愛が全てじゃないけれど
3.好きだった男
神海さんの行きつけだというバーは、会社から地下鉄で二駅離れていた。
駅から徒歩十分かかるかかからないかの場所にある飲食店ばかり入った三階建てのビルの一階の角にあり、ビルの共有のものとは別の入口があった。
バーの看板は出ていない。
代わりにドアの横に『SHINFO』と一般住宅の物と変わりない大きさの表札が掛けられている。
表札の下のインターフォンを押すと、一般住宅同様に「はい」と応答があった。
奈都が神海さんの名前を出すと、カチャリとドアのロックが回る金属音がした。
「いらっしゃいませ」
奈都がドアノブに手をかけるより先にドアが開き、自分の身長から推測して、およそ百八十センチの女性が顔を出した。
横の髪を撫でつけたショートヘアに、バーテンダーがよく着るであろう黒のベストに蝶ネクタイ、黒のスラックスという、某歌劇団の男役のような男装の麗人。
「どうぞ、お好きな席へ」
店内には一人掛けのソファ四つが配置されているテーブル席が五つと、ハイチェアのカウンター席が六つあり、テーブル席二つが埋まっていた。
奈都と顔を見合わせて、カウンター席に座った。
奥のふた席に座ろうとしたら、今は客が少ないからと、一番奥の席を空けて座らせてもらった。
「ようこそいらっしゃいました。私、マスターのミノリと申します。メニューをどうぞ」
しっとりとした口調のハスキーボイスで、おしぼりとメニューを渡された。
片面にアルコールとノンアルコールと、ソフトドリンク、片面に軽食とスイーツのメニューが書かれたA4用紙が、ラミネートされている。
「お好みでお作りすることもできますよ」
「じゃあ、テキーラサンライズを」
「私はモヒートを。軽めで」
「かしこまりました」
「ナッツの盛り合わせとサンドイッチも」
「あ、クラッカーも」
「少々お待ちください。こちら、レモン水とチャームのチョコレートです。それから、よろしければこちらをご記入いただけますか?」
ミノリさんから差し出されたのは、コースターくらいの厚紙。
『氏名(愛称でも結構です)、誕生月日、お好みのドリンク』を書くようになっている。
私と奈都は、それぞれ用紙と一緒に置かれたペンを持ち、書き込んでいく。
どうせ神海さんには知られているのだからと、本名を書いた。誕生日も。
それから、さっぱりした味のお酒が好きだが、あまり強くないことを書いて、ペン先を引っ込めた。
レモン水を一口飲んで、これにほんの少しアルコールが入っているだけ、私には十分だなと思った。
小鉢にチョコレート三粒は、色も形も大きさも違うけれど、どれも見るからに高級そう。
「素敵なお店ね」
「うん。成り行きで合コンしただけの私たちに教えてもらっちゃって、良かったのかな」
「それなりに気に入られたってことでしょ」
「それは、奈都がってことでしょ? 私まで――」
「――お待たせいたしました」
ミノリさんがテキーラサンライズを奈都の前に置く。
「こちら、テキーラサンライズでございます」
「ありがとうございます」
次に、私の前にモヒートが置かれる。
「モヒートです。アルコール軽めにお作りしております。調整が必要でしたら、遠慮なく仰ってください」
「ありがとうございます」
グラスの底のミントと、口に添えられたライムの間を、無色透明なソーダの気泡が揺れている。