どこかで、誰かの恋がはじまる
第47話 湯けむりの向こう、待つ人
どこかで、誰かの恋がはじまる
山あいの温泉街、老舗旅館「雪見(ゆきみ)荘」の若女将、雪村(ゆきむら)紬(つむぎ)は、今日も朝から忙しく館内を駆け回っていた。
「紬さん、三号室のお客様、お食事の時間、少し遅らせてほしいそうです」
仲居の声に、紬は帳簿を確認しながら頷く。旅館を継いで一年、まだ慣れないことも多いが、着実にこの仕事を覚えてきた自負はあった。
そんなある日、長期滞在の客として、一人の青年が「雪見荘」を訪れた。名を、東雲(しののめ)樹(いつき)という、フリーの写真家だった。
「この辺りの紅葉、写真に収めたくて。しばらく、お世話になります」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
事務的な挨拶を交わしただけの初対面だったが、樹の滞在は、紬の日常に、少しずつ変化をもたらしていくことになる。
* * *
樹は、毎朝、日の出前から山に入り、夕方遅くに旅館へ戻ってくる生活を続けていた。ある夜、遅くまで戻らない樹を心配し、紬は玄関先で待ちくたびれていた。
「すみません、遅くなりました」
「もう、心配しました。この時期の山、日が落ちるの早いんですから」
思わず強い口調になってしまった紬に、樹は少し驚いた様子を見せた。
「……女将さんが、そんなに心配してくれるとは、思ってませんでした」
「お客様の安全を預かるのは、旅館として当然のことです」
紬は慌てて言い繕ったが、内心では、単なる「客への配慮」以上の感情が芽生え始めていることに、自分自身、気づき始めていた。
* * *
紅葉が見頃を迎えたある日、樹は紬に、思いがけない頼み事をした。
「明日、山の紅葉を撮りに行くんですが、良ければ、紬さんも一緒にどうですか。地元の人の視点で、良い撮影スポット、教えてほしくて」
仕事にかこつけた誘いだったが、紬は、その申し出を素直に受け入れた。
翌日、二人は連れ立って山道を登り、燃えるような紅葉に包まれた渓谷にたどり着いた。
「――綺麗ですね」
樹はカメラを構えながらも、しばらくシャッターを切るのを忘れて、景色に見入っていた。紬も、隣で同じ景色を眺めながら、静かな充足感を覚えていた。
「紬さんのおかげで、良い写真が撮れそうです」
「私は、案内しただけです」
「いえ、それだけじゃないです。……この一週間、正直、紬さんと話す時間が、一番の楽しみになってました」
不意な告白に、紬は思わず樹の方を見た。
「東雲さん、それって」
「はっきり言います。旅館の女将としてじゃなく、一人の女性として、紬さんのこと、好きになっていました」
紅葉の渓谷、燃えるような赤に包まれた景色の中、樹の言葉は、静かに、しかし確かに紬の心に届いた。
「……実は私も、東雲さんが山から戻ってくるの、いつも心待ちにしてました。お客様としてじゃなく、その、一人の男性として」
素直な想いが交わされた瞬間、二人の間に、これまでとは違う、確かな距離感が生まれた。
「東雲さんの滞在、まだしばらく続くんですよね」
「ええ、あと二週間ほどは」
「じゃあ、その間に、もっと、いろんな景色、案内させてください」
紬の申し出に、樹は嬉しそうに頷いた。
「喜んで。……この旅館に来て、一番の思い出になりそうです」
湯けむりの向こう、静かな温泉街に、二人の新しい物語が、紅葉とともに始まっていた。
――第47話 完――
山あいの温泉街、老舗旅館「雪見(ゆきみ)荘」の若女将、雪村(ゆきむら)紬(つむぎ)は、今日も朝から忙しく館内を駆け回っていた。
「紬さん、三号室のお客様、お食事の時間、少し遅らせてほしいそうです」
仲居の声に、紬は帳簿を確認しながら頷く。旅館を継いで一年、まだ慣れないことも多いが、着実にこの仕事を覚えてきた自負はあった。
そんなある日、長期滞在の客として、一人の青年が「雪見荘」を訪れた。名を、東雲(しののめ)樹(いつき)という、フリーの写真家だった。
「この辺りの紅葉、写真に収めたくて。しばらく、お世話になります」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
事務的な挨拶を交わしただけの初対面だったが、樹の滞在は、紬の日常に、少しずつ変化をもたらしていくことになる。
* * *
樹は、毎朝、日の出前から山に入り、夕方遅くに旅館へ戻ってくる生活を続けていた。ある夜、遅くまで戻らない樹を心配し、紬は玄関先で待ちくたびれていた。
「すみません、遅くなりました」
「もう、心配しました。この時期の山、日が落ちるの早いんですから」
思わず強い口調になってしまった紬に、樹は少し驚いた様子を見せた。
「……女将さんが、そんなに心配してくれるとは、思ってませんでした」
「お客様の安全を預かるのは、旅館として当然のことです」
紬は慌てて言い繕ったが、内心では、単なる「客への配慮」以上の感情が芽生え始めていることに、自分自身、気づき始めていた。
* * *
紅葉が見頃を迎えたある日、樹は紬に、思いがけない頼み事をした。
「明日、山の紅葉を撮りに行くんですが、良ければ、紬さんも一緒にどうですか。地元の人の視点で、良い撮影スポット、教えてほしくて」
仕事にかこつけた誘いだったが、紬は、その申し出を素直に受け入れた。
翌日、二人は連れ立って山道を登り、燃えるような紅葉に包まれた渓谷にたどり着いた。
「――綺麗ですね」
樹はカメラを構えながらも、しばらくシャッターを切るのを忘れて、景色に見入っていた。紬も、隣で同じ景色を眺めながら、静かな充足感を覚えていた。
「紬さんのおかげで、良い写真が撮れそうです」
「私は、案内しただけです」
「いえ、それだけじゃないです。……この一週間、正直、紬さんと話す時間が、一番の楽しみになってました」
不意な告白に、紬は思わず樹の方を見た。
「東雲さん、それって」
「はっきり言います。旅館の女将としてじゃなく、一人の女性として、紬さんのこと、好きになっていました」
紅葉の渓谷、燃えるような赤に包まれた景色の中、樹の言葉は、静かに、しかし確かに紬の心に届いた。
「……実は私も、東雲さんが山から戻ってくるの、いつも心待ちにしてました。お客様としてじゃなく、その、一人の男性として」
素直な想いが交わされた瞬間、二人の間に、これまでとは違う、確かな距離感が生まれた。
「東雲さんの滞在、まだしばらく続くんですよね」
「ええ、あと二週間ほどは」
「じゃあ、その間に、もっと、いろんな景色、案内させてください」
紬の申し出に、樹は嬉しそうに頷いた。
「喜んで。……この旅館に来て、一番の思い出になりそうです」
湯けむりの向こう、静かな温泉街に、二人の新しい物語が、紅葉とともに始まっていた。
――第47話 完――