あと一歩でも近づいたらセクハラです!〜生意気部下がコンプラガン無視で私を溺愛する件について〜
【社外秘】若手エース様になぜか懐かれています
視界の端にちらちらと映る、床に落ちた社員証を気にしていた。
『チームリーダー 白石望美』——そこに書かれた自分の肩書を横目に見ながら、私は今、リーダーでも何でもない、ただ一人の女として抱かれようとしている。
「先輩、俺から目逸らしちゃだめでしょ?」
よそ見を咎められ、無理やり正面を向かされた。すると視界を占領する、チョコレート色の熱い瞳。私を見つめる、瀬戸くんの瞳。
「俺のこと見てて……これから自分が誰のものになるのか、ちゃんと目に焼き付けて」
「んっ……! ん、んぅ……」
信じられないほど深いキスが降ってきて、一瞬、呼吸を忘れる。ざらついた彼の舌が私の口内を隅々まで探って、途方もない悦びを感じた。
だめなのに。私は瀬戸くんと、こんな関係になっていい立場じゃないのに。もう、誰も傷つけたくないのに——
けれどもう、体はいうことを聞かない。無抵抗に脱がされて、されるがままに全身をまさぐられる。社員証の上に投げ捨てられた自分の下着を見つめながら、私はこれまでのことを思い出していた。
どうしてこうなったのだろう、と。
♢
「瀬戸くん、この資料なんだけど」
瀬戸龍馬くんと話すときはいつも、極力冷たい顔と声を保つよう心がけている。彼に見えるようファイルを開きながら、私はありとあらゆる感情を排して淡々と続けた。
「内容は構わないんだけど、もうちょっと体裁を整えてくれるかな。クレジットのフォントサイズが規定より小さいし、もっと全体的に主題を——」
オートマチックに口を動かしながら、ちらりと隣の彼を盗み見る。案の定、目が合った。慌てて逸らす。けれど、頬に視線が突き刺さったままだ。
「……き、聞いてる?」
「聞いてますよ。内容そのままでコピーとカットを強調して、あとは体裁を整えるんですよね? 先輩の可愛い顔見ながら聞いてました」
「ならいいけど、近いから離れて」
用件が済んだら、あとは各々の仕事に戻るだけ。無用な私語はいらない。私は瀬戸くんの軽口を無視して、途中だったメール返信の作業に戻る。
そう。仕事中は、仕事以外のことはしなくていい。なのに——
「先輩、今度の日曜空いてます? 空いてますよね? 俺、先輩と行きたいところがあるんです」
瀬戸くんはおかまいなしに軽薄な誘い文句を私に投げかける。これがオフィスの日常になりつつあった。
「プライベートに部下を付き合わせるのはパワハラに該当するので行きません」
「じゃあ、金曜の夜飲みにでも——」
「上司の立場から部下を飲みに誘うのはアルハラに該当するので行きません」
「いや、誘ってんの俺からなんですけど……」
「私からの用件は以上です。修正作業にとりかかってください」
声を低くして、キーを叩く指に力を込める。そうして作り出した隙のない空気に「はいはい」と苦笑して、瀬戸くんはようやく引き下がった。
彼がデスクに戻ると、両隣の男性社員がにやついて茶々を入れる。雑談好きの、子供じみた男たちだ。
「瀬戸、またふられたのか」
「お前ほんとに白石さんのこと好きな」
大声でこれ見よがしに投げかけられたからかいに、周囲の人たちもくすくす笑ったり、肩をすくめたり、朝のオフィスに緩んだ空気が流れる。けれど私はタイピングの手を止めない。
そんな、大勢に耳を傾けられている状況でも、瀬戸くんは全く臆さず実ににこやかに頷いた。
「はい! 俺、白石先輩のこと世界一好きですから」
この一言には、さすがにタイピングの手が止まった。同僚たちの意味ありげな視線が突き刺さって、私は思わず顔を上げる。
何か、と問いかけるかわりにじろりと辺りを見渡すと、全員がそそくさとモニターに視線を戻したので、朝の戯れはこれで終わり。再び仕事に戻る。
これが、私のオフィスの日常だった。
瀬戸くんはこうして毎日、私に好意をぶつけてからかうのを日課にしている。いつからかも、何故なのかもわからない。気がつけばいつの間にか私の後ろをついて回るようになっていて、気がつけば毎日好きと口にするようになっていた。
顔を合わせれば「好きです」
目が合えば「食事に行きませんか?」
そんな戯れを真に受けるほど私は若くないし、愚かでもない。からかわれるたびに黙殺して、ただ仕事に邁進してきたし、育成係として瀬戸くんを立派に育て上げた。
そう。瀬戸くんがちょっとかっこよくて、こちらに好意的だからといって、決して浮かれてはいけない。もしうっかりその気になろうものなら……
(戒告、降格、諭旨解雇……)
ありとあらゆる懲戒処分名を呪文のように唱えながら、うっかりときめいてしまった熱を冷ましていく。
そう。今のご時世、コンプライアンスという言葉は命の次に重い。セクハラという言葉が、女性から男性への行為にも適用されるようになって久しいこの世の中。うっかりこの好意を本気に受け取って「私も好き」なんて言おうものなら——
「嘘でしょ? まさか本気にしてたんですか?」
と突き放され、全てはジ・エンド。私は勘違いしたセクハラ管理職として立場を追われる。上司である私が、部下である瀬戸くんと男女の仲に発展するなんて許されないのだ。それは即ち——
(社会的な死を意味する)
エンターキーを強く叩いて、メールの末尾を締めくくる。
私は波風立てずに、平穏に生きていきたい。誰のことも傷つけず、ただ自分のキャリアだけを追い求めたい。だからそのためには——
「せーんぱい、今日のランチ、一緒にどうですか?」
