『君が消した夏の手紙』
第2話 君は、この手紙を知らない
 翌朝。

 僕は目を覚ますなり、昨日の出来事を思い出した。

 図書室。

 古い日記。

 凛から僕に宛てられた手紙。

 そして――。

『七月二十九日、湊くんは私を忘れる。』

 夢ではない。

 机の上には、昨日持ち帰った封筒が置いてある。

 ただし。

 中身の便箋は、昨夜から何度探しても見つからなかった。

 僕は制服に着替え、学校へ向かった。

     *

 教室に入ると。

 凛はもう来ていた。

 窓際の席。

 いつものように本を読んでいる。

 僕は自分の席に鞄を置いた。

 そして。

 凛を見る。

 目が合った。

 凛はすぐに本へ視線を戻した。

「水野。」

「……何?」

「昨日の手紙。」

 凛の指が止まった。

「その話、しないで。」

「でも。」

「お願い。」

 凛は僕を見ない。

「誰かに聞かれたら困るから。」

「誰に?」

「……分からない。」

「分からないって?」

 凛は小さく息を吐いた。

「神谷くん。」

「うん。」

「昨日のこと、本当に何も覚えてない?」

「三年前のこと?」

「うん。」

 僕は少し考えた。

「何も。」

 凛は目を伏せた。

「そう。」

「でも、昨日。」

「何?」

「一瞬だけ思い出した。」

 凛が顔を上げた。

「何を?」

「凛が。」

 言葉を選ぶ。

「僕に何か言ってた。」

 凛の顔から。

 血の気が引いた。

「何て?」

「たぶん……。」

 僕は答える。

「『好き』って。」

 教室の空気が。

 一瞬だけ止まった。

 凛は。

 何も言わなかった。

 ただ。

 机の下で手を強く握っている。

「違う?」

「……違わない。」

 小さな声だった。

「やっぱり。」

「でも。」

 凛が僕を見る。

「それは三年前の話。」

「うん。」

「今は違う。」

「どうして?」

「忘れて。」

「無理だよ。」

「どうして?」

 僕は答えた。

「昨日、僕宛ての手紙を見つけたから。」

 凛は黙った。

 そして。

 突然。

「神谷くん。」

「うん。」

「今日の放課後。」

 一拍。

「屋上に来て。」



 その日の授業は。

 ほとんど頭に入らなかった。

 黒板の文字を写しているのに。

 意識は三年前に飛んでいく。

 三年前の夏。

 僕は何をしていた?

 どこにいた?

 なぜ。

 凛との記憶だけが抜け落ちている?

