どこかで、誰かの恋がはじまる
第1話 残業室の、二人だけの時間
どこかで、誰かの恋がはじまる
オフィスの時計が午後九時を回った頃、フロアに残っているのはもう二人だけだった。
宮下彩あやは、パソコンの画面から顔を上げて、隣の島でまだキーボードを叩いている先輩――蒲生かもう蓮れんの横顔を盗み見た。
蒲生は入社五年目、彩の教育係でもある。仕事はできるのに変に抜けているところがあって、後輩からは慕われ、女子社員からは密かに人気がある。彩自身、この一年、彼のことをどう扱っていいのか分からずにいた。
「宮下、まだ終わらないの」
視線に気づかれたのか、蒲生がふいにこちらを向いた。彩は慌てて画面に目を戻す。
「あ、はい。企画書の直し、もう少しで」
「手伝おうか」
「大丈夫です。……先輩こそ、まだ帰らないんですか」
「俺は君のチェックが終わるまで帰らないよ。上に出す前に、一度俺が見るって約束しただろ」
そう言って、蒲生は椅子ごとこちらの席に寄ってきた。距離が縮まる。彩は思わず息を止めた。彼の椅子がキャスターの音を立てて隣に並ぶと、消毒液のような、それでいてどこか甘さの残る香水の匂いがふわりと漂った。
「ここ、この数字、去年のデータと合ってる? ちょっと見せて」
蒲生が画面を覗き込むために身を乗り出す。肩がぶつかりそうな距離で、彩の心臓がとくん、と跳ねた。
「あ、えっと、はい、合ってます、たぶん」
「たぶんって」
蒲生が笑うと、目尻に小さな皺ができる。その表情を見るたび、彩は自分の頬が熱くなるのを感じていた。これはまずい、と思う。先輩後輩の距離感を、自分だけが勝手に踏み越えようとしている気がして。
「……あの、先輩」
「ん?」
「な、なんでもないです」
言いかけた言葉を飲み込む。今、聞きたかったのは「どうしてそんなに優しいんですか」という、ただの愚痴のような疑問だった。聞いたところで、答えは「後輩だから」以上のものは返ってこないだろう。分かっているのに、聞きたくなる自分が嫌だった。
修正作業が一段落した頃、外は本降りの雨になっていた。窓ガラスを叩く雨音が、静まり返ったオフィスに響く。
「げ、降ってきたか」
蒲生が窓の外を見て顔をしかめた。
「傘、持ってきてないんですか」
「今朝は晴れてたからな。宮下は?」
「私も、折りたたみ持ってないです」
「じゃあ二人ともアウトだな」
蒲生は特に慌てる様子もなく、コンビニまで走るか、雨がやむのを待つか、と呑気にぼやいている。彩はふと、鞄の底に一本だけ入れっぱなしにしていた折りたたみ傘の存在を思い出した。小さくて、二人で入るには心もとないサイズのものだ。
「あの、私、一本だけ持ってます。小さいですけど」
「マジで? 助かる」
「た、たぶん、一人分ですけど」
「じゃあ二人で入ればいいだろ。駅まで送るよ」
事もなげに言われた言葉に、彩は固まった。二人で入る、という言葉の重みを、蒲生は分かっているのだろうか。それとも、彼にとっては本当にただの合理的な提案でしかないのだろうか。
「……分かりました」
他に選択肢もなく、彩は頷くしかなかった。
エレベーターを降り、ビルの外に出ると、雨脚は思ったより強かった。彩が傘を開こうとすると、蒲生が「貸して」と自然に手を伸ばし、傘を広げて先に差しかけてくれた。
「先輩、濡れちゃいます」
「いいよ、俺の方が背高いし。宮下、こっち寄って」
言われるがまま、彩は蒲生の方に半歩近づいた。小さな傘の下、肩がぴったりとくっつく距離になる。彼のスーツの袖が、彩の腕に触れそうで触れない。歩くたびに揺れるその距離感に、彩の心臓は落ち着かなかった。
雨音のせいで、会話も途切れがちになる。それが逆に、二人の間の沈黙を意識させた。
「……先輩って、今、誰か好きな人いるんですか」