——この男を拒み続けなければならない。
「離れて! それ以上近づいたらセクハラだから! ……私が」
『チームリーダー 白石望美』——そこに書かれた自分の肩書を横目に見ながら、私は今、リーダーでも何でもない、ただ一人の女として抱かれようとしている。
「先輩、俺から目逸らしちゃだめでしょ?」
よそ見を咎められ、無理やり正面を向かされた。すると視界を占領する、チョコレート色の熱い瞳。私を見つめる、瀬戸くんの瞳。
「俺のこと見てて……これから自分が誰のものになるのか、ちゃんと目に焼き付けて」
「んっ……! ん、んぅ……」
信じられないほど深いキスが降ってきて、一瞬、呼吸を忘れる。ざらついた彼の舌が私の口内を隅々まで探って、途方もない悦びを感じた。
だめなのに。私は瀬戸くんと、こんな関係になっていい立場じゃないのに。もう、誰も傷つけたくないのに——
けれどもう、体はいうことを聞かない。無抵抗に脱がされて、されるがままに全身をまさぐられる。社員証の上に投げ捨てられた自分の下着を見つめながら、私はこれまでのことを思い出していた。
どうしてこうなったのだろう、と。
♢
「瀬戸くん、この資料なんだけど」
瀬戸龍馬くんと話すときはいつも、極力冷たい顔と声を保つよう心がけている。彼に見えるようファイルを開きながら、私はありとあらゆる感情を排して淡々と続けた。
「内容は構わないんだけど、もうちょっと体裁を整えてくれるかな。クレジットのフォントサイズが規定より小さいし、もっと全体的に主題を——」
オートマチックに口を動かしながら、ちらりと隣の彼を盗み見る。案の定、目が合った。慌てて逸らす。けれど、頬に視線が突き刺さったままだ。
「……き、聞いてる?」
「聞いてますよ。内容そのままでコピーとカットを強調して、あとは体裁を整えるんですよね? 先輩の可愛い顔見ながら聞いてました」
「ならいいけど、近いから離れて」
用件が済んだら、あとは各々の仕事に戻るだけ。無用な私語はいらない。私は瀬戸くんの軽口を無視して、途中だったメール返信の作業に戻る。
そう。仕事中は、仕事以外のことはしなくていい。なのに——
「先輩、今度の日曜空いてます? 空いてますよね? 俺、先輩と行きたいところがあるんです」
瀬戸くんはおかまいなしに軽薄な誘い文句を私に投げかける。これがオフィスの日常になりつつあった。
「プライベートに部下を付き合わせるのはパワハラに該当するので行きません」
「じゃあ、金曜の夜飲みにでも——」
「上司の立場から部下を飲みに誘うのはアルハラに該当するので行きません」
「いや、誘ってんの俺からなんですけど……」
「私からの用件は以上です。修正作業にとりかかってください」
声を低くして、キーを叩く指に力を込める。そうして作り出した隙のない空気に「はいはい」と苦笑して、瀬戸くんはようやく引き下がった。
彼がデスクに戻ると、両隣の男性社員がにやついて茶々を入れる。雑談好きの、子供じみた男たちだ。
「瀬戸、またふられたのか」
「お前ほんとに白石さんのこと好きな」
大声でこれ見よがしに投げかけられたからかいに、周囲の人たちもくすくす笑ったり、肩をすくめたり、朝のオフィスに緩んだ空気が流れる。けれど私はタイピングの手を止めない。
そんな、大勢に耳を傾けられている状況でも、瀬戸くんは全く臆さず実ににこやかに頷いた。
「はい! 俺、白石先輩のこと世界一好きですから」
この一言には、さすがにタイピングの手が止まった。同僚たちの意味ありげな視線が突き刺さって、私は思わず顔を上げる。
何か、と問いかけるかわりにじろりと辺りを見渡すと、全員がそそくさとモニターに視線を戻したので、朝の戯れはこれで終わり。再び仕事に戻る。
これが、私のオフィスの日常だった。
瀬戸くんはこうして毎日、私に好意をぶつけてからかうのを日課にしている。いつからかも、何故なのかもわからない。気がつけばいつの間にか私の後ろをついて回るようになっていて、気がつけば毎日好きと口にするようになっていた。
顔を合わせれば「好きです」
目が合えば「食事に行きませんか?」
そんな戯れを真に受けるほど私は若くないし、愚かでもない。からかわれるたびに黙殺して、ただ仕事に邁進してきたし、育成係として瀬戸くんを立派に育て上げた。
そう。瀬戸くんがちょっとかっこよくて、こちらに好意的だからといって、決して浮かれてはいけない。もしうっかりその気になろうものなら……
(戒告、降格、諭旨解雇……)
ありとあらゆる懲戒処分名を呪文のように唱えながら、うっかりときめいてしまった熱を冷ましていく。
そう。今のご時世、コンプライアンスという言葉は命の次に重い。セクハラという言葉が、女性から男性への行為にも適用されるようになって久しいこの世の中。うっかりこの好意を本気に受け取って「私も好き」なんて言おうものなら——
「嘘でしょ? まさか本気にしてたんですか?」
と突き放され、全てはジ・エンド。私は勘違いしたセクハラ管理職として立場を追われる。上司である私が、部下である瀬戸くんと男女の仲に発展するなんて許されないのだ。それは即ち——
(社会的な死を意味する)
エンターキーを強く叩いて、メールの末尾を締めくくる。
私は波風立てずに、平穏に生きていきたい。誰のことも傷つけず、ただ自分のキャリアだけを追い求めたい。だからそのためには——
「せーんぱい、今日のランチ、一緒にどうですか?」
——この男を拒み続けなければならない。
「離れて! それ以上近づいたらセクハラだから! ……私が」