯誰からも愛されないと思っていた私と、結婚したいと仰る男性がいらっしゃるなんて……。
それに相手はあのクラウゼン侯爵。
……いいえ、地位や権力なんてどうでもいい。私と結婚してくださるなら。
両親も喜ぶし、なにより私の心が弾んでいるもの。
「私などでよければ、喜んであなたの妻になりますわ」
____こうして私は、差し出された男の手を取ったのだった。
***
その日の夜。私が求婚されたことを知った両親は、それはそれは喜んでくれた。
「ようやくあなたの魅力をわかってくれる人と出会えたのね」
「それもあのクラウゼン侯爵だなんて! やっぱりお前は、私たちの自慢の娘だよ」
そう言いながら涙を流す両親を見て、私は心底安心した。
よかった、求婚を受け入れるという私の判断は間違っていなかったのだわ、と。
それからはあっという間だった。
顔合わせを行い、書状を送りあい、正式に婚約を果たして……
気付けば、結婚式の当日になっていた。
「緊張なされていますか?」
控え室で侍女に問いかけられて、私はいつも通りの冷たい表情で返す。
「えぇ、少し……」
「大丈夫ですよ。クラウゼン侯爵はとてもお優しく素晴らしい方だと評判ですもの。きっと、シャーリンお嬢様のことも幸せにしてくださると思いますよ」
「そう、よね……こんな私と結婚してくれる方なんだもの」
「お嬢様ったら、またそんな風に卑下なさって……。そろそろ入場のお時間ですよ、いってらっしゃいませ」
「ありがとう、いってくるわ」
まさか私にこんな日が訪れるなんて、思ってもみなかった。
涙目の父と腕を組んで、会場に入場する。ウェディングドレスはこんなに重いのに、バージンロードを一歩ずつ歩くたび、心が軽くなる気がした。
そして、先に待ってくれていたクラウゼン侯爵……いいえ、ヴィクトル様と目が合う。彼の優しい微笑みで、心の中の氷が解けていく。
父から離れて、ヴィクトル様に腕を絡ませる。
祭壇の前に着いた私たちに、神父が問いかけた。
「汝、ヴィクトル・クラウゼンはシャーリン・エルフィナードを妻とし、神の教えに従い、死がふたりを分かつまで共に生きることを誓いますか?」
「誓おう。どんな過酷な運命が待っていようとも、私は生涯シャーリンを愛し続ける」
「汝、シャーリン・エルフィナードはヴィクトル・クラウゼンを夫とし、病めると時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛し敬い、慈しむことを誓いますか?」