気づけば、そんな質問が口をついて出ていた。言った瞬間、彩は自分の大胆さに青ざめる。撤回しようとした矢先、蒲生が小さく笑った。
「藪から棒だな」
「す、すみません、忘れてください」
「いや」
蒲生は前を向いたまま、少し歩調を緩めた。
「いるよ、一応」
その一言に、彩の胸がすとん、と重くなった。分かっていたはずだった。蒲生ほどの人に、想い人がいないわけがない。それでも、実際に言葉で告げられると、思っていた以上に痛かった。
「……そうなんですね。素敵な人なんでしょうね」
平静を装って返した声が、自分でも分かるくらい震えていた。蒲生はしばらく黙って歩いていたが、ふいに足を止めた。傘の下、彩も立ち止まる。
「宮下、鋭いくせに、こういうところは鈍いよな」
「え?」
「その好きな人、今、目の前にいるんだけど」
雨音がやけに大きく聞こえた。彩は自分の耳を疑い、蒲生の顔を見上げる。街灯に照らされたその表情は、いつもの飄々とした笑みではなく、どこか照れくさそうな、それでいて真剣な色を帯びていた。
「え、あの、それって」
「言葉通りの意味。一年間、教育係のふりして、隣でずっとお前のこと見てた。仕事終わりに残ってるの、本当は付き合いたくて残ってる日も半分くらいある」
「そんな、全然気づかな……」
「知ってる。鈍いって言っただろ」
蒲生は苦笑いしながら、彩の頭に軽く手を乗せた。雨のせいで少し濡れた前髪を、指先でそっと直してくれる。その仕草だけで、彩はもう限界だった。頬が燃えるように熱い。
「……あの、私も」
「うん」
「先輩のこと、ずっと、その、意識してました。教育係だから優しいのか、それとも、って毎日考えて」
「答え、今言った通りだよ」
蒲生の声が、いつもより少し低く、優しかった。傘を持つ手にわずかに力がこもり、二人の距離がまた少し縮まる。雨粒が傘の縁を伝って落ちる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「あの、先輩」
「ん?」
「……傘、傾いてます。先輩の方が濡れてます」
「気づいてる。今はそれどころじゃないだけ」
蒲生はそう言うと、そっと彩の手を取った。冷たい雨に晒されていた手のひらに、彼の体温が伝わってくる。それだけで、彩は泣きそうになるくらい嬉しかった。
「駅まで、もう少しこのままでいい?」
「……はい」
小さく頷いた彩の手を、蒲生はしっかりと握り直した。二人分の足音と、雨音と、傘を叩く音。それだけの世界の中で、彩は今までのどんな残業よりも、この時間が愛おしいと思った。
駅の改札の手前で、蒲生はようやく手を離した。名残惜しさを隠しもせず、彩の顔を覗き込む。
「明日、ちゃんと会社で話そうな。今日はその、勢いで言った部分もあるから」
「勢いでも、嬉しかったです」
「……そういうこと素直に言うところ、ずるいよな、宮下は」
蒲生は照れたようにそっぽを向いた。その耳が赤くなっているのを、彩は見逃さなかった。
「先輩も、耳、赤いです」
「うるさい。早く帰れ、風邪ひくぞ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、彼の視線はずっと彩に向けられたままだった。改札を抜け、ホームへの階段を上りながら、彩は何度も振り返った。そのたびに、蒲生はまだそこに立って、小さく手を振っていた。
電車に揺られながら、彩は濡れた手のひらに残る温もりを、そっと握りしめた。明日、また同じオフィスで、同じ島の隣の席で、彼の顔を見られる。それだけで、いつもの残業が、今までとは全く違う特別な時間に変わる気がした。
窓の外を流れる夜景に、雨粒が斜めの線を描いている。彩はその景色に、自分でも気づかないうちに、小さな笑みを浮かべていた。
