“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ~わたしの夢は、優しい年上男性に夢の国で告白されること~
第3章 確認済みの相互作用
―研究室内恋愛ではありません(本人談)―
研究室は、いつも通り静かだった。
授業の空きコマに顔を出し、自分のシャーレの様子を観察し、問題がないことを確認して元に戻す。
同じように奥の部屋で白衣を羽織り、丁寧に顕微鏡で観察をしている郁人の元へ、次に使うであろう器具を取りやすい位置に並べて置く。
もう使わない器具を選別して洗浄しようと手を伸ばしたところで、ありがとうと短く淡々とした声が落とされる。
顕微鏡から目を離さないまま、それでもきちんとゆめを認識してくれていたことに、少しだけ胸が温かくなる。
「いえ。
それでは授業へ戻るので、また後で来ますね」
以前なら、少しだけ緊張していた研究室の扉を開く瞬間も、平常心で開けられるようになった。
二人きりになることに身構えていた日もあったのに、今は二人きりでも何も思わない。
同じ顕微鏡を覗きあう近い距離であったとしても、研究室にいる間のその距離感は自然と馴染んでしまった。
静かにドアを閉め、授業へと向かう。
恋愛にしては、落ち着きすぎている。
物語の恋よりも、ずっと静かだった。
それなのに。
お昼の時間になると研究室へ足が勝手に向かう。
彼以外、誰もいない研究室。
PCに向き合っている、彼の手元のカップを回収しようと近付いたとき。
ふいに顔を上げた彼との距離が、思ったより近かった。
息が触れそうな距離。
でも、どちらも離れない。
そのしばらく後には、二人並んで学食へと歩いた。
何故一緒に、とは聞かなかった。
彼からも、聞かれなかった。
何も言わないのに、当たり前のように並んで歩く。
一緒を拒否されたことは、一度もなかった。
◇
三月。
本来なら春休みに入っている時期。
久我教授の学会参加の同行者として、あまりにも自然に郁人とセットで選ばれてしまった。
一緒に学会の準備を手伝い、用意した資料を確認する。
行きの飛行機の中、隣り合う席に座ると離陸後そっと肘置きに置いた手の上に手が重ねられた。
その行為に驚きつつも、嫌ではなかったのでそのまま許していた。
飛行機が完全に安定飛行に入る頃には、そっとその手は離された。
その手の意味を、問う勇気もなく。
ただ、ひたすらに彼の中の自分の立ち位置がよくわからなかった。
◇
学会は滞りなく終了した。
ひやりとする質疑も、教授は想定内のように受け流した。
「お疲れ様」
郁人の声はいつも通り平坦だった。
学会が無事に終わった安堵や、開放感なども、その表情からは伺えない。
「お疲れ様でした」
ゆめの方は、無事に終わった安堵から大きく息をつく。
メイン発表者は教授だが、それでも緊張感溢れる時間だった。
「今日は、このあとどうする?」
確かに問われているはずなのに、どこか確認のように感じる声音だった。
「教授は確か、この後飲み会に参加されるとかでしたよね」
「そう、だから俺たちだけだな」
「今日は特には、予定はありません。
明日も……。
明後日の祝日は、姉のお祝いがあるので実家に戻る予定です」
その言葉を伝えながら、このまま解散するのだろうと思っていた。
「そうか」
一拍。
「戻るのは、明後日の夜?」
「あ、はい。
そのまま春休み中は卒研について詰めていきたいので、戻る予定です」
「……なら、少し残ればいいか」
それは提案というよりは、自分自身への確認のような言葉だった。
ゆめは不思議そうに首を捻る。
「学会は終わったし、せっかく東京に来たんだ。
いる理由があるのなら、無駄じゃない」
「え……、……理由、ですか?」
「今日はどこか、東京っぽいところを観光して。
明日、朝から上野に行けばいい。
国立科学博物館、今こんな展示やってる」
渡されたチラシには“元素の不思議展”と記載されていた。
科学の、根本。
乱暴な言い方にはなるが、すべての研究は元素の形を変えた姿を観察していると言ってもよいのかもしれない。
――118種類の元素が集う世界。
理系脳の二人が、惹かれないはずはなかった。
「行きたい、です」
こんな展示、半日で足りるはずなどない。
朝から行こうと提案してくれたことに、ゆめは何も言わず頷いた。
