傑作は小さな夜に
色付きのキャンバス
アトリエの古びた木の扉を開くと、油絵の具のつんとした独特の匂いが鼻を刺す。もうすっかり、この匂いにも慣れてしまった。俺は真っ白なキャンバスが立てかけられたイーゼルの前に座った。ただ座っただけで、筆は取らなかった。
ここ1年、思うように絵が描けないからだ。俗に言うスランプとか言うやつだ。目の前に立てかけられた真っ白なキャンバスは、1年ほど前に立てかけたものだ。その立てかけた当時からずっと、このキャンバスは真っ白なままで、色ひとつ付いていなかった。
美大卒業後の若い頃は溢れるアイディアに押されるがまま筆を走らせていた。次々に浮かぶアイディアを夢中でキャンバスにぶつけていた。在学中のサークルの仲間達と合作を描いたり、コンテストに応募して、賞を貰って喜んだあの時代は、俺にとって間違いなく青春だった。
だが、30代にもなるとそうもいかなくなっていった。30代は、画家の中でも大事な時期だ。まだまだ成長の余地がある。周りの画家達も様々な場面で活躍している。こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。そんなことは、もうとうに理解していた。
それでも今の俺は到底、筆を取る気にはなれなかった。
「はあ……」
大きくため息をつく。
目の前のキャンバスをいつまで眺めていても、浮かぶはずのアイディアが輪郭を持つことはなかった。
俺はポケットから煙草の箱を取り出した。一本咥えて火をつける。思い切り息を吸う。肺の中を煙が満たしていく。これも、スランプを忘れるための逃げ道だった。こうしているうちは、絵のことを考えずに済んだ。
いや…考えないように、目を逸らしてきたのだ。
『煙草、やめなさいね』
母親はよく眉間に皺を寄せてそう言った。その度に俺はあからさまに不機嫌な態度を取ってきた。最初のうちは呆れながらも注意してくれた。でも、いつからかそんなことも言われなくなっていった。
おかげで俺はどんどんひねくれていき、中学の頃から散々反対されてきた美大に行く時でさえ、母親は諦めたように許可した。
「チッ」
行先のない舌打ちはやけに情けなく聞こえた。息を吐くと白い煙がアトリエの薄暗い空気に溶けていく。そうしてしばらく吸っているうちに一本の煙草が尽きた。灰皿に押し付けるとじゅう、と音を立てた。
足りない。俺はまたもう一本煙草を取り出そうとポケットに手を入れた。……最悪だ。こんな時に限って、箱の中にはあと2本しか残っていなかった。
「…買い足さねぇと」
財布をポケットに適当に突っ込んでコンビニに向かう準備をする。わざわざ買いに行くのはめんどくさいが、逃げ道が無くなるのはもっとめんどくさい。そう考えれば案外すんなり立ち上がれた。
と、そこで、がちゃん、と背後からアトリエの扉の開く音が響いた。
振り向くと、そこには見知らぬ若い女が立っていた。
「…和臣さん、煙草吸うんですね」
彼女は物珍しそうな顔をしながらそう言った。甘いけど、芯のある声だった。俺の名前を知ってるのが何故なのかは、訊ねないことにした。でも一応、誰なのかは気になるところなのでそれは訊ねることにした。
昔の知り合いの可能性も考えたが、どれだけ記憶を遡っても、ピンとくる人物はいなかった。
「……えっと、どなたですかね?」
「小夜です。小さい夜、と書いて小夜と読みます」
名前を教えてもらいたかった訳じゃないんだけど、と喉まで出かけた声を慌てて引っ込めつつも、珍しい名前だな、と思った。
どんな顔をしているんだろう、と俯いていた顔をあげると、この女が案外綺麗な顔をしていることに気が付いた。大きな瞳に綺麗に整った鼻。透明感のある白い肌。
……絵に描いたらどんなに────
「あの……どうか、しましたか?」
呆けた顔をしたまま無言の俺に、小夜と言った彼女はそう言って不思議そうに首を傾げた。さらりと肩から髪が滑り落ちる。その一連の仕草にしても、綺麗だと感じるほどだった。
「え?あ、あぁ…いや……」
変にはぐらかすような口調になってしまった。
だが、確かに思ったのだ。
目の前の物を描きたい、と。
久しく感じたことのなかった感覚だった。真っ直ぐに流れる黒髪。伏せれば長い睫毛。全てが完璧で、芸術だと思った。
抑えきれず、口を開く。
「ちょっと……描かせてくれないか。そこに座って」
指で目の前の椅子を指すと彼女は驚いたように目を見開いて「え」と声を漏らした。それからきょろきょろと目を泳がせた後で。
「…はい」
示した椅子に座ると、彼女はしばしの間そわそわとアトリエを見渡していた。俺が油絵の具を並べ、筆洗器に溶き油を注いでいると、彼女はようやく口を開いた。