「……はい、誓います」
わぁ、と会場に拍手と歓声が沸き起こる。
今から私は結婚する。
____私のことを愛してくれる男性と。
誓いのキスは、ドキドキしてあまり覚えていない。
けれどもこの瞬間、私はシャーリン・クラウゼンになった。
***
結婚してからの日々は幸せそのものだった。
美味しいご飯に親切な侍女、快適なベッドに何不自由ない生活。
実家である伯爵邸よりも大きな屋敷で、私は愛されていた。
一番大きな変化は、初対面の人間の前でも笑えるようになったことだ。
友人とまではいかなくとも、少しぎこちない会話だとしても……人と話して、コミュニケーションがとれるようになった。
ヴィクトル様や侍女の皆さんが優しくしてくれたから、私も人を愛することが少しずつできるようになったの。
両親や伯爵邸の皆以外の対して、優しく接することができるようになった。
ヴィクトル様が、私に自信をつけてくれた。
舞踏会に出れば、「自慢の妻なんです」と紹介してくれる。
気付けば、私を『氷の令嬢』と呼ぶものはいなくなっていた。
私は、『クラウゼン侯爵夫人』と呼ばれるようになったのだ。
でも、そんな日々の中で、一つだけ……不安なことがあった。
それはヴィクトル様が、私のことを抱いてくださらないこと。
それも、ただの一度も……。
結婚初夜ですらそうだった。
「君を大切にしたいから」
そんな優しい言葉をかけられて、血の痕だけを偽装して初夜をやり過ごした。
けれど、いくら月日が流れようとも、ヴィクトル様は私に手を出してくださらない。
香水をつけてみても、少し恥ずかしいランジェリーを身につけても、ヴィクトル様は「ダメだよ」と困ったように笑うだけ。
私にはそれが不満だった。
だって、私はヴィクトル様に優しくされる度……彼を愛してしまっていたから。
だから、身も心も全て捧げてしまいたかった。
彼の子供が欲しかったのだ。
社交の場で「跡継ぎの方はいかがですかな」と尋ねられても、「授かりものですから」と躱す彼のことがわからなかった。
____そして結婚式から一年経っても、とうとうヴィクトル様が私を抱いてくれることは一度もなかった。
***
それから少し経った、ある日のことだった。
「……ヴィクトル様、今、なんて……?」
いつものように、ヴィクトル様と穏やかに夕食を摂っている最中のこと。
ヴィクトル様の口から飛び出した衝撃的な言葉に、私は信じられない気持ちになった。思わずフォークを落としてしまったけれど、そんなことも気にならないくらい。
「あれ、聞き取れなかったかな? 離縁してくれ、シャーリン」
……聞き間違いじゃ、なかった。
なぜ? どうして? つい昨日だって、「君は本当に美しいね」と私を褒めてくださっていたのに。
私は震える声で問いかける。
「わ、私……なにかヴィクトル様の気に障るようなことをしてしまったでしょうか……? もし、そうでしたら……」
すると、ヴィクトル様は心底おかしそうな声で……今まで見たことがない、醜い笑みを浮かべた。
「は、はっははは……!!! 違うよ、シャーリン。私はね、そもそも君のことを最初から愛してなんかいなかったんだから」
「……何を、仰って」
「わからないのか? 君は本当に馬鹿だなぁ、シャーリン!」
____この人は、本当にヴィクトル様なの?
私を氷ではなく花だと仰ったヴィクトル様と、同一人物だっていうの……?
ヴィクトル様がガタン!と立ち上がる。そして食事用のナイフを持って、一歩一歩ゆっくりと、けれども着実に私のもとへと近づいてきた。
「まぁ、だから君……いや、お前を選んだんだけどな。この歳になると、周りがうるさくて仕方ないんだ。君だって同じだったろう?」
「……」
「つまりは利害の一致だよ。お互いに都合が良いと思ったから結婚しただけだ。友人のいない君なら、離縁したって悲しむ人もほとんどいないだろう?」
「……どういうことですか、私を、愛してくれているのではなかったのですか……?」
「馬鹿なことを言うな。私が愛しているのは昔からただ一人だけだ。そしてそれは……シャーリン、お前ではない!!」
ヴィクトル様が、私の首筋にナイフを突きつける。
もう、ヴィクトル様が何を仰っているのか、自分の身に何が起こっているのかわからなかった。
ただひとつわかることは、私はヴィクトル様に愛されてなんていなかった。初めから全部、全部全部嘘だった。
たくさんデートをしてくれたのも、愛を囁いてくれたのも、私を自慢だと仰ってくださったのも……私が、『氷の令嬢』だったから。都合がよかったから。抱いてくれなかったのは、私を愛してなんかいなかったから。
ただ、それだけだったんだわ。
「…………一つだけ、聞いてもよろしいですか」
目を瞑って、静かに私は問いかける。
「なんだ?」
「どうして、私にそのことを教えてくださったのですか?」
「簡単な話だ。お前は今から死ぬんだからな」
ヴィクトル様のその言葉を合図に、使用人たちが私を拘束した。
私はもう、逃げる気力さえ湧かなかった。
「ハッ、やはりお前はつまらない女だな、シャーリン。まぁいい、彼女と一緒になる準備が整った今……私の人生に、もうお前は必要ない」
「そのようですね」
「最期まで可愛げのない女だ。じゃあな、『氷の令嬢』」
ヴィクトル様の言葉と同時に、急激に睡魔が襲ってきた。どうやら、食事に薬を混ぜられていたらしい。