「じゃあ、決まりだな」
「はい」
ゆめは胸の奥で、小さなピースがはまっていくような感覚を覚えた。
言葉は足りないのに、何かが満たされたような、説明できない感覚。
――一緒にいる選択は、いつも自然に決まっている。
けれど、二人の間を形容する言葉は、まだない。
◇
上野駅に着いたときから、人の流れは多かった。
動物園の方へ流れる人の波に混ざりながら、何とか国立科学博物館の方へと歩こうとしたときに、左の手首が掴まれた。
「はぐれると時間がもったいない」
相変わらず、表情の一つも変えずに告げられた言葉。
だが、掴む手は痛くないようにやさしく加減されている。
「……そうですね」
手を繋いでいると言うよりも、掴まれていると言った方が正しいようなスタイルではあった。
だが、ガラスに反射した自分たちの姿は、普通に手を繋いで歩いている男女に見えた。
特別展の入口から、中へと入る。
一歩踏み入れた瞬間から、そこは別世界だった。
壁に描かれた周期表。
傍に置かれた、水素から並べられたアクリル製の模型がキラキラと輝いて見えた。
「中の元素は、どこまで本物なんだろう」
研究室と同じような真剣な表情で、郁人が模型を見つめる。
その瞳がきらりと輝いて見えたのは、たぶん気のせいではない。
説明書きを一つずつ読み込んで、ちょうどゆめが次に行きたいと思ったタイミングで郁人も歩き出す。
合わせようとしていない呼吸が合っていることが、少しこそばゆい。
こういう場所に来ると、じっくり読みたいゆめと次々移動したいなおに挟まれて、いつもまなが困っていたことを思い出す。
結局、なおに振り回されて引きずられて行ってしまったまなを見送りながら、ゆめはマイペースに自分の知的好奇心を満たしていた。
今は、そのマイペースが一人のものじゃない。
最初の方は、結構身近な元素が多い。
高校の化学でおなじみの、カリウムやナトリウムのエリアでは最初に見た時の衝撃を思い出す。
「ナトリウムとか、塩のイメージが強いけれど、初めて見た時にちゃんと金属で驚いた」
「わかります。
ナイフで簡単に切れてしまうことにも驚きでしたが、切り口がちゃんと銀色で……。
その反応性の激しさもですが、こんな不安定な元素を元素のまま保存できてしまうことにも驚きました」
「わかる」
足を止めてじっと二人で見つめる。
希ガスやハロゲンのエリアでは、暗室になってその灯りを楽しめるようにできていて、幻想的な雰囲気に周りのお客さんたちの息を飲む声が聞こえてくる。
ゆめも、例に漏れずに息をするのも一瞬忘れて見とれた。
知識としては知っている。
けれど、体験として見るのは、また違った。
手首を掴む力がほんのわずかに緩む。
きっと彼も、同じように感動してる。
やがて、ひときわ賑わっているコーナーへとたどり着く。
展示物は炭素やベリリウムを基にした……いわゆる“宝石”と呼ばれるエリアだった。
アクアマリンやエメラルドが並ぶ、贅沢な展示。
「同じベリリウムでも……。
混ざるものが違うだけで、こんなに違う顔を見せるんですね」
そう呟いたゆめの顔を、郁人が一瞬だけ見る。
そしてまた、すぐに展示パネルへと視線を戻した。
「条件が違えば、性質は変わる。
どっちも嘘じゃない」
確かにその通りだ。
現にベリリウムだって、宝石としてだけでなく様々な分野で活躍する。
人間だって……同じだ。
次に人だかりができていたのは、金属の重さの体験コーナーだった。
同じような形の金属が並ぶが、その色や重さは全然違う。
「ぅ……重っ……」
郁人も同じように持ち上げる。
ほんの一瞬だけ、口角が上がったような気がした。
「密度、全然違うからな」
ぽつりと零されたその言葉には、続きがない。
こういう時、この人は言葉を足さない。
特別展の終わりに、ミュージアムショップがあった。
科学雑誌や模型がお手頃価格からそれなり価格まで並ぶ。
ゆめはアクリルでできた例の周期表模型を手に取る。
入口で見たものよりは小ぶりだけれど、キラキラと輝いて見えるその魅力は変わらなかった。
だが……ちらりと値段を見て、そっと戻した。
別のコーナーを覗く。
そこには先ほどみたカリウムやナトリウムを含む様々な元素の原子構造がアクリルキューブに刻印されて並んでいた。