「わたしを、描くんですか」
俺は何も言わなかった。代わりに、一度だけ頷いてから筆を握った。チューブから絵の具を絞り出し、パレットの上で色を混ぜる。久しぶりの感覚に心が揺らめいた。キャンバスに筆を走らせると、不思議なくらいに筆が進んだ。
それから夢中になって彼女を描いた。時間の感覚はどんどん薄れていく中、筆を持つ手が止まることはなかった。何十分、何時間と描き続けた。彼女はずっと姿勢を崩さず座っていた。
「……できた」
そう言って筆を置くと、彼女はゆっくりと立ち上がって俺の背後に立った。彼女はしばらく無言のまま出来上がった絵を見つめていた。俺は気に入らないところでもあったのかと内心焦りながらも、彼女はようやく声を漏らした。
「……きれい」
小さくそう呟くと今度はもっと絵の近くへ歩み寄り、細かい所までよく見ようとしていた。安堵で一気に身体の力が抜ける。
「…本当に、綺麗です」
彼女は終始うっとりと出来上がった絵を鑑賞して、それから嬉しそうに笑った。自分の絵で誰かがこんなに嬉しそうな顔をしたのは、彼女が初めてだった。
「…ありがとうございます。こんなに綺麗に描いてもらえて……嬉しいです」
彼女はそう言ってきらきらと目を輝かせて、時折ふふっと笑って少し照れたような仕草を見せた。
すると、名案を思いついたかのように「あっ」と言って手を叩いた。
「あの…これ、良かったら貰ってもいいですか?」
「……あぁ」
彼女のそんな嬉しそうな声にはっとした。
俺は、忘れていたのだ。
「もちろん」
コンテストで賞を獲る。
審査員に評価される。
いつの間にか、そんなことばかりに固執して、追いかけていた。
画家として生きていく以上、評価されることは必要であるが、それが全てでは無いのだ。もちろん、結果を出さなければ、誰にも見てもらえないは同じなのには変わりない。
けれど、そればかりを考えるようになってから、俺は絵を描くことが苦しくなった。
もっと良い作品を描かなければと。
そんなことばかり考えて、苦しくなっていった。
だから分からなくなった。何を描きたいのか、どういう表現をしたいのか。
小夜は大事そうにそうっと絵を持ち上げて、大きな紙袋に入れた。
「本当に、宝物です。大事にしますね」
そう言って玄関のドアノブに手をかけて小さく手を振った。俺は「あぁ」と短く返した。
「また来ますね」
彼女は満足そうにそれだけ言ってアトリエから去った。
ここ1年、思うように絵が描けないからだ。俗に言うスランプとか言うやつだ。目の前に立てかけられた真っ白なキャンバスは、1年ほど前に立てかけたものだ。その立てかけた当時からずっと、このキャンバスは真っ白なままで、色ひとつ付いていなかった。
美大卒業後の若い頃は溢れるアイディアに押されるがまま筆を走らせていた。次々に浮かぶアイディアを夢中でキャンバスにぶつけていた。在学中のサークルの仲間達と合作を描いたり、コンテストに応募して、賞を貰って喜んだあの時代は、俺にとって間違いなく青春だった。
だが、30代にもなるとそうもいかなくなっていった。30代は、画家の中でも大事な時期だ。まだまだ成長の余地がある。周りの画家達も様々な場面で活躍している。こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。そんなことは、もうとうに理解していた。
それでも今の俺は到底、筆を取る気にはなれなかった。
「はあ……」
大きくため息をつく。
目の前のキャンバスをいつまで眺めていても、浮かぶはずのアイディアが輪郭を持つことはなかった。
俺はポケットから煙草の箱を取り出した。一本咥えて火をつける。思い切り息を吸う。肺の中を煙が満たしていく。これも、スランプを忘れるための逃げ道だった。こうしているうちは、絵のことを考えずに済んだ。
いや…考えないように、目を逸らしてきたのだ。
『煙草、やめなさいね』
母親はよく眉間に皺を寄せてそう言った。その度に俺はあからさまに不機嫌な態度を取ってきた。最初のうちは呆れながらも注意してくれた。でも、いつからかそんなことも言われなくなっていった。
おかげで俺はどんどんひねくれていき、中学の頃から散々反対されてきた美大に行く時でさえ、母親は諦めたように許可した。
「チッ」
行先のない舌打ちはやけに情けなく聞こえた。息を吐くと白い煙がアトリエの薄暗い空気に溶けていく。そうしてしばらく吸っているうちに一本の煙草が尽きた。灰皿に押し付けるとじゅう、と音を立てた。
足りない。俺はまたもう一本煙草を取り出そうとポケットに手を入れた。……最悪だ。こんな時に限って、箱の中にはあと2本しか残っていなかった。