オフィスの時計が午後九時を回った頃、フロアに残っているのはもう二人だけだった。
宮下彩あやは、パソコンの画面から顔を上げて、隣の島でまだキーボードを叩いている先輩――蒲生かもう蓮れんの横顔を盗み見た。
蒲生は入社五年目、彩の教育係でもある。仕事はできるのに変に抜けているところがあって、後輩からは慕われ、女子社員からは密かに人気がある。彩自身、この一年、彼のことをどう扱っていいのか分からずにいた。
「宮下、まだ終わらないの」
視線に気づかれたのか、蒲生がふいにこちらを向いた。彩は慌てて画面に目を戻す。
「あ、はい。企画書の直し、もう少しで」
「手伝おうか」
「大丈夫です。……先輩こそ、まだ帰らないんですか」
「俺は君のチェックが終わるまで帰らないよ。上に出す前に、一度俺が見るって約束しただろ」
そう言って、蒲生は椅子ごとこちらの席に寄ってきた。距離が縮まる。彩は思わず息を止めた。彼の椅子がキャスターの音を立てて隣に並ぶと、消毒液のような、それでいてどこか甘さの残る香水の匂いがふわりと漂った。
「ここ、この数字、去年のデータと合ってる? ちょっと見せて」
蒲生が画面を覗き込むために身を乗り出す。肩がぶつかりそうな距離で、彩の心臓がとくん、と跳ねた。
「あ、えっと、はい、合ってます、たぶん」
「たぶんって」
蒲生が笑うと、目尻に小さな皺ができる。その表情を見るたび、彩は自分の頬が熱くなるのを感じていた。これはまずい、と思う。先輩後輩の距離感を、自分だけが勝手に踏み越えようとしている気がして。
「……あの、先輩」
「ん?」
「な、なんでもないです」
言いかけた言葉を飲み込む。今、聞きたかったのは「どうしてそんなに優しいんですか」という、ただの愚痴のような疑問だった。聞いたところで、答えは「後輩だから」以上のものは返ってこないだろう。分かっているのに、聞きたくなる自分が嫌だった。
修正作業が一段落した頃、外は本降りの雨になっていた。窓ガラスを叩く雨音が、静まり返ったオフィスに響く。
「げ、降ってきたか」
蒲生が窓の外を見て顔をしかめた。
「傘、持ってきてないんですか」
「今朝は晴れてたからな。宮下は?」
「私も、折りたたみ持ってないです」
「じゃあ二人ともアウトだな」
蒲生は特に慌てる様子もなく、コンビニまで走るか、雨がやむのを待つか、と呑気にぼやいている。彩はふと、鞄の底に一本だけ入れっぱなしにしていた折りたたみ傘の存在を思い出した。小さくて、二人で入るには心もとないサイズのものだ。
「あの、私、一本だけ持ってます。小さいですけど」
「マジで? 助かる」
「た、たぶん、一人分ですけど」
「じゃあ二人で入ればいいだろ。駅まで送るよ」
事もなげに言われた言葉に、彩は固まった。二人で入る、という言葉の重みを、蒲生は分かっているのだろうか。それとも、彼にとっては本当にただの合理的な提案でしかないのだろうか。
「……分かりました」
他に選択肢もなく、彩は頷くしかなかった。
エレベーターを降り、ビルの外に出ると、雨脚は思ったより強かった。彩が傘を開こうとすると、蒲生が「貸して」と自然に手を伸ばし、傘を広げて先に差しかけてくれた。
「先輩、濡れちゃいます」
「いいよ、俺の方が背高いし。宮下、こっち寄って」
言われるがまま、彩は蒲生の方に半歩近づいた。小さな傘の下、肩がぴったりとくっつく距離になる。彼のスーツの袖が、彩の腕に触れそうで触れない。歩くたびに揺れるその距離感に、彩の心臓は落ち着かなかった。
雨音のせいで、会話も途切れがちになる。それが逆に、二人の間の沈黙を意識させた。
「……先輩って、今、誰か好きな人いるんですか」