まさか私の人生、こんなところで終わるなんて。
今はただ、むなしい。
でも、もし来世があるとしたら、その時は、その時は絶対に…………
生きて生きて、生き抜いてやるわ。
ぐにゃりと世界が回る。
そして、私はゆっくりと意識を失ったのだった。
名前はシャーリン・エルフィナード。
誰が話しかけてきても冷たい態度であしらい、常に人を寄せ付けないオーラを纏っている。どんな男も女も相手にしない、それがシャーリン・エルフィナードという美女だった。
____社交界では、そんな風に噂されているみたいだけれど……。
本当の私はそんな人間じゃない。ただ人よりも口下手で、かなりの人見知りなだけ。明るく笑顔で接しようとしても、顔が強張ってうまく動かないだけなのよ……。
当然こんな態度で生きてきたものだから、友人と呼べるような存在はいないし、そもそも私の年齢の令嬢は婚約か結婚をしてしまっているので、話が合うわけもない。だって私は、もう二十歳なんだもの。同い年の令嬢はとっくに結婚して、なんなら跡継ぎを産んでいる方だっていらっしゃるわ。
……行き遅れの私を両親が酷く心配しているのはわかっている。けれど、両親が紹介してくれた男性とお見合いをしても、後から絶対に相手から断りの連絡が来るのよ。
当然よね、こちらから話を振ることもなければ、受け答えだって単調。おまけにニコリとも笑わない可愛げのない女を、誰が妻にしたいと思うのかしら。
だから、私に幸せな結婚をしてほしいと願っている両親には悪いけれど……正直もう、諦めているの。それでも最低限の貴族としての役目は果たさないといけないから、どこかの高齢の貴族に頼み込んで、後妻になったりしようかしら、なんて思っている。
……いいえ、思っていたのだけれど……。
「シャーリン・エルフィナード伯爵令嬢。私と結婚してくれないだろうか」
____今日の私も、いつも通り舞踏会に参加をさせられて……いつも通り壁の花になっているだけだった。
変わらない日常。それで終わるはずだったのに。一体私の身に、何が起こっているのかしら。
「私の名はヴィクトル・クラウゼン。クラウゼン侯爵家の当主だ。美しいご令嬢、あなたに結婚を申し込みたい」
「……私の呼び名を、知らないわけではないでしょう? 『氷の令嬢』ですわよ。侯爵様なら、もっと素晴らしいお相手がいるはずですわ」
「そんなことはない、私は君に一目惚れしたんだ。それに君は氷なんかじゃない、花のように美しい」
……これは、夢かしら。
生涯誰からも愛されないと思っていた私と、結婚したいと仰る男性がいらっしゃるなんて……。
それに相手はあのクラウゼン侯爵。
……いいえ、地位や権力なんてどうでもいい。私と結婚してくださるなら。
両親も喜ぶし、なにより私の心が弾んでいるもの。
「私などでよければ、喜んであなたの妻になりますわ」
____こうして私は、差し出された男の手を取ったのだった。
***
その日の夜。私が求婚されたことを知った両親は、それはそれは喜んでくれた。
「ようやくあなたの魅力をわかってくれる人と出会えたのね」
「それもあのクラウゼン侯爵だなんて! やっぱりお前は、私たちの自慢の娘だよ」
そう言いながら涙を流す両親を見て、私は心底安心した。
よかった、求婚を受け入れるという私の判断は間違っていなかったのだわ、と。
それからはあっという間だった。
顔合わせを行い、書状を送りあい、正式に婚約を果たして……
気付けば、結婚式の当日になっていた。
「緊張なされていますか?」
控え室で侍女に問いかけられて、私はいつも通りの冷たい表情で返す。
「えぇ、少し……」
「大丈夫ですよ。クラウゼン侯爵はとてもお優しく素晴らしい方だと評判ですもの。きっと、シャーリンお嬢様のことも幸せにしてくださると思いますよ」
「そう、よね……こんな私と結婚してくれる方なんだもの」
「お嬢様ったら、またそんな風に卑下なさって……。そろそろ入場のお時間ですよ、いってらっしゃいませ」
「ありがとう、いってくるわ」
まさか私にこんな日が訪れるなんて、思ってもみなかった。
涙目の父と腕を組んで、会場に入場する。ウェディングドレスはこんなに重いのに、バージンロードを一歩ずつ歩くたび、心が軽くなる気がした。
そして、先に待ってくれていたクラウゼン侯爵……いいえ、ヴィクトル様と目が合う。彼の優しい微笑みで、心の中の氷が解けていく。
父から離れて、ヴィクトル様に腕を絡ませる。
祭壇の前に着いた私たちに、神父が問いかけた。
「汝、ヴィクトル・クラウゼンはシャーリン・エルフィナードを妻とし、神の教えに従い、死がふたりを分かつまで共に生きることを誓いますか?」
「誓おう。どんな過酷な運命が待っていようとも、私は生涯シャーリンを愛し続ける」
「汝、シャーリン・エルフィナードはヴィクトル・クラウゼンを夫とし、病めると時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛し敬い、慈しむことを誓いますか?」
「……はい、誓います」
わぁ、と会場に拍手と歓声が沸き起こる。
今から私は結婚する。
____私のことを愛してくれる男性と。
誓いのキスは、ドキドキしてあまり覚えていない。
けれどもこの瞬間、私はシャーリン・クラウゼンになった。