「…買い足さねぇと」
財布をポケットに適当に突っ込んでコンビニに向かう準備をする。わざわざ買いに行くのはめんどくさいが、逃げ道が無くなるのはもっとめんどくさい。そう考えれば案外すんなり立ち上がれた。
と、そこで、がちゃん、と背後からアトリエの扉の開く音が響いた。
振り向くと、そこには見知らぬ若い女が立っていた。
「…和臣さん、煙草吸うんですね」
彼女は物珍しそうな顔をしながらそう言った。甘いけど、芯のある声だった。俺の名前を知ってるのが何故なのかは、訊ねないことにした。でも一応、誰なのかは気になるところなのでそれは訊ねることにした。
昔の知り合いの可能性も考えたが、どれだけ記憶を遡っても、ピンとくる人物はいなかった。
「……えっと、どなたですかね?」
「小夜です。小さい夜、と書いて小夜と読みます」
名前を教えてもらいたかった訳じゃないんだけど、と喉まで出かけた声を慌てて引っ込めつつも、珍しい名前だな、と思った。
どんな顔をしているんだろう、と俯いていた顔をあげると、この女が案外綺麗な顔をしていることに気が付いた。大きな瞳に綺麗に整った鼻。透明感のある白い肌。
……絵に描いたらどんなに────
「あの……どうか、しましたか?」
呆けた顔をしたまま無言の俺に、小夜と言った彼女はそう言って不思議そうに首を傾げた。さらりと肩から髪が滑り落ちる。その一連の仕草にしても、綺麗だと感じるほどだった。
「え?あ、あぁ…いや……」
変にはぐらかすような口調になってしまった。
だが、確かに思ったのだ。
目の前の物を描きたい、と。
久しく感じたことのなかった感覚だった。真っ直ぐに流れる黒髪。伏せれば長い睫毛。全てが完璧で、芸術だと思った。
抑えきれず、口を開く。
「ちょっと……描かせてくれないか。そこに座って」
指で目の前の椅子を指すと彼女は驚いたように目を見開いて「え」と声を漏らした。それからきょろきょろと目を泳がせた後で。
「…はい」
示した椅子に座ると、彼女はしばしの間そわそわとアトリエを見渡していた。俺が油絵の具を並べ、筆洗器に溶き油を注いでいると、彼女はようやく口を開いた。
「わたしを、描くんですか」
俺は何も言わなかった。代わりに、一度だけ頷いてから筆を握った。チューブから絵の具を絞り出し、パレットの上で色を混ぜる。久しぶりの感覚に心が揺らめいた。キャンバスに筆を走らせると、不思議なくらいに筆が進んだ。
それから夢中になって彼女を描いた。時間の感覚はどんどん薄れていく中、筆を持つ手が止まることはなかった。何十分、何時間と描き続けた。彼女はずっと姿勢を崩さず座っていた。
「……できた」
そう言って筆を置くと、彼女はゆっくりと立ち上がって俺の背後に立った。彼女はしばらく無言のまま出来上がった絵を見つめていた。俺は気に入らないところでもあったのかと内心焦りながらも、彼女はようやく声を漏らした。
「……きれい」
小さくそう呟くと今度はもっと絵の近くへ歩み寄り、細かい所までよく見ようとしていた。安堵で一気に身体の力が抜ける。
「…本当に、綺麗です」
彼女は終始うっとりと出来上がった絵を鑑賞して、それから嬉しそうに笑った。自分の絵で誰かがこんなに嬉しそうな顔をしたのは、彼女が初めてだった。
「…ありがとうございます。こんなに綺麗に描いてもらえて……嬉しいです」
彼女はそう言ってきらきらと目を輝かせて、時折ふふっと笑って少し照れたような仕草を見せた。
すると、名案を思いついたかのように「あっ」と言って手を叩いた。
「あの…これ、良かったら貰ってもいいですか?」
「……あぁ」
彼女のそんな嬉しそうな声にはっとした。
俺は、忘れていたのだ。
「もちろん」
コンテストで賞を獲る。
審査員に評価される。
いつの間にか、そんなことばかりに固執して、追いかけていた。
画家として生きていく以上、評価されることは必要であるが、それが全てでは無いのだ。もちろん、結果を出さなければ、誰にも見てもらえないは同じなのには変わりない。
けれど、そればかりを考えるようになってから、俺は絵を描くことが苦しくなった。
もっと良い作品を描かなければと。
そんなことばかり考えて、苦しくなっていった。
だから分からなくなった。何を描きたいのか、どういう表現をしたいのか。
小夜は大事そうにそうっと絵を持ち上げて、大きな紙袋に入れた。
「本当に、宝物です。大事にしますね」
そう言って玄関のドアノブに手をかけて小さく手を振った。俺は「あぁ」と短く返した。
「また来ますね」
彼女は満足そうにそれだけ言ってアトリエから去った。