どこかで、誰かの恋がはじまる

第32話 魔女のおばあちゃんと、初恋のおまじない

どこかで、誰かの恋がはじまる

森に囲まれた古い一軒家で、まいは夏休みのひと月を、祖母と二人きりで過ごすことになった。
祖母は、村の人々から密かに「魔女さん」と呼ばれている。もっとも、箒に乗って空を飛ぶような、そんな大層な魔法を使うわけではない。祖母の魔法は、もっと静かで、もっと日常に寄り添ったものだった。
「まい、今日はパン種を仕込みましょう。魔女の修行の基本は、まず、自分の手で何かを育てること」
祖母はそう言って、小麦粉を優しくこねながら、まいに手ほどきをした。台所には、焼きたてのパンの匂いと、庭から差し込む柔らかな光が満ちている。
「おばあちゃん、魔女の修行って、パン作りと関係あるの?」
「大ありよ。何かをじっくり育てて、待って、丁寧に仕上げる。それが、魔女に一番大切な心構えなの」
祖母の言葉には、いつも不思議な説得力があった。まいは、その静かな知恵に、少しずつ心を開いていった。
*
そんなある日、村の少年、湊みなとが、祖母の家に薪を届けにやってきた。まいと同い年で、素朴で寡黙な性格の少年だった。まいは彼と顔を合わせるたび、なぜか胸の奥がそわそわと落ち着かなくなることに気づいていた。
「おばあちゃん、私、最近、変なの。湊くんと話すと、なんだか、うまく言葉が出てこなくなる」
夜、寝る前の語らいの時間、まいは正直にそう打ち明けた。祖母は、優しく微笑みながら、まいの髪を撫でる。
「それはね、まい。恋という名の、小さな魔法にかかり始めているのよ」
「恋の、魔法……?」
「そう。誰の心にも、いつか自然と芽生えるもの。魔女といえど、その魔法だけは、コントロールできないの」
祖母の言葉に、まいは頬を赤らめた。自分の胸の中の落ち着かなさに、ようやく名前がついた気がした。
*
「まい、この機会に、一つ、おまじないを教えてあげましょう」
翌朝、祖母は庭のハーブを摘みながら、まいにそう提案した。
「おまじない?」
「そう。相手に気持ちを伝える勇気が欲しいときの、とっておきの魔法よ」
祖母は、庭で摘んだ小さな花を、まいの手に握らせた。
「この花を、湊くんに渡すの。ただし、渡す前に、心の中でこう唱えなさい。『これは、ただの花じゃない。私の、素直な気持ちです』ってね」
「そんな簡単なことで、魔法になるの?」
「魔法というのはね、まい。結局のところ、自分の心に、正直になる勇気のことなのよ」
祖母の言葉は、いつになく真剣な響きを持っていた。まいは、その花を大切に握りしめ、湊のもとへと向かう決意を固めた。
*
夕暮れ時、薪を届けに来た湊を、まいは家の前で待ち構えていた。
「湊くん、これ」
震える手で、まいは花を差し出した。
「これ、庭で採れた花なんだけど……その、受け取ってほしくて」
湊は驚いたように目を見開き、それから、ぎこちなく花を受け取った。
「まい、ありがとう。……あの、俺も、実は、ずっと言いたかったことがあって」
「うん」
「まいのこと、その、気になってる。友達として以上に」
夕焼けに照らされた二人の間に、静かな沈黙が流れた。まいは、心の中で唱えたおまじないの言葉を思い出しながら、はっきりと答えた。
「私も、湊くんのこと、同じ気持ちだよ」
*
その夜、まいは祖母に、今日の出来事を報告した。祖母は、満足げに微笑みながら、こう言った。
「おまじないは、うまくいったようね」
「おばあちゃんのおかげ。ありがとう」
「いいえ、まい。魔法をかけたのは、私じゃなくて、あなた自身の勇気よ」
窓の外、森の木々が夜風に揺れている。まいは、祖母から教わった小さな魔法――自分の心に正直になる勇気を、これからも大切にしていこうと、静かにそう思った。
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