気づけば、そんな質問が口をついて出ていた。言った瞬間、彩は自分の大胆さに青ざめる。撤回しようとした矢先、蒲生が小さく笑った。
「藪から棒だな」
「す、すみません、忘れてください」
「いや」
蒲生は前を向いたまま、少し歩調を緩めた。
「いるよ、一応」
その一言に、彩の胸がすとん、と重くなった。分かっていたはずだった。蒲生ほどの人に、想い人がいないわけがない。それでも、実際に言葉で告げられると、思っていた以上に痛かった。
「……そうなんですね。素敵な人なんでしょうね」
平静を装って返した声が、自分でも分かるくらい震えていた。蒲生はしばらく黙って歩いていたが、ふいに足を止めた。傘の下、彩も立ち止まる。
「宮下、鋭いくせに、こういうところは鈍いよな」
「え?」
「その好きな人、今、目の前にいるんだけど」
雨音がやけに大きく聞こえた。彩は自分の耳を疑い、蒲生の顔を見上げる。街灯に照らされたその表情は、いつもの飄々とした笑みではなく、どこか照れくさそうな、それでいて真剣な色を帯びていた。
「え、あの、それって」
「言葉通りの意味。一年間、教育係のふりして、隣でずっとお前のこと見てた。仕事終わりに残ってるの、本当は付き合いたくて残ってる日も半分くらいある」
「そんな、全然気づかな……」
「知ってる。鈍いって言っただろ」
蒲生は苦笑いしながら、彩の頭に軽く手を乗せた。雨のせいで少し濡れた前髪を、指先でそっと直してくれる。その仕草だけで、彩はもう限界だった。頬が燃えるように熱い。
「……あの、私も」
「うん」
「先輩のこと、ずっと、その、意識してました。教育係だから優しいのか、それとも、って毎日考えて」
「答え、今言った通りだよ」
蒲生の声が、いつもより少し低く、優しかった。傘を持つ手にわずかに力がこもり、二人の距離がまた少し縮まる。雨粒が傘の縁を伝って落ちる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「あの、先輩」
「ん?」
「……傘、傾いてます。先輩の方が濡れてます」
「気づいてる。今はそれどころじゃないだけ」
蒲生はそう言うと、そっと彩の手を取った。冷たい雨に晒されていた手のひらに、彼の体温が伝わってくる。それだけで、彩は泣きそうになるくらい嬉しかった。
「駅まで、もう少しこのままでいい?」
「……はい」
小さく頷いた彩の手を、蒲生はしっかりと握り直した。二人分の足音と、雨音と、傘を叩く音。それだけの世界の中で、彩は今までのどんな残業よりも、この時間が愛おしいと思った。
駅の改札の手前で、蒲生はようやく手を離した。名残惜しさを隠しもせず、彩の顔を覗き込む。
「明日、ちゃんと会社で話そうな。今日はその、勢いで言った部分もあるから」
「勢いでも、嬉しかったです」
「……そういうこと素直に言うところ、ずるいよな、宮下は」
蒲生は照れたようにそっぽを向いた。その耳が赤くなっているのを、彩は見逃さなかった。
「先輩も、耳、赤いです」
「うるさい。早く帰れ、風邪ひくぞ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、彼の視線はずっと彩に向けられたままだった。改札を抜け、ホームへの階段を上りながら、彩は何度も振り返った。そのたびに、蒲生はまだそこに立って、小さく手を振っていた。
電車に揺られながら、彩は濡れた手のひらに残る温もりを、そっと握りしめた。明日、また同じオフィスで、同じ島の隣の席で、彼の顔を見られる。それだけで、いつもの残業が、今までとは全く違う特別な時間に変わる気がした。
窓の外を流れる夜景に、雨粒が斜めの線を描いている。彩はその景色に、自分でも気づかないうちに、小さな笑みを浮かべていた。
< 1 / 31 >