***
結婚してからの日々は幸せそのものだった。
美味しいご飯に親切な侍女、快適なベッドに何不自由ない生活。
実家である伯爵邸よりも大きな屋敷で、私は愛されていた。
一番大きな変化は、初対面の人間の前でも笑えるようになったことだ。
友人とまではいかなくとも、少しぎこちない会話だとしても……人と話して、コミュニケーションがとれるようになった。
ヴィクトル様や侍女の皆さんが優しくしてくれたから、私も人を愛することが少しずつできるようになったの。
両親や伯爵邸の皆以外の対して、優しく接することができるようになった。
ヴィクトル様が、私に自信をつけてくれた。
舞踏会に出れば、「自慢の妻なんです」と紹介してくれる。
気付けば、私を『氷の令嬢』と呼ぶものはいなくなっていた。
私は、『クラウゼン侯爵夫人』と呼ばれるようになったのだ。
でも、そんな日々の中で、一つだけ……不安なことがあった。
それはヴィクトル様が、私のことを抱いてくださらないこと。
それも、ただの一度も……。
結婚初夜ですらそうだった。
「君を大切にしたいから」
そんな優しい言葉をかけられて、血の痕だけを偽装して初夜をやり過ごした。
けれど、いくら月日が流れようとも、ヴィクトル様は私に手を出してくださらない。
香水をつけてみても、少し恥ずかしいランジェリーを身につけても、ヴィクトル様は「ダメだよ」と困ったように笑うだけ。
私にはそれが不満だった。
だって、私はヴィクトル様に優しくされる度……彼を愛してしまっていたから。
だから、身も心も全て捧げてしまいたかった。
彼の子供が欲しかったのだ。
社交の場で「跡継ぎの方はいかがですかな」と尋ねられても、「授かりものですから」と躱す彼のことがわからなかった。
____そして結婚式から一年経っても、とうとうヴィクトル様が私を抱いてくれることは一度もなかった。
***
それから少し経った、ある日のことだった。
「……ヴィクトル様、今、なんて……?」
いつものように、ヴィクトル様と穏やかに夕食を摂っている最中のこと。
ヴィクトル様の口から飛び出した衝撃的な言葉に、私は信じられない気持ちになった。思わずフォークを落としてしまったけれど、そんなことも気にならないくらい。
「あれ、聞き取れなかったかな? 離縁してくれ、シャーリン」
……聞き間違いじゃ、なかった。
なぜ? どうして? つい昨日だって、「君は本当に美しいね」と私を褒めてくださっていたのに。
私は震える声で問いかける。
「わ、私……なにかヴィクトル様の気に障るようなことをしてしまったでしょうか……? もし、そうでしたら……」
すると、ヴィクトル様は心底おかしそうな声で……今まで見たことがない、醜い笑みを浮かべた。
「は、はっははは……!!! 違うよ、シャーリン。私はね、そもそも君のことを最初から愛してなんかいなかったんだから」
「……何を、仰って」
「わからないのか? 君は本当に馬鹿だなぁ、シャーリン!」
____この人は、本当にヴィクトル様なの?
私を氷ではなく花だと仰ったヴィクトル様と、同一人物だっていうの……?
ヴィクトル様がガタン!と立ち上がる。そして食事用のナイフを持って、一歩一歩ゆっくりと、けれども着実に私のもとへと近づいてきた。
「まぁ、だから君……いや、お前を選んだんだけどな。この歳になると、周りがうるさくて仕方ないんだ。君だって同じだったろう?」
「……」
「つまりは利害の一致だよ。お互いに都合が良いと思ったから結婚しただけだ。友人のいない君なら、離縁したって悲しむ人もほとんどいないだろう?」
「……どういうことですか、私を、愛してくれているのではなかったのですか……?」
「馬鹿なことを言うな。私が愛しているのは昔からただ一人だけだ。そしてそれは……シャーリン、お前ではない!!」
ヴィクトル様が、私の首筋にナイフを突きつける。
もう、ヴィクトル様が何を仰っているのか、自分の身に何が起こっているのかわからなかった。
ただひとつわかることは、私はヴィクトル様に愛されてなんていなかった。初めから全部、全部全部嘘だった。
たくさんデートをしてくれたのも、愛を囁いてくれたのも、私を自慢だと仰ってくださったのも……私が、『氷の令嬢』だったから。都合がよかったから。抱いてくれなかったのは、私を愛してなんかいなかったから。
ただ、それだけだったんだわ。
「…………一つだけ、聞いてもよろしいですか」
目を瞑って、静かに私は問いかける。
「なんだ?」
「どうして、私にそのことを教えてくださったのですか?」
「簡単な話だ。お前は今から死ぬんだからな」
ヴィクトル様のその言葉を合図に、使用人たちが私を拘束した。
私はもう、逃げる気力さえ湧かなかった。
「ハッ、やはりお前はつまらない女だな、シャーリン。まぁいい、彼女と一緒になる準備が整った今……私の人生に、もうお前は必要ない」
「そのようですね」
「最期まで可愛げのない女だ。じゃあな、『氷の令嬢』」
ヴィクトル様の言葉と同時に、急激に睡魔が襲ってきた。どうやら、食事に薬を混ぜられていたらしい。
まさか私の人生、こんなところで終わるなんて。
今はただ、むなしい。
でも、もし来世があるとしたら、その時は、その時は絶対に…………
生きて生きて、生き抜いてやるわ。
ぐにゃりと世界が回る。
そして、私はゆっくりと意識を失ったのだった。