全部揃えたら大変な金額になるが、一つなら手に届かないほどの値段ではない。
きれいな同心円の輪が刻まれたカリウムの模型を手に取ると、同じように郁人はナトリウムを手に取っていた。
目を合わせて、頷きあう。
世界一きれいな周期表を謳うポスターも購入し、二人は大満足の表情で特別展を後にした。
常設展示のエリアは人があまり多くなかった。
やはりみんな特別展をじっくり楽しんでいるのだろう。
「わたし……ここに来るときはいつも特別展が目当てで……常設展示は時間が足らなくて、駆け足でしか見たことがなかったんですよね」
「わかる」
二人で万年時計をじっと見つめる。
静かなエリアで、ずっと揺らぎ続ける時計。
ふと郁人の方を見ると、思ったより近かった。
時計を見るために、少しかがんでいたのだろう。
そのまま、自然に唇が触れる。
すぐに離されたあと、何事もなかったかのように次の展示の方へと歩いていく。
気が付いたら、当たり前のように回数だけが増えていた。
嫌じゃない。
でも、理由は定義されてない。
結局、時間いっぱい科学博物館を楽しんでしまった。
お昼ご飯も食べず、大した休憩も取らず。
食事のために入った店でやっと座った時には、もうしばらく立ちたくないと思うほどに足が疲れていた。
これが普通のデートなら、失格プランだ。
でも、楽しかった。
運ばれてきた、野菜たっぷりのカレーとスープを一口食べる。
やさしい温かさが体に沁みた。
同じように、スープをスプーンで一口食べる彼を見る。
相変わらず表情は変わらないけれど、スプーンを運ぶ速度が味わうようにゆっくりだ。
きっと満足している。
そのまま、今日は宿泊先のホテルから実家へと移る。
大きな荷物はほとんどない。
今朝、チェックアウトの時。
荷物を抱えて実家まで行くつもりだったゆめに、郁人がスーツケースを預かると言ってくれた。
京都へは新幹線で帰るつもりだったので、今の宿泊先の品川はベストな位置だった。
「いいんですか?」
「持ち歩くのは非効率的だ」
その一言で、彼の部屋へと荷物を入れる。
明日のチェックアウトの時、二つスーツケースを持つことになるのに、その非効率は見ないようだった。
◇
ガーデンパーティーもできそうな、きれいなテラスのあるレストランで、まなと陸の結婚祝いのパーティーをした。
姉が幸せそうに笑っている姿を見て、ほっとした。
パーティーが終わった後、京都に戻るからと告げて一足先に会場の外へ出る。
明るい午後の日差しが、薄紅色の花に透けてきれいだった。
スマートフォンがメッセージの受信を告げる。
確認後、顔を上げると少し離れたところに郁人が立っていた。
「すみません、迎えにきてもらって……」
「いや、一緒の新幹線に乗るのだから、その方が無駄がない」
ゆめ視点ではそうなのだが、郁人視点ではどうなのだろうか、と思いかけたところで「ゆめ!」と後ろから声が掛けられる。
振り返るとそこにいたのはまなだった。
「! ……ごめん、誰かと一緒とは思わなくて」
「ううん、大丈夫だよ」
郁人の存在に気が付くと、驚いたように声を小さくするまな。
その瞬間、胸の奥がほんの一拍だけ跳ねた。
「沢木さん、姉です」
「……浅瀬、まなです。
はじめまして」
少しだけ照れた感じで名前を言うまなに、郁人は目を向けると、淡々といつものトーンで挨拶をした。
「沢木郁人です。
妹さんと同じ研究室の学生」
郁人はまなを一度だけ見て、すぐにゆめの方へ視線を戻した。
失礼にならない、ぎりぎりのライン。
胸の奥で跳ねたものは、それ以上大きくならなかった。
「あ、そうだ……これ……」
まなが手渡してきた紙袋には、たくさんの手作りクッキーが詰まっていた。
「昨日陸くんと一緒に焼いたの。
よかったら新幹線で食べて」
「うん、ありがとう」
料理上手な姉のクッキーは掛け値なしで美味しい。
ありがたくいただくと、まなに手を振って郁人と並んで歩き出す。
右手に、彼の指先が触れた。
そのまま緩く、手首を掴まれる。
――まるで何かを、確認するかのように。
「スーツケース、駅のロッカーに入れてある」
「ありがとうございます」
この人は、いつも言葉が足りない。
けれど、まっすぐに、こちらを見てくれる人だ。
――気づけばもう。
「研究室に行く理由」ではなく、「帰る場所」を共有し始めている。