 昼休み。

 僕はスマートフォンを開いた。

 写真フォルダ。

 二〇二三年。

 七月。

 何枚か写真がある。

 家族。

 友達。

 夏祭り。

 でも。

 七月二十九日だけ。

 写真が一枚もなかった。

「……なんでだ?」

 僕が呟いた。

「何が?」

 突然。

 後ろから声がした。

 黒田悠真だった。

 クラスメイトで。

 僕とは中学からの付き合いだ。

「三年前の写真。」

「三年前?」

「うん。」

「何かあった?」

「七月二十九日だけ写真がない。」

 悠真は。

 一瞬だけ黙った。

「そりゃ、写真くらい消すこともあるだろ。」

「そうかな。」

「そうだよ。」

「じゃあ。」

 僕はスマートフォンを見せた。

「この写真は?」

 七月二十八日の写真。

 僕。

 悠真。

 そして。

 もう一人。

 顔が。

 黒く塗りつぶされている。

「……何これ?」

 悠真の顔が変わった。

「僕が聞きたい。」

「誰だ?」

「分からない。」

「お前の写真なのに?」

「そう。」

 悠真は写真をじっと見た。

「これ。」

「何?」

「俺、この写真。」

 一拍。

「覚えてない。」



 放課後。

 僕は屋上へ向かった。

 扉を開ける。

 夏の風が吹いている。

 凛がフェンスの前に立っていた。

「来たんだ。」

「呼んだのは凛だろ。」

「そうだったね。」

 凛は笑った。

 でも。

 いつもの笑顔ではない。

「昨日の手紙。」

「うん。」

「本当のことを話す。」

 僕は黙って聞いた。

「三年前。」

「うん。」

「私と神谷くんは。」

 一度。

 空を見上げる。

「付き合ってた。」

 心臓が。

 大きく鳴った。

「……僕たちが?」

「うん。」

「いつから?」

「七月二十日。」

「そんなに短い?」

「うん。」

 凛は少し笑った。

「たった九日間。」

「九日……。」

「でも。」

 凛は続ける。

「私にとっては。」

 一拍。

「三年間ずっと続いてる。」



 僕は何も言えなかった。

「どうして別れたの?」

「別れてない。」

「え?」

「私たちは。」

 凛が僕を見る。

「別れたんじゃない。」

「じゃあ?」

「神谷くんが。」

 凛の声が震える。

「私を忘れた。」



 胸の奥に。

 冷たいものが落ちた。

「事故?」

「違う。」

「病気?」

「違う。」

「じゃあ、どうして?」

 凛は答えなかった。

 代わりに。

 制服のポケットから。

 一枚の写真を取り出した。

 三年前の写真。

 海辺。

 僕と凛が並んでいる。

 僕は笑っている。

 凛も笑っている。

 そして。

 写真の裏側。

『七月二十九日。二人で約束した。』

「何の約束?」

 凛は首を振る。

「思い出して。」

「無理だよ。」

「だから。」

 凛は僕に写真を渡す。

「これを見て。」

 写真の右下。

 海岸に。

 誰かが立っている。

 制服姿。

 背中しか見えない。

「誰?」

 僕が聞く。

 凛は答えた。

「三人目。」



「三人目?」

「私たちの友達。」

「誰?」

「名前を言えない。」

「どうして?」

「その人の名前を口にすると。」

 凛は唇を震わせた。

「また、誰かが忘れるから。」



 僕は写真を見つめる。

「じゃあ、悠真は?」

「違う。」

「藤崎?」

「違う。」

「他に誰がいた?」

「……いた。」

「誰?」

 凛は。

 答えなかった。

 そのとき。

 屋上の扉が開いた。

「神谷。」

 悠真だった。

「先生が探してるぞ。」

「分かった。」

 悠真が凛を見る。

 その瞬間。

 凛の表情が変わった。

「黒田くん。」

「何?」

「七月二十九日のこと。」

 悠真が固まった。

「……何の話?」

「三年前。」

「知らない。」

 即答だった。

 凛は。

 悲しそうに笑った。

「そう。」

 そして。

 僕に小さく言う。

「やっぱり。」

「何が?」

「もう一人。」

 凛が悠真を見る。

「まだ忘れてる。」



 その日の夜。

 僕は机に向かっていた。

 写真を置く。

 昨日の封筒。

 そして。

 三年前のスマートフォンの写真。

 何度見ても。

 同じことしか分からない。

 僕と凛。

 そして。

 背中を向けた三人目。

 誰なのか。

 思い出せない。

 僕は写真を裏返した。

 そこに。

 小さな文字がある。

『三人で約束した。』

 その下。

『誰か一人が忘れれば、残り二人は助かる。』

「……何だよ、これ。」

 さらに。

 写真の端に。

 昨日の手紙と同じ筆跡で。

 新しい文字が書かれていた。

『湊へ。』

『もし君がこれを読んでいるなら、私はもう一度、君を忘れさせる。』

 僕は息を止めた。

 その瞬間。

 スマートフォンが鳴った。

 知らない番号。

 出る。

「もしもし?」

 返事はない。

 ただ。

 向こうから。

 蝉の声が聞こえる。

 そして。

 誰かが小さく呟いた。

「湊……。」

 女の声。

 凛ではない。

「誰?」

 返事。

「お願い。」

 一拍。

「七月二十九日になる前に――」

 電話の向こうで。

 何かが倒れる音。

 そして。

「あの子を見つけて。」

 通話が切れた。

 僕はスマートフォンを握りしめた。

 画面を見る。

 着信履歴には。

 番号が表示されていない。

 代わりに。

 発信者名の欄に。

 見覚えのない名前が表示されていた。

『水野凛』

 僕は凍りついた。

 でも。

 凛は今。

 自分の部屋にいるはずだ。

 僕は震える指で。

 もう一度、電話をかけた。

 呼び出し音。

 一回。

 二回。

 三回。

 そして。

 誰かが出た。

「……湊くん?」

 凛の声だった。

 僕は息を呑む。

「凛?」

「うん。」

「今、どこにいる?」

 電話の向こうで。

 凛が答えた。

「家だよ。」

 その瞬間。

 僕の部屋の窓の外から。

 声が聞こえた。

「湊くん。」

 僕はゆっくり振り返った。

 窓の向こう。

 暗い道路の向こう側に。

 一人の少女が立っている。

 制服姿。

 長い髪。

 そして。

 こちらを見ている。

 僕は電話を耳に当てたまま。

 窓の外を見る。

 電話の向こうの凛が言った。

「どうしたの?」

 僕は答えられない。

 なぜなら。

 窓の外の少女が。

 僕に向かって。

 ゆっくり手を振っている。

 そして。

 その少女の口が。

 はっきり動いた。

「私のこと、思い出して。」

――第2話 完。

第3話「三年前の夏休み」へ続